第二話 初恋の運河
小樽は、北海道屈指の観光地として有名だが、実は「文学の聖地」と呼ばれることもある。石川啄木や小林多喜二などの作品にも描かれており、運河の畔には彼らの文学碑が立ち並んで息づいている。
碑のそばには、彼らの作品をたたえる文学館がある。そこは、文学少女の精神的な支えになっており、私も家路への道すがらその施設に立ち寄ってみた。
夕暮れの川面は窓越しに銀河を映すように輝き、その美しさが心に刻まれた。書棚へと視線を移すと、そこには長い間心待ちにしていた風景画家・小早川敦の作品「小樽からの手紙」があった。
表紙のイラストには、故郷の光と影が生き生きと描かれており、私にとってかけがえのない宝物を見つけた瞬間だった。そのとき、背後から男性の声が届き、運命の出会いを予感させた。
「あのぉ……。その本、僕も読みたかったんです」
「えっ、本当に?」
「はい、でもいいです。ただ、お願いがあります」
彼は、読み終わったら感想を書いて、本の間に栞として挟んでほしいと真剣な眼差しで頼んできた。私は不思議な気持ちになりつつも、その願いを受け入れた。
東京の出版社でエディターをしており、たまたま故郷の余市に里帰りしていた。余市は小樽の隣町で、私の住むところからも近い。年上だが、爽やかな笑顔と優しい物腰が印象的だった。
これは、初恋なのかもしれない。彼との出会いが、私の心に新しい物語を紡ぎ出していた。後ろ姿を見つめ、もっと話したかったという心残りを抱えつつ、彼が譲ってくれた本を開いた。
月と星が輝く青空に映える雪が、極寒の港町に白いベールをかけた。ひとりの男が海岸を歩き始めた。かつて恋に破れて故郷を離れた彼は、二十年ぶりに帰ってきたのだ。
運河は海へと続き、波立つ音楽のように響く。海鳴りは地吹雪の夜でも聞こえ、言葉を交わせば唇が冷たく、黙っていても木枯らしは吹きつける。雪明かりは凍えた手足を温めてくれるが、心はずっと寒いままだ。
淡雪が降り積もった冬の運河は、光と影で飾られている。その両岸には、昔ながらの建物やモニュメントが立ち並んでいる。彼はその中に、かつての恋人の面影を探した。海鳴りや波の花、雲の空はすべて海と繋がる。海や運河はこの街の命であり、歴史であり、文化である。
作家は
彼はこの街に恋をした。故郷の人々が彼を暖かく迎えるのだろうか……。
本は長編小説となっており、短い時間では読み切れなかった。私は本を借りる手続きをしようとカウンターに向かった。
ところが、そこでは先ほどの彼が図書カードに自分の名前を書いていた。
玄関口で外を眺めると、雷が鳴り響き、今にも天気が変わりそうだった。春雷かもしれない。天気を心配したのか、そばで空を見上げる野々村の姿に目が留まった。私は、彼の存在に心を奪われて、思わず声をかけた。
「よかったら、これを使ってください」
私は黄色のパラソルを差し出した。
「えっ、でも……」
「大丈夫。うちはすぐそばだから」
野々村は一瞬ためらいの気配を見せたが受け取ってくれた。今日、三度目の不思議な出会いとなった彼は、頭を垂れながら駆け足で駅へと立ち去っていった。
私は野々村の姿が視界から消えると、ひとりになり目を閉じた。私の想いは心に描く寂しい絵画となっていた。
透き通るような海と空、街の青のテープストリー。白いキャンバスに映る青い絵の具と光。ぼんやりとした春の日差しに包まれて。目に飛び込んできた一羽の鳥。大きな翼と黄色い瞳に赤い輪。自由に空を飛ぶその姿に、私はうらやましさを感じた。
「旅立ちの自由よ、なんて美しいのだろう」
ウミネコよ、恋する暖かな地へと舞い上がれ。その瞬きは旅立ちの合図、羽を休めてはもう一度飛び立つ。私の心も連れ去ってしまうその姿に、涙がこぼれた。私は彼のことを想っていたのだ。
小樽の運河を見つめ、憧れを胸に旅立つウミネコよ。私の心も恋人を追いかけてどこまでさまようのだろうか……。
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