第五話 涙の向こう
「先輩は、野々村さんと恋仲ですよね?」
ひなちゃんの声には、重みがあった。彼女の目は遠くを見つめ、私との視線を避けている。言葉を選ぶように、ためらいながら話し始めた。
「それが、何か問題でもあるの?」
私は平静を装いつつ、静かに問いかけた。
「先輩は私にとって大切な恩人です。芸能界から追放され、生きる希望を失いかけた時、あなたが助けてくれたんです。だから、今夜は恩返しをさせてください」
「急にどうしたの? 何でも話してよ」
「先輩を裏切って、別の女性を妊娠させたんです!」
ひなちゃんの言葉は私の心を凍らせ、涙が溢れ出た。
「えっ、野々村さんがそんなことを……」
私の声は震え、信じられないという感情がこみ上げてきた。涙の向こうには、暗闇が顔を覗かせていた。
「本当です。昨日、編集長と彼の密談を耳にしました」
亮太の浮気相手は、会社で評判の美人で、経理部にいるという。彼は子供まで作ってしまった。彼らの会話からは、「野々村君、どうするんだ。このままではダメだろう」という言葉が何度も聞こえてきたという。
彼の裏切りの話を聞くたびに、私の心は怒りと悲しみで溢れ、止めどなく涙が流れた。彼が私に見せてくれた優しさは一体何だったのだろう。信じていた全てが、まるで砂上の楼閣のように崩れ去ってしまった。
「ひなちゃん、お酒を頼んで。今夜は徹底的に飲むわ。一緒にいてね」
アルコール度数の高いドライマティーニを手に取り、現実から逃れたい一心で飲み干した。目を閉じて飲むたびに、喉が焼けるように熱くなった。
愛という名の知的な遊戯は、かつての楽しい記憶と共に、泡のようにはかなく消え去った。透明なグラスに映る私の顔は、虚無を映し出し、テーブルに並ぶ空のグラスが、私の静かな涙の音を響かせた。
「ひなちゃん、本当にありがとう」
心に空いた穴を感じながらも、私は彼女に感謝の言葉を伝えることができた。まだ亮太に対する問い詰めが残っていた。電話をかけると、彼はいつものように、「あやこ、何かあったの?」と尋ねてきた。
私はもう彼の言葉を信じることができなかった。「子供まで作った浮気」という事実を彼に突きつけた。
「おいおい、それは間違いだよ」
亮太はすぐに否定した。
「浮気なんかしていない。どこでも駆けつけるよ。信じてほしい」
亮太はそう言葉を続けたが、私は彼の弁解を聞きたくなかった。
「もう十分だよ。これ以上会いたくない。さよなら」
私の声は冷たく、毅然としていた。その言葉がふたりの間に沈黙をもたらし、彼との愛が幕を閉じたように感じた。
*
深夜、私はひとりしたたかに酔ったままでマンションに戻った。床についても、悲しみの連鎖が私の凍りついた心に、纏わりついて離れなかった。
そのまま夜明けになったが、目が冴えるばかりで、失恋の傷は癒せなかった。
朝になると、定刻より早く仕事場へと向かった。オフィスに顔を覗かせると、亮太以外の姿はなかった。彼と目が合った途端に、私の怒りはこみ上げてきた。
「取材旅行に行かせてください。有休でも構いません。ダメなら退職します」
亮太が何かを言おうとしたのはわかった。だが、私の心はもう閉ざされていた。ただ彼の目は赤く染まっており、きっと私と同じく一晩中眠れなかったのだろう。
彼と顔を合わせるだけで、心に深い痛みがさらに広がっていくのが辛かった。会社をすぐに辞めることも考えた。しかし、手がけていた編集や校正の仕事は、どうしても最後までやり遂げたかった。
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