鏡のうら

オキタクミ

鏡のうら

 四辺が折り込まれて正方形になったガレットには、ごろごろとした南瓜とブロッコリーと温泉卵が載り、クミンの香りのする白いソースがかけられている。さらにそのうえには、粗挽きの胡椒と真っ赤なパプリカ・パウダー。正方形の手前の角を南瓜ごとフォークで突き刺し、ナイフで切り取る。フォークの先の直角二等辺三角形をナイフで折り畳んで、口にいれる。南瓜の重たさと甘さが、クミンの爽やかな香りといっしょに、口の中に広がる。

 「どう?」

 「——おいしい」

 真正面に座る悠朔ゆうさくが、どこか鼻につく、得意げな笑みを浮かべる。額を出すツーブロックの髪型。無地の白Tシャツに高そうなジャケット。手首にはブランドものの腕時計。そのビジュアルは、表参道の陽当たりが良くて趣味の良いカフェの背景に、いかにも過ぎるくらいに馴染んでいる。けれど顔つきだけは、中学生のときと変わらない、特徴のない童顔だ。

 「今なにしてんの?」

 悠朔の問いに、

 「普通に、大学生」

 と応える。

 「悠朔は?」

 「おれも。けど、卒業まではいないかもな」

 「へえ。なんで」

 「最近、仕事のほうが忙しいからさ」

 学生のうちに起業だか投資だか仮想通貨だかでずいぶん稼いでいるらしいという話は、何ヶ月か前、ひさしぶりに中学の同級生と会ったときに聞いていた。さも大ニュースのようにその話を教えてくれた同級生は、私の反応の薄さが意外らしかった。元彼のこと気にならないの? そう言われ、「元彼」というのもなんだか嫌な言葉だなあと思った。なんとなく恋愛に興味が出てきた頃に付き合って欲しいと言われて、嫌な理由も特に見当たらなかったから付き合ったものの、やはりなんとなく、自分のしていることに意味がないような気がして、すぐ別れてしまった。良い思い出も悪い思い出もあってないようなもので、ただ、自分という人間の中途半端さと身勝手さへの後ろめたい思いだけが、薄らと尾を引いている。

 同級生から聞いた話も忘れかけた頃、不意に悠朔から連絡が来た。ひさしぶりに会わない? と。なんで会うことにしたんだっけな、と考えて、別に嫌な理由も見当たらなかったからだ、と気づき、後ろめたい思いがぶり返す。悠朔の顔を見返すが、そこにあるのは自慢げな笑みだけで、私への恨みなんて思いもよらないようだ。ふと、「隔世の感」、なんていう、堅苦しい言葉が頭に浮かぶ。

 「なに書いてんの?」

 悠朔に言われてはっとする。テーブルの隅に置いた右手の動きが止まる。人差し指で、「隔世の感」と、鏡文字で書いている途中だった。「世」の一番短い横棒のあたり。

 「なんでもないよ。癖。ただの」

 「それ、おれと付き合ってた頃もよくやってたよね」

 「小学生のときからだから」

 「なんか意味あるの?」

 「いや、意味とかはべつに」

 決まりが悪い気がして、右手を膝の上に置く。

 「このあと暇?」

 と、悠朔が言う。

 「んー、まあ」


——


 小学校の同級生に、みちるくんという子がいた。勉強が苦手で、先生や同級生とのやり取りもどうも噛み合わない感じだった。先生は彼に対して苛立ちを隠せないみたいだったし、同級生たちは子どもらしい残酷さで彼を良くからかっていた。

 みちるくんは字を書くのが好きだった。授業中は、板書とは関係なく、ひたすら教科書の字をノートに写していた。教室のところどこにあった落書きの字の八割くらいは彼のものだった。落書きのうちどれが彼のものかはすぐにわかった。みちるくんはが書く文字はいつも鏡文字だったからだ。

 他にも落書きをしている子はいたけれど、犯人が誰かわかるのはみちるくんのときだけだったから、彼はいつも怒られていた。あるとき、限界を迎えたらしい先生が、かなり強く、ほとんど怒鳴るみたいにしてみちるくんを叱りつけた。落書きのことだけでなく、ノートをとるときにも、逆さまに書くんじゃなくちゃんと皆と同じ向きに書けと。すると、とうとうみちるくんは落書きをしなくなり、ノートの文字も正しい向きに書くようになった。内容は相変わらず教科書の丸写しだったし、正しい向きに書かれた彼の文字はどこかぎこちなかったのだが、先生は満足したようだった。

 けれど、国語の授業中、先生の動きに合わせて教室中の生徒全員で漢字の空書きをしているとき、私は、みちるくんが鏡文字に漢字を書いていることに気づいた。私はたまたま席が真後ろだったから気づいたのだが、他には誰も気づいていないみたいだった。それ以降も注意して見ていると、彼は毎回、空書きのときだけ鏡文字を書いていた。しばらくして、私は、目の前に座るみちるくんの動きを真似して、自分も鏡文字を書くようになった。先生を出し抜いている感じがして楽しかった。そのうち私は、頭に思い浮かべた文字をその場で反転して書けるという、変な特技が身についた。

 ところが、半年くらいして、いつものように私とみちるくんが鏡文字で空書きをしていると、突然、先生が怒鳴った。みちるくんが逆向きに文字を書いていることに、今さらのように気づいたのだった。先生の剣幕は、みちるくんに落書きをやめさせたとき以上だった。私は、いつその矛先が自分に向くかと恐れて、身を縮めていた。しかし、先生は、私も同じように鏡文字を書いていたことには気づいていなかったらしく、怒られたのはみちるくんだけだった。

 その授業は学期の最後の国語の授業だった。次の学期からは、教室にいる全員が、正しい向きに漢字を書いていた。みちるくんは学校に来なくなったし、私はひとりで鏡文字を書き続けるほど大それた人間ではなかったからだ。

 私の癖が始まったのは、それからさらに一、二ヶ月経ってからだった。理由は忘れてしまったが、私はみちるくんを追い出したのと同じ先生に怒られていた。俯き、気づかれないように、膝の上に指で先生の悪口を書いた。ばれると怖いから、見られてもわからないよう、鏡文字で。

 それ以降私は、ひとになにか気に食わないことを言われているとき、指先で鏡文字を書いて悪態をつきながらしのぐという、悪い癖がついた。一度も気づかれたことはなかったから、重宝した。やがて、さすがに怒られているときには神妙に聞くようになったが、退屈なときとか考え事をしているとき、頭の中に浮かんだ言葉を無意識のうちに鏡文字で書くという形で、癖が残った。


——


 悠朔に連れられて辿り着いたのは、表参道から横道に入って数回折れたところにある、ガラス張りのギャラリーだった。入り口を入り、受付の前を通り過ぎると、壁には展覧会の趣旨を説明するパネルが掛けられている。


 「この展覧会では、さまざまな恵まれないひとびとの作品のみを展示しています。彼らは私たちが文明社会のなかで失った『純粋さ』を持ち続けています。ここに集められた作品の数々がその証拠です。しかし、彼らは社会のひずみによる不幸な境遇にあります。

 この展覧会を通して、私たちはそんな社会問題にチャレンジします。私たちは自ら足を運んで作家とふれあい、作品を選定し、専門家とともに適正な価格を設定しました。作品販売による利益は作家へと還元されます。私たちは作品を通して失われた『純粋さ』を取り戻し、素晴らしい作家たちには経済的支援がもたらされる。このような有機的な相互関係こそが、持続可能で包括的な共生社会のために必要なものなのです」


 その下にはクラウド・ファンディングへの呼びかけが添えられ、隣には、知らない政治家から届いた胡蝶蘭が飾られている。

 「いい試みだよね」

 そう悠朔が言ってくる。私は少し逡巡するが、それを呑み下すようにして、そうだねと応える。

 入り口のそばに立ったままぐるりと見回す。白くて四角くて清潔な小ぶりの空間の四方の壁に、所狭しと作品が並んでいる。立体作品はなく、全て平面作品で、部屋に飾りやすいサイズのものが多い。どの作品も、均されたように一様にカラフルだ。絵の具から取り出した原色を画面に詰め込んだみたいに。

 悠朔が右のほうから見始めたので、私は反対に進み、時計回りに作品を見ていく。画面いっぱいの大きさの魚。細密に描き込まれた街。手をつないで笑っているたくさの人たち。クレヨンで描かれた抽象図形。

 そんな絵たちに囲まれて、ひとつだけ書の作品があるのに気づく。書き初めに使うような細長い紙に、赤、黄、青、緑と一文字ずつ色を変えながら、書写の教科書に載っていてもおかしくない模範的な書体で、「美しい心」と書かれている。そしてその左下、やっぱり書き初めみたいに、同じような色づかいと書体で作家の名前が書かれている。「及川 満」。私は、自分が狼狽えていることに気づく。及川。そんな苗字だったかどうか。思い出せない。

 作家のプロフィールがどこかにないかと作品の下の細長いプレートを見るが、作家名と、《美しい心》という作品名しか書かれていない。それと値段。一、十、百、千、万、十万。56 万円。その横には、小さな青い丸シールが貼られている。

 「気に入ったの?」

 いつのまにか横に立っていた悠朔の声にびくりとする。それから、なんと返していいかわからずに黙り込む。悠朔が身を屈めてきて、私が目を離せないでいるプレートを覗き込む。

 「買ってあげようか?」

 悠朔が言う。

 

 

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