[7]怒りのけんちゃん

 昨夜買った幕の内弁当は、袋の中で傾いたのかごはんとおかずが重なって、ぐちゃぐちゃになってしまっていた。食べられないわけではなかったが、どうせ買ったのは自分の分だけ、田子森さんの食べるものがないので、食事はどこか喫茶店にでも行ってしようということになった。

 しかし季節は夏。田子森さんは一度戻って着替えてくると云い、私は待ってるあいだに支度しておくわ、と云っていったん彼を送りだした。

 なにを着ようかな、夜っぽくなくて、でもそこそこお洒落な服って持ってないなあ……と、私は衣装ケースをひっくり返して服を選んでいた。こんなふうに着るものに悩むなんて、十代の頃でもなかったかもしれない。

 そしてなんとかスキニージーンズにサマーニットのアンサンブルを選び、片っ端から引っ張りだした服を片付けていると。

「えっ、鍵?」

 三つ折りにした布団の傍、積み重ねた服の陰から黒革のキーケースがでてきた。昨夜脱いだときにポケットから落ちて、朝も気づかないままだったらしい。

 私はキーケースを拾いあげ、テーブルの上に置いた。家に着いたら嫌でも気づくし、戻ってくるのを待つしかないだろう。

 私は床に広げた残りの服を仕舞わないと、と向きを変えてまた服を畳み始めたが――そのとき、玄関のブザーが鳴った。きっと途中で気づいたのだろう。思ったより早くてよかったと、私は鍵を手にし、玄関を開けた。

「鍵でしょ。布団の傍に――」

 だが、そこに立っていたのは田子森さんではなかった。

「あずちゃん……許さへんで。わしを差し置いてあんな余所もんと寝るやなんて……」

「けんちゃん――」

 徹夜して見張っていたのだろうか。けんちゃんの目は真っ赤に充血していて、いつもの調子のいい感じと違って声も低く、怒りに震えているのがわかった。私は恐怖を感じた。ぎゅっとキーケースを握りしめたまま後退る。けんちゃんはかしゃん、と独特な足音をたて、履物も脱がずに部屋に入ってきた。

「もう最低や。あんのクソばばの所為でアッタマ痛いし、なんやようわからん余所もんにあずちゃん寝盗られるし……! なあ、わし、ほんまにあずちゃんのこと好きやってんで? ……あんな奴に盗られるくらいやったら、もっと早よこうしとったらよかった!」

 そう云って、けんちゃんは私に襲いかかってきた。なんとか飛び退いて躱し、私は部屋の奥へ逃げようとした。が、床に膝をついたけんちゃんに足首を掴まれ、つんのめるように転んでしまった。両手をついて身を反らし、躰を捻るようにしてけんちゃんを振り返る。

「けんちゃん、やめて……! お店にはまた来れるように、私からママに云っておくから……! こんなのだめ、お願いだからもうやめて、帰って……!」

「なんでや、なんでわしはあかんのや! わしのほうがずっと前からあずちゃんのことめっちゃ好きで、店にもしょっちゅう通ぅとったのに……! なんであの余所もんは泊めて、わしは追い返されなあかんねん!」

 許さへん、あずちゃんはわしのもんや――そんなことを云いながらけんちゃんは私に伸し掛かり、穿いているものを脱がそうとしてきた。もうなにを云ってもだめだとわかった。まともに話が通じるとしたら、私を犯し終わったあとだろう。

 こんな状況は、これまでに何度も経験してきた。抵抗して殴られたり、縛られてもっと酷いことをされるよりは、このまま好きにさせるほうがましだと私は知っている。けれど――私はこのとき、けんちゃんの手が下半身を這いまわるのを、吐き気がするほど嫌だと感じた。

 床に伏せていた顔をあげ、私は冷蔵庫の横に立ててある林檎ジュースの空き瓶に手を伸ばした。逆手に握り、勢いよく起きあがると振り向きざまにけんちゃんの頭目掛けてスイングする。ごっ、と鈍い音がして、けんちゃんはぐらりと坐った状態のままよろめき「……痛ったいなぁわれぇ! なにすんねや!!」と右手を振りあげた。私はもう一度、その頭に瓶を思いきり振りおろした。今度は瓶が折れるように砕け、けんちゃんは右手をあげたまま横に倒れた。

 そのまま時間ときが止まったように、私は倒れたけんちゃんをじっと見ていた。けんちゃんはまったく動く様子がなかった。

 割れた瓶の半分を手から離し、私は「……けんちゃん?」と呼びかけた。

 返事はない。恐る恐る、俯せで倒れているけんちゃんの肩を揺さぶり、私はその顔を覗きこんだ。

「けんちゃん……」

 ――けんちゃんはぎょろりと目を見開いたまま、口から泡を吹いていた。

「……え……、嘘でしょ? そんな――」

 私はようやく死んでいるのだと理解した。私が殺してしまったのだ。

 どうしよう。いや、どうしようじゃない。警察に連絡しないと……それとも先ず救急車だろうか。119にかければこういう場合、放っておいても警察も来るのだっけ……などと考えつつも、私は凍りついたようにその場から動けずにいた。

 そうしてどのくらいが経ったのだろう。茫然としていた視線の先にソックスを履いた爪先が見え、私は顔をあげた。

「田子森さん……」

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