無限眼

森野湧水

無限眼

 悪事を働いた男が、無限の眼に見つめられている。そんなマンガを昔読んだことがありました。無限の眼はただ見ているだけで、男に対して何かをするわけではありません。それなのに男の精神は少しづつ崩壊していきました。

 そのときまだ幼かった私は、見られているだけで精神が病んでいくことが信じられませんでした。


 妻との関係が冷え切って鬱鬱としていた私は、一人旅に出たいと思いました。学生時代はよく一人で旅行をしました。そこで出会った女性と後腐れのない関係を持ったこともあります。あれは楽しかったなあと、密かに心を躍らせました。

 パソコンを使って行き先を探していると、無限眼という村を見つけました。宿泊施設が一軒だけあるようです。

 そのときふと昔読んだマンガを思い出し、次の休みに予約を入れました。

 

 ところが出かける段階になって、車を使わないで欲しいと妻が言い出しました。車で実家に帰りたいと言うのです。しかしそれはできません。無限眼というのは電車もバスも通らない辺鄙な場所にあるのです。

 激しい言い争いの末、私は車を奪いました。


 さてそこまでして行きたいと願った無限眼ですが、到着してみると何もない田舎でした。

 セミはうるさく鳴き、ちょっとでも車から出ると、容赦なく直射日光が照りつけます。

 田畑はあるけど適度に荒れており、若い女の影すらありません。お年寄りばかりが住む限界集落です。果たしてここは、妻を殴ってまで来る価値のある場所なのか。そんな後悔が胸をかすめましたが、今更引き返すのは癪です。

 私が予約したのは古民家でした。いえ、古民家と言うのはネット上のうたい文句です。予感はありましたが、宿に到着してその荒れ具合に、呆れてしまいました。板塀の隙間を錆びたトタンで補強しただけの、あばら家だったのです。

 車から降りて、流れる汗をぬぐいながら唖然としていると、後ろから声がしました。

「まあまあ、遠いところから」

 振り返ると、背中の曲がった顔中皺だらけの老人が立っています。辺りに民家はありません。おまけに全く人の気配がしなかったものですから、この老人はどこから現れたのだろうと、不思議に思いました。

 その老人は建付けの悪い引き戸を開け、中に入るように促しました。宿の主人のようです。

「あんまり田舎で、びっくりされたでしょう。たまに村の名前に興味を持ってお客さんが来られるんですが、みなさん、この宿を見て驚かれるんですよ」

 それって、めったに客は来ず、今日は私一人ということなんだ。

 乾いた笑みが、喉の奥から洩れました。

 そのまま引き返したくなりましたが、流石に今来た道を引き返すのは疲れます。

 仕方なく中に入ると、ひやりとしていてほっとしました。


 通された部屋は惨憺たる有様でした。六畳ほどの広さで、土壁はところどころ崩れています。床の間は埃が溜まり、当然エアコンはありません。

「すみませんねえ。年寄り一人でやっていますから、どうしても掃除が行き届かなくって」

 毛羽立った畳の上を歩くと、窓の辺りでずぶずぶと足が沈みます。窓の外は雑草の茂る崖があるだけでした。

 うすい格子柄のカーテンを閉めると、部屋の中はぼんやり薄暗くなりました。

「あれ、もうお休みですか」

 カーテンを閉めたことで、私が寝ようとしていると勘違いをしたようです。

「いえ、何もないから」

 私が抗議するように言うと、「そうなんですよ。外にはなにもないんです」

 主人は含みのあるような言い方をして、顔の皺を歪めました。笑ったようです。

 早めに食事と風呂を済ませた私は、こんな所まで来たことをさらに後悔していました。食事は缶詰の魚とインスタントのみそ汁。風呂は広い盥のような湯船にぬるい水を張っただけ。夏でなければ風邪を引いています。

 明日は早く起きて、ここを立とう。

 私は強く決心しました。主人は朝食の準備をしているだろうが、お金さえ払えば問題ないはずです。 

 押し入れからせんべい布団を取り出し、部屋の隅にあったテレビをぼんやり見ていました。よく知っているバラエティーのはずなのに、こうしていると、古い録画を見ているような不思議な気分です。


 いつの間にか眠っていたようです。

 怖い夢を見て目を覚ましました。

 背中にびっしりと汗をかき、心臓が早鐘のように鳴っています。

 どんな夢だったんだろう。

 思い出そうとしても頭の中にあるそれは、ぼんやりとした輪郭しか掴めません。

 体を横に向けると、カーテン越しに月明かりが差し込んでいました。

 私は細い息をゆっくり長く吐き出しました。

 髪が汗で濡れています。手でかき上げようとしたとき、ぬるりと温かいものが手に触れました。

 なんだか気持ちが悪い。

 生臭くて血みたい。

 そう思ったとき、私に脳裏に今見た夢が蘇りました。


 私は旧家に嫁いだ嫁でした。戦後の食糧難の時代で、親は口減らしのつもりでした。

 嫁ぎ先では、ろくに食事も与えられず、朝から晩まで働かされて、毎日ふらふらでした。義父母も夫も私のことをただの労働力とみなし、損なえば新しく求めればいいと思っていたようでした。

 川の水も凍る年の瀬、私は体調を崩してしまいました。三日前に突然生理が始まり、それが重かったのです。夜中にとんでもない腹痛に襲われ厠へ行きました。厠は母屋から離れていて、氷点下の寒さです。お腹を押さえながらしゃがんだ瞬間、体の奥から何か熱いものがどろりと流れ落ちました。

 それは私を支えていた芯のようなものだったのだと思います。

 治まらない腹痛に耐えながら立ち上がり、厠の板戸を開けると、白いものがちらちらと舞い落ちてきました。

 次の朝もいつもと同じように、姑に働かされました。「お腹が痛い」と言っても「怠け者」となじられただけでした。

 本当に限界でした。瘧のように体が震え、とうとうその場に座り込んでしまったのです。

 そんな私を姑は、「愚図」、「鈍間」、「役立たず」と罵りました。でも何を言われようと足に力が入りません。業を煮やした姑は、柄杓を手にして叩こうとしました。

 このとき私の中に、流れてしまった芯のようなものが戻ってきたのです。

 私は立ち上がることができました。それも重い漬物石を手にして。

 私は漬物石を両手で持ち上げ、姑の頭に振り下ろしました。 

 姑はかっと目を見開いて私を見ました。

 頭の骨が内側にへこみ、助からないことは明白です。飛び散った血が目に入り、私は何度も瞬きをしました。

「よくも……」

 姑の声は怒りに震えていました。

 私はそれ以上姑の声を聞かないために、今度は顔の真ん中に、漬物石をぶつけました。


 いやなことを思い出してしまいました。夢で見たのは私の古い記憶です。姑を殺したのは、間違いなく私。人を殺した記憶というのは生まれ変わっても残るものなんでしょう。


 そろそろ朝を迎えるようです。空気がぼんやりと白く霞はじめました。

 やっぱり早く起きてこの村を出よう。

 そう思って、ごろりと仰向けになりました。

 すると天井のある場所に、百、千、いや無限の眼がぎっちり張り付き、私を見下ろしていました。

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無限眼 森野湧水 @kotetu1

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