[5]けんちゃんの暴走
田子森さんが常連になって、一ヶ月半ほどが経った頃。
深夜一時に最後のお客さんを送り出し、ざっと後片付けを手伝ったあと。今日は田子森さん来なかったな、と思いながら、私はママにおやすみなさいと挨拶をし、店を出た。
昭和の頃のドラマから抜け出てきたような煤けた商店街のなかを、かつかつとヒールの音を響かせてひとり歩く。閉じられているシャッターには落書きのひとつもない。それは、スプレーで落書きをするような若者さえ近づかない地域だということなのかもしれなかった。確かに変わった人はちょっと多いかもしれないけれど、でも馴染んでしまえばとても楽で居心地のいいところなのに、と私は思った。
そんなことを考えていたとき――近づいてくる足音と気配に、私ははっと振り返った。だが人影はどこにも見えなかった。見えないからといって、即ち気の所為とは限らない。自分を見ている怪しい人物がそこにいるよりも、こそこそしているほうが質が悪い。
やばいかも、と思い、私はいつものコンビニに急いだ。
いつものとおり缶飲料二本と、今日は幕の内弁当を買い、エコバッグふたつに分けて入れる。そして外を警戒しつつコンビニを出ると、私は背後を気にしながらアパートへと歩いた。歩きながら、缶を入れたほうのエコバッグをきゅっと結ぶ。そして持ち手の部分にしっかり手を通して握りしめると、私は振り返らずに耳を澄ませてみた。微かにカシャン、カシャンという音が聞こえた。なんだろう? と思ったが、聞こえてくるペースは足音のそれだった。私はアパートへと急ぎ、歩く速度を早めた。
そして、あと数歩でアパートの階段という、そのときだった。
「――っ!!」
いきなり背中からがばっと抱きつかれ、私は声もだせずに身を強張らせた。
「あずちゃん、会いたかったわぁ。あんのクソばばの所為でわし、店行かれへんようになってしもて、めっちゃ寂しかってん。ちゅうか、なんやここ。あずちゃん、こないなアパートに住んどったんかいな。似合わへんわ、わしに云うたらもっとええマンションに住まわしたるのに……!」
「けんちゃん……!? ちょ、ちょっともう、離して。びっくりした――」
頭のおかしな変質者じゃなく、常連客だったけんちゃんとわかって私は少しほっとした。でも、けんちゃんは私を背中から捕まえているその両手で、胸を触ったりし始めた。
「けんちゃん、なにしてるの。もう離して、そういうの困るから――」
「なんで困んねんな。あずちゃん、わし知ってんねんで? あの新参もんの客とはえろう仲良うしとるやない。一緒にコンビニおったりしたやろ、なんやねんあいつ。あずちゃんのことはわしのほうがもっと早うから目ぇつけてんのに、あんなんに横からかっ攫われとうないわ!」
「あの人は――ね、ねえ、けんちゃん。とりあえず、もう離して? 話ならちゃんと聞くから――」
「話? なんや、部屋入れてくれるんか? せやったらわし、もう帰らへんで? 朝まであずちゃんのこと離さへんさかいな」
「そういうのは困るって云ってるでしょ? ねえ、とにかく離して」
「部屋入れてくれへんねやったら、もうここでやったかてええねんで」
そんなことを云いながら、けんちゃんは強い力で私の胸を鷲掴みにした。お店に来ていた頃から困った客だとは思っていたが、出入り禁止になってこんな直接的な手段にでるとは、想像もしていなかった。
ママももう来るな、客じゃないと云っていたし、私が気を遣う必要はないか。私は準備していた缶飲料の入ったエコバッグをしっかりと握りしめ、振りあげようとした。
そのときだった。
「あいたたたたたたた! な、なんじゃわれぇ、なにさらすんじゃボケぇ!」
「ボケはそっちだ。これ以上バカな真似するとあいたたじゃ済まんぞ」
手が緩み、私は一歩離れて振り向いた。声でわかっていた――田子森さんが、けんちゃんの腕を捻りあげていた。
「済まんてなんや、わしになにさらす気じゃ、えぇ!? おんどりゃあ、わしを誰やと思てけつかんねん、痛い目ぇ見したろかぁ!」
そう凄んだけんちゃんは「あいたたたたたたたたた、痛い痛い痛い!」と情けない声をだし、ギブアップをするように掴まれていないほうの手で田子森さんの腕を叩いた。田子森さんが手を離すと、けんちゃんはぴょんぴょんと跳ねるように離れ、脱げてしまった雪駄に足を入れながら顔をあげた。
「……あ、あずちゃん怖がらせたらあかんさかい、きょ、今日のところは勘弁しといたるわ!」
そんな捨て台詞を残してけんちゃんは逃げるように去っていき――私と田子森さんは顔を見合わせ、声をあげて笑った。
「新喜劇のギャグみたい」
「そんなことより」
田子森さんは真面目な顔で私を見つめた。「大丈夫か」
「平気よ。でも、ありがとう」
「まさか、こういうときのための缶ビールだったとはな」
田子森さんは私がぶら下げているエコバッグを指し、苦笑した。「原始的だな。スタンガンでも持ち歩けばいいんじゃないのか」
「あれはだめ。腕を捻られて自分に使われたら、目が覚めたときにはもう突っこまれてるもの」
そう答えると、田子森さんは眉をひそめ、探るように私を見た。
「……実際にあったような口ぶりだな」
私は否定も肯定もせず、代わりにこう云った。
「お茶でもどう?」
田子森さんは少し驚いた顔をした。
「……俺も男だぞ。それに、なんで俺がここに居合わせたか、訊かないのか」
それを聞いて、そういえばと思ったが――同時に、なんとなくわかっている気がした。
「……これでも男を見る目はあるつもり。あなたが嫌じゃなければ、寄っていって」
そう云うと田子森さんは頷き、固く握りしめていた私の手をそっと解いて、バッグを持った。
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