第六話 悲恋の旅


 原稿の束を抱えて小樽行きの列車に乗り込んだ。窓の外に流れる景色は、昨日の別れの言葉と重なって、胸を刺すようだった。


 恋人の面影を払いのけて、職場を後にした自分の行動が、今では後悔となって胸に染みていた。


「これじゃ、私らしくない」


 朝空につぶやいた。


 雪雲の空の下、夜行列車から見えるのは、希望と夢が繋がる故郷の海だった。六年ぶりに目にするその海は、冬の静けさに包まれていた。木枯しと波のざわめきが、私の心を揺さぶり、列車は忘却の彼方へと走り去る。


 小樽駅に降り立ち、雪に包まれた静寂の中で、私は自分の運命を五円玉に託した。その冷たい金属が手の中で転がる感触と共に、未来への期待と不安が交錯する。


 表が出れば新しい未来へ、裏が出れば寂しい過去に。稲穂の表面は人生の旅路、裏面は失恋の痛みを象徴する。


 都会の夢にすべてを賭けた私だが、今はただ、神様の導きを信じるしかない。

 

 しかし、空に向かって投げた五円玉は手のひらで受け止められなかった。不意に転がり落ち、水たまりにぽしゃんと沈んでいった。よりによって、こんな時に裏表の判断が出来なくなった。


 ああ、なんということだ。五円玉が決める運命に、私の心は焦燥を隠せなかった。そんな時、亮太の声が時空の風に乗って届く気がした。「心配しないで、早く都会に戻っておいで」と。


 けれど、それは過ぎ去った言葉だった。今さら、我が儘な自分を責めても、時間は二度と戻らない。



 一瞬、母さんの優しい笑顔が心に浮かび、大切な思い出に包まれた。しかし、その感傷に浸る間もなく、私は仕事を思い出して、小樽の過去と未来を紡ぐ作家の家へと足を進めた。


 雪に覆われた静かな温泉街にひっそりとたたずむ彼の家。インターホンを押すと、年老いた男性の温かい笑顔が出迎えてくれた。


「よお、こんな雪深いところまで来てくれたなあ……」


「遅くなってごめんなさい。原稿をお持ちしました」


 作家は真剣な眼差しで原稿に目を通し始めた。私は彼の肩越しに原稿を見つめ、作家の反応を探った。彼の眉がひそめられ、唇が薄く開いたとき、私は心の中で小さな勝利を祝った。


「ほう、幻のニシン漁のことまで……。さすが小樽の娘だね」


 彼の言葉に、心が温かくなり、目頭が熱くなった。褒めてくれたのは、かつて両親と訪れた「鰊御殿」の記憶を辿りながら書き上げたものだった。そこに、今はもう見ることのできない賑やかなニシン漁の残像を描いていた。


「これはいい。この調子でいこう」


 彼は私の手直しに満足した様子で、余市の昔と未来に関する新聞記事を見せてくれた。「鉄道が廃止された後の余市に、どんな未来が描けるだろうか」それが次の小説の舞台になるのかもしれない。


 私の中で余市の記憶が蘇り、「また訪れてみたい」という願いが湧き上がる中、ひなちゃんからの突然の電話が鳴り響いた。


「今、大丈夫ですか? 急用がありまして」


「いいよ。何でも話してみて」


「実は、全て勘違いだったんです。ごめんなさい」


 私はすぐに立ち上がり、作家の視線を避けながら、ひなちゃんの告白を聞いた。妊娠の事実は、同僚の男性によるものだった。亮太と編集長の密談は、その不始末の処分についてだった。ひなちゃんは、ただ間違えてしまったのだ。


 涙をこらえつつ、彼女を責めることはできなかった。亮太を信じ切れなかった自分に非があったからだ。しかし、一度決めた彼との別れは変えられなかった。


「葉月さん、どうぞ今晩はこちらにお泊まりください」


 客間に戻ると、作家は私に向かって微笑んだ。彼の目は優しさで満ちており、その視線は私を包み込んだ。私たちは言葉を交わさずとも、互いの存在を深く理解し、尊重していた。彼の優しさに心から感謝し、小樽の静寂な夜を彼の家で過ごすことにした。彼は、私の涙を静かに受けとめ、心の傷を癒そうとしてくれた。


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