道しるべ堂の妙ちくりんみくじ
景綱
プロローグ
これは夢か。まぼろしか。
こんな仕打ちってあるのか。
ジンロクは雨粒が顔に当たるのも構わず、天を仰いだ。涙とともに雨粒が頬へと流れていく。天は試しているのか。『おまえは本当に神としての器があるのか』と。
どうにも心が複雑だ。厚い雲の扉が閉ざされていなければ、流れ星を待ち願うのに。
神が星に願うのか。笑わせるな。
ジンロクは軽く頭を振り、溜め息を漏らす。
んっ、星か。
違う。あれはガス灯だ。
どうにも不思議なあかりだ。魔法のあかりに思えてしまう。魔法か。あのあかりはある意味魔法なのかもしれない。
遠い昔に思いを馳せ、現実逃避させていく。
『
にこりと微笑む紗子がそこにいる。我が子、実子を抱いて微笑んでいる。幸せがそこにはあった。ずっと続くと信じていた幸せが。
「ママ、ママ」
悲痛な叫び声にジンロクは現実に引き戻され、歯を食いしばる。
どうしてこんなことに。
「ママ、ママ」
「
「ママ、ママ」
『実子、紗子』
そう声をかけようと思うのに言葉が出てこない。足も動かない。悲しみとともに怒りが込み上げて、涙が溢れてくる。感情がぐちゃぐちゃだ。
ああ、くそったれ。
あいつか。あいつが紗子を。進歩する文明が生んだ化け物め。文明の利器がなんだというんだ。何が大きく正しい時代だ。明治、大正と元号が変わり確かに世界は変わったのかもしれない。だが、それがこんな事態を引き起こしている。良い時代になっていくのか。これで。
「おい、待て」
急発進し、あっという間に遠くに姿を消す化け物を睨みつけ、実子と紗子にもう一度目を向ける。もう紗子は助からないだろう。わかってしまう自分を呪いたい。未来が見えてしまう。
こんな再会などしたくなかった。
我が娘。我が妻。
ジンロクは膝から崩れ落ちた。
「これも運命。従うまでだ」
誰だ、そんなことを言う奴は。チラッと声のしたほうに目を向け、小さく息を吐く。死神か。おまえのように簡単に片づけられるものではない。だが現実を受け止めるしかないこともわかっている。
帽子を軽く上げて会釈してくる死神。こいつには感情というものがないのか。笑っているのか。そう見えるだけなのか。殴ってやりたい気分だ。
ジンロクはグッと握り拳を作り、肩を震わせた。
忌々しい黒づくめの奴め。
「神が泣くな。これは避けられぬ運命なのだ」
「うるさい黙れ。神だって泣くこともある」
「そうか、知らなかった。それはそうと、この者はおまえの妻だったな。そして、こっちが娘だな。狸神」
「ああ」
「狸と猫の夫婦とは面白い。とは言え、おまえはこの者たちを捨てた。夫婦とは言えぬか」
「ふざけるな。捨ててなどいない。神となるためにほんの少し離れただけだ」
「そうか。なら、この者も知り合いか」
死神が指さした先に人が倒れていた。あの者は
ジンロクは実子と紗子に目を向けて、再び白木に目を向けて肩を落とす。
こんなことになるなんて。
化け物め。
すでに消えてしまった化け物を思い出してブルッと身体を震わす。
自動車とか言ったか。
恐ろしい奴だ。海の向こうからやってきた危険極まりない化け物だ。人とは本当に恐ろしいものを作り出す。あんな化け物を人が操れるわけがない。だからこんな事故を引き起こすんだ。
ジンロクは膝を叩き、地面を睨みつける。
待て、落ち着け。そう全否定するものではない。
あのガス灯のように暗い夜を照らす素晴らしいものもあるではないか。
まったく、そんなもの慰めにもならない。
ジンロクは頭を振り、「やはり早過ぎる」と呟いた。
まだまだ人は未熟なのだ。あんなもの未熟者には与えてはいけない。だからといって人を放ってなどおけない。神なのだから。皆を救うのが役目。より良い道へと導くのが役目。わかっている。皆の思いがなければ神として存在できぬのだから。
人のこと馬鹿にできないか。自分のほうこそ、まだまだ未熟だ。
んっ、微かに何か臭う。気のせいか。
ガス漏れでもしているのか。違うか。そんなことどうでもいい。
まったく神ともあろう者が何をしている。とにかく現実を受け止めろ。逃げるな。
ジンロクは再び溜め息を漏らして実子と紗子をみつめた。恨めしい。だが、あの者を恨んではいけない。そんなことするまでもない。あの化け物を操っていた者は罰を受けるだろう。猫だけでなく、人の命を奪ったのだから。
降り注ぐ雨の向こうに映るガス灯に目を向けて、小さく息を吐く。
紗子の死を受け止めなくては。
「ジンロク。お久しぶりですね」
紗子。生き返ったのか。いや、違う。ジンロクはぴくりとも動かず倒れた紗子と寄り添う実子を見遣り、目の前に立つ紗子に向き直る。幽体となってしまったのか。透けて見える。
「紗子。どうして、どうしてこんなことに」
「これが私の運命です。しかたがありません。ただ実子が心配です。なので、お願いです。実子のことを頼みます」
「僕からも頼みます。実子をよろしくお願いします。狸神様」
白木茂か。こっちも透けて見える。
「ああ、もちろんだ。茂よ、いままで感謝する。実子と紗子のこと、ずっと見守ってくれたのだろう。それに、実子はおいらの子だ。実子のことは任せろ」
「それにしても、立派になって。狸神様としての格が上がりましたね」
紗子は微笑み、そっと頬に手を添えてくる。
「ありがとう。紗子」
ポロリと涙が零れ落ち、地面を湿らせた。
「そろそろいいか。もう時間だ」
死神の一言に、ジンロクは死神を睨みつけた。本当に忌々しい奴だ。
「もう旅立ってしまうのか」
言ったそばから紗子と茂はともに天へと舞い上がっていく。あっという間に小さな点になってしまった。死神の奴。こういうときぐらい融通を利かせてくれてもいいものを。文句を言ったところでしかたがない。死神は仕事をしているだけだ。大丈夫、紗子は天国へ帰るだけだ。会おうと思えば会える。
「ママ、ママ」
実子。
そうだ、この子を守ってやらなければ。
「実子。悲しいだろうがおいらと行こう。母とその者は天国に旅立った。きちんと埋葬してもらえるよう手配した。大丈夫だ」
「うううううっ」
なんだ。実子、どうした。
実子の瞳の色が異様な光を放ちエメラルド色に変わっていく。爪も牙も伸び、唸り声をあげて
「実子、実子」
ジンロクは実子の足元から徐々に視線を上げていく。見る見るうちに実子が何倍にも膨れ上がっていく。化け猫になってはダメだ。
「大好きなママをあいつが殺した。大好きな茂さんをあいつが殺した。憎い、憎い、憎い」
復讐心に囚われている。どうにかしなくては。
「実子、心を静めろ。復讐なんて考えるな。何も解決しない。余計に苦しむだけだ。ほら、ゆっくり深呼吸をしろ」
ジンロクは実子に寄り添い神気を送った。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫」
紗子がよく言っていた言葉を繰り返し、実子の怒りを静めていく。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫。ほら、実子も言ってみろ」
「うううううっ」
実子の瞳が光り、睨みつけてきたが『大丈夫』の言葉は伝わったようだ。口が動いている。
うっ、勘違いだったか。実子の爪が腕に食い込んでくる。顔を歪めつつ、実子の瞳を見つめ返す。化け猫に、いや鬼猫に成り代わってしまったのか。声が届いていないのか。ジンロクは歯を食いしばり痛みに耐え、優しく実子を
「実子、おいらの目をしっかり見ろ。大丈夫だ。実子はひとりぼっちじゃない。実子の母も茂も天国で見守ってくれている。大丈夫だ。怒りを静めろ。だから一緒に『大丈夫』と繰り返し言ってみろ」
エメラルドの瞳をこっちに向け、実子は耳をピクピク動かしている。「大丈夫」との言葉に耳を傾けてくれている。そのはずだ。お願いだ、もとに戻ってくれ。
「そうだ、実子。大丈夫、大丈夫。母は見守ってくれている。大丈夫」
実子はゆっくりと「大丈夫」と口にした。
そうだ、それでいい。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫。実子はおいらが守る。大丈夫だ」
気づくと実子はもとの子猫の姿に戻り、ジンロクの腕の中で寝息を立てていた。
危なかった。
あのまま怒り狂っていたら取り返しのつかないことになっていた。二度と元には戻れなかっただろう。今回はうまくいったが次はどうなるかわからない。念のため、神の護符を実子の心に張り付けておこう。少しは効力があるはずだ。
「実子、父さんと行こうな。あそこは静かでいいところだぞ。白木家が代々守ってきた神社だからな。ちょっとばかり寂れてしまっているが大丈夫だ。今は参拝者も少ないがおいらがどうにかする。実子も手伝ってくれ」
あそこは良い気が流れているから、実子の復讐心も弱まり守ってくれるはず。そのうち実子も人の姿に化けられるようになるだろう。共に心の修業をしよう。
そうだ、おみくじを引いてみよう。実子の運を教えてくれ。
ジンロクの目の前に小さな箱がポンと現れて、小さな狸が顔を出す。
「ミノク、この子の運勢を教えてくれ」
「はい、ジンロク様」
ジンロクは左手を箱に入れると、手に触れてきたものをひとつ掴み取る。
ほほう、なるほど。五十番みくじか。『吉』だな。そうそう、この和歌だ。
*
幸福の招来する日は
*
大丈夫だ。実子はきっと幸せになる。道を踏み誤らないよう見守ってやろう。みくじ通り、花ある道へ導いてやろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます