一番みくじ『狸神と猫娘』

道しるべ堂の猫娘(一)


 暁色ぎょうしょくが一帯を染め、山のから朝陽が顔を出す。


『なに言っちゃってんのあたし』


 難しい言葉遣っちゃって。何が『暁色』よ。賢いふりしたってすぐばれるのに。明け方のあの橙色だいだいいろの空のことだって教わったら使いたくなっちゃうでしょ。

 それにしてもあの橙色を見ると、どこかホッとする。あたたかくて優しくて、ときに厳しくもあった母さんを思い出すせいだろうか。


『お母さん』


 ふいに表情のなくなった母さんの顔が脳裏をよぎり、上がった頬が落ちていく。胸の奥底に闇が広がっていく。冷たい風が手を、顔をチクチクさせる。


 寒い、寒い、寒い。

 きっと母さんも寒かっただろう。

 手を擦り山の端から顔を出した太陽のあたたかな光を望む。

 百年か。時の経つのも早い。って、どんだけ生きているんだか。人にもなれる百二歳の猫だなんて。


 成沢実子なるさわみこは陽の光に手をかざし、「お母さん」と呟いた。

 心地よい朝のはずなのに、嫌なことを思い出してしまった。

 どこかから聞こえてくる車の走り去る音のせいだ。あれは化け物。いや、化け物にしたのはあれを運転しているあいつだ。車は化け物じゃない。あいつがいけない。


 イヤ、やめて。あいつのことなんて思い出したくもない。思い出すのはいい思い出だけにして。笑顔の母さんだけを思い出せばいい。出ていけ。おまえなんて出ていけ。

 嫌だって言ってんの。早くあっちへいけ。


 頭を抱えて左右に震わせる。消そうとしても消えてくれない記憶が頭の中を支配していく。


『あいつだ。あいつが悪い。母さんを殺したあいつが憎い』


 ふつふつと怒りが込み上がり、ギュッと拳を握る。ニュッと爪が伸び、白い牙をあらわにする。


『実子、いけない。あんたはいい子でしょ』


 ハッとしてあたりに目を向ける。いるわけがないか。空耳だ。母さんはこの世にいない。よく母さんに叱られたな。懐かしい。


『お母さん』


 母さんの優しくも厳しい顔がなぜか狸オヤジと重なった。

 真面目顔で頭を振る母さんとにやけた顔の狸オヤジが目に浮かぶ。

 もうなんで狸オヤジが出てくるの。台無しじゃない。

 ちょっと待って。もしかしたら母さんと狸オヤジは似たところがあるのかもしれない。もう、馬鹿なこと言わないで。似ているわけがない。全然違う。そうでしょ。


 そう結論づけようとしたとき、頭の中で母さんと狸オヤジの顔が左右に揺れた。もう、どうして。わけがわらからない。二人の言いたいことはわかるけど。なんで一緒に出てくるの。ふたりが夫婦だからなの。両親だからなの。

 どっちだっていい。


 実子はフッと頬を緩ませた。ふたりのおかげで怒りが消えた。

 怒りは自分の心を腐らせるだけ。そういうことでしょ。嫌な記憶は早く消し去らなきゃ。百年経ってもふとした瞬間に思い出してしまう。ダメね。

 母さんの記憶はいい思い出だけに。でしょ。わかっていても難しいこと。ううん、違う。難しいって思っちゃいけない。


 大丈夫、大丈夫、大丈夫。


『大丈夫』は心を落ち着ける魔法の言葉。母さんに教えてもらった魔法の言葉。何度も繰り返して笑顔になるの。これで完璧。嫌な記憶とはおさらばよ。


 頬を緩ませ、空に目を向ける。

 あっ、あの人も笑っている。ああ、もう。なんで涙が出ちゃうの。こんなんじゃダメ。頑張らなきゃ。


『どうしてあたしの大切な人はいなくなっちゃうんだろう。あっ、お母さんは人じゃない。猫だ。もちろん、あたしも猫。いや、妖怪猫又ねこまたか』


 ううっ、寒い。

 身体をブルッと震わせて朝陽を仰ぎ見る。

 ああ、なんでこんなにも心に染み入るんだろう。橙色とも朱色とも思えるあの空と丸いお日様。寒さも忘れさせてくれる。ありがとうと思わせてくれる。

 お日様はやっぱりあたたかくて、優しい。暗い心までも照らしてくれる。朝陽はすべてを浄化してくれる。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫。


『あたしは変わった。恨みは消えた。そうでしょ。そうじゃなきゃ、幸せなんてこない』


 もう一度しっかりと空を見渡し、口角を上げる。そう、嫌な過去は忘れて今を生きなきゃ。


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