道しるべ堂の猫娘(二)


 実子は窓辺でひじをつきぼんやりと外の景色を眺め、吐息を漏らす。


『んっ、あたしって生きているって言えるの。もう、変なこと考えないの。存在しているでしょ。ほら、手も足もぷにぷにで。って、何よ。そんなに太っていないでしょ。とにかく生きているの。そうなの』


 まったく、なに一人漫才しているんだか。すぐ余計なこと考えちゃうんだから、ダメダメ。嫌なことは全部忘れよう。

 ううん、全部なんて忘れられない。もう、ダメでしょ。忘れなきゃ。違う、違う。すべてを忘れちゃダメ。忘れるのは憎しみだけ。そうよ、そうじゃなきゃ母さんまで忘れなきゃいけなくなる。悲しくて嫌だけど、母さんのことを忘れることは無理。


 ああ、もう。すぐに後ろ向きになっちゃう。前よ、前。前を見て進まなきゃ。

 夜の世界はもうおしまい。丸くて優しいあたたかな光の世界がはじまる。そうでしょ。今日という日がはじまるんでしょ。そうよ、あの朝陽の光のように輝くの。


『もっとあたしを照らして。元気を頂戴ちょうだい


 実子は窓を開けて、身を乗り出して変わりゆく景色を眺め続けた。

 ひんやりする空気が気持ちいい。いや、やっぱり寒い。けど綺麗。山が、竹林が陽の光でキラキラしている。そう見えるのは自分だけだろうか。そうかもね。

 大口を開けて、欠伸あくびをひとつ。もうひと眠りしてしまおうか。

 ダメダメ。そんなぐうたらしていたら絶対にダメ。これじゃ情緒もへったくれもないじゃない。

 しっかり頑張らなきゃ、この『道しるべ堂』で。


 野良稼業になんて戻れない。心機一転頑張るんでしょ。幸せになるんでしょ。あれ、自分は野良猫だったんだっけ。おかしいな。記憶が錯綜さくそうしている。いいの、いいの。過去なんてあっちへ蹴飛ばして、今を生きる。そうじゃなきゃ。

 ほら、見て。こんなにも素敵な空間があるんだから。


 振り返ってぐるりと家の中を見渡す。いや店の中か。いやいや、住んでいるんだから家でもある。どっちでもいいけど。

 ここが道しるべ堂。なんかいい響き。誰かの道しるべになれる場所。ここはそんな素晴らしいところ。

 ここがおんぼろの空き家だったなんて信じられない。リノベーションって凄い。

 もう一度、見渡して頷いた。ここが自分の居場所なんだ。そう言っていいんでしょ。誰に言うでもなく、窓の外へ目を向けた。


『あたしは決めたの』


 朝の新鮮な空気を思いっきり吸い込み、ぷはぁと吐き出す。

 やっぱり木の香りって素敵。あの木目も素敵。思わず爪とぎしたくなっちゃう。

 ダメダメダメ。そんなことしたら、台無し。しっかり爪はしまっておかなきゃ。今は猫じゃない。立派なレディーなんだから。


『レディー? なにそれ。あたしには不釣り合いな言葉。笑っちゃう。それにしてもここは素敵』


 ほら、よく見てこの空間。

 小洒落こじゃれたカフェ感がたまらない。やっばり爪とぎしたい。

 ブルッと頭を振り、もう一度店内を見渡す。

 あのランプなんてレトロ感満載で心惹かれる。天井からぶら下がった照明とペアみたい。

 いい趣味している。まさに大正ロマン。令和の時代に花咲く大正ロマン。最高。

 狸オヤジ、やるじゃない。

 テンション上がってきた。なんだか歌いたい気分だ。



***



 雨上がりの空に七色の虹がふたつ。

 今日もどこかで悩みを抱えた人がいる。

 どこ、どこ、どこに。

 迷える子羊ちゃんはどこにいる。


 あたしの出番。そうだよね。

 おとぼけ狸も出番だよ。


 あらあら、クシャミだ。クシャミがひとつ。

 ふたつ、みっつとクシャ、クシャ、クシャン。

 あらあら、風邪かな。

 んっ、違う?

 あたしのせいね。ごめんなさい。


 さあさあ、おいで。迷える子羊ちゃんはこっちへおいで。

 水たまりを覗いてやって来い。

 やって来れば、子羊ちゃんもラッキーさん。

 ラッキー、ラッキー、ラッキーさん。


 来るか、来るか。そろそろ来るか。

 慌てず、騒がず、落ち着いて。

 あなたの運勢、見てあげる。

 なんでしょ、なんでしょ、なんでしょね。


 大吉なのか、吉なのか。中吉、小吉、末吉なのか。

 はたまた最悪、最低。凶なのか。

 嘘、嘘。冗談。凶はなし。

 違う、違う。凶もある。

 気にしちゃ、ダメダメ。そういうことよ。

 人生いろいろ。悩みもいろいろ。

 大事なことは和歌にあり。

 あなたの道しるべになりましょう。


 百円玉ひとつで、笑顔もひとつ。ふたつ、みっつと花が咲く。


 今日、来る人。誰でしょ、誰でしょ、誰でしょね。

 道しるべ堂にお越しなさい。

 示そう、示そう、あなたの道を。


 どうだ、どうだ。そらそらどうだ。

 見えたぞ、見えた。

 今日のおみくじ、妙ちくりん。

 ラッキーさんになりましょね。


***


 なんだか音痴おんちになっちゃった。

 いいの、そんなの。みんなが幸せになってくれたらいいの。


『あたしも含めてね』


 実子は窓を閉めて、頬をパンと叩き気合いを入れた。


『今日も一日、頑張るぞ』


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