[6]朝まで一緒に
「――ところで、名字はひょっとして『
「なぁにそれ。どうしてそう思ったの?」
違ったか、と呟き、彼はからからと氷の音をたてて麦茶を飲んだ。見た目は濃いめの水割りのようで、まるでいつもと同じだなとくすりと笑う。違っているのはここがお店ではなく、畳の上に薄いラグとこたつテーブル、横置きした三段カラーボックスくらいしかない、私の部屋ということだけだ。
布団が置いてある奥の部屋でスポットクーラーをつけ、こちらに向けて扇風機を回しているが、他にこれといった家具や家電はない。若い女性らしい飾り物のひとつもない殺風景な部屋を、しかし彼は気に入ったようだった。
「フランス語で雌の野うさぎのことをアズって云うんだが、スペルが
お茶と一緒にと思い、箱を開けた戴き物のレモンケーキを手に取りながら、私はちら、と視線をあげた。
「……半分当たりか」
「……名前なんて、どうでもいいじゃない」
座布団の上で胡座をかき、彼は部屋の中を見まわした。うん、なんか不思議と落ち着くなあこの部屋、と呟く田子森さんを、私はじっと見つめていた。
「なんか最近は、若い子の独り暮らしでもベッドやソファがあって当たり前みたいなイメージがあるけど、要らないなあって思うよ。こういうのでいいんだよな、ちょっと昭和っぽいけどさ。……あ、古臭いって云ってるんじゃないぞ。怒るなよ?」
その言葉に、私はぷっと吹きだした。
「なにかおかしい?」
「ううん、おかしくない。……嬉しい。ここは、やっと手に入れた私の城だから」
「城、か。……結婚は?」
「したことない。どうして?」
「じゃあ、実家の居心地が悪かったのか」
いきなりそんなことを云われ、私は「意外とずばずば云うのね!」と、ついきつい口調で返したが。
「俺もそうだったからさ。……マイナススタートで皆が当たり前に持ってるもんを手に入れるのは、一苦労だよな」
その言葉に、自然に本音がぽろぽろと溢れた。
「……ずっと、安心して眠れる場所が欲しかった……。誰に気兼ねすることもなく、警戒することもなく……。自分の稼いだお金を、ちゃんと自分が生きていくために使えるって、こんなに幸せなことなんだって……。ここが初めてなの。私、ここでの暮らしが、だから本当に気に入ってるの。あのお店も、ママも」
そう話すと、彼は優しく微笑んで手を伸ばし、私の手に重ねた。
「……此処いらにいる人間は、みんな似たり寄ったりなんだろうな」
「そうね。こんな話を誰かにしたのは初めて。でも、過去になにがあったなんてことまでは、絶対に云わない。……あなたもきっと訳ありなんでしょうけど、だから訊かない」
彼は私の顔をじっと見つめながら頷き、すっと手を離した。
「……あず、か。うさぎは寂しいと死ぬって、なにかで聞いたな。住処として気に入ってるのはわかったけど、この暮らしは寂しくない? 寂しいって思う夜はない?」
癖でグラスの水滴をハンカチで拭うと、私は答えた。
「今夜は寂しい思いをしなくて済むと思ったんだけど、私の勘違いだった?」
「缶で殴られたくないからな。いちおう訊いたのさ」
その夜。私は田子森さんと、朝まで一緒に過ごした。
なにかの代償じゃなく、望んで誰かに抱かれるなんて、何年かぶりのことだった。
目が覚めたのは十時を少し過ぎた頃だった。まだ眠っている田子森さんを起こさないよう、私はそっと布団からでて、手早くシャワーを浴びた。
ラウンジパンツにTシャツという楽な恰好で、キッチンに立つ。電気ケトルに水を入れてスイッチをオンにすると、私は少し迷って抹茶入り緑茶のティーパックを取りだした。コーヒーなら喫茶店に行けば、インスタントよりずっと美味しいものが飲める。でも熱い日本茶は、独り者の男性はあまり飲む機会がないのではないかと思ったのだ。
朝ごはんを用意してあげるのは無理だけれど、お茶くらいはね、と思いながら、私はずっと使っていなかった湯呑を洗い直していた。なんだか浮かれ気味な自分に気づいて、おかしくもなった。誰かのためにお茶を淹れるのって、こんなに楽しいことだったかしらと笑いだしそうになる。
「おはよう。早いね」
その声に振り向くと、珠暖簾をかき分け、田子森さんが立ってこっちを見ていた。上半身は裸のまま、厚い胸板と引き締まった腹筋を見せている。下はズボンまで穿いているけれど、その恰好はずるいと思った。
「早くないわ。もう十時半よ」
「夜の仕事をしてる子って、昼過ぎまで寝てるイメージがあるんだけどな」
「お陽さまはこっちに時間合わせてくれないし。これでもいつもより遅いのよ、普段はもう洗濯機まわしてるもの」
そう云うと、彼はなにがおかしいのかくっくっと喉を鳴らして笑った。
「この部屋、なんだか落ち着くなあと思ってたんだが……違った。落ち着けるのは、君だ」
電気ケトルが蒸気を噴きあげ、かち、と音をたてた。今お茶を淹れるわね、とティーパックを出していると、彼は洗面所とタオルを貸してくれと云った。もちろんどうぞ、と答え、お茶を淹れようとしていた手を止める。
ありがとうと云って洗面所に向かいながら、彼は云った。
「源氏名じゃない名前を呼びたいな」
私も、そうしてほしいと思った。だから、素直に教えた。
「
「さくら。いいね、ぴったりだ」
この名前で呼ばれるのは、とても久しぶりだった。
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