[3]田子森さん
「あず、って変わった名前だね。どんな字を書くの?」
この店でいちばん高いフルーツの盛り合わせがどんとテーブルに置かれていることに、私はほんの少し罪悪感を感じていた。こんなの三人で食べきれるわけがない。しかもいつもの常連さんの二人組がやって来て、ママはそっちに行ってしまった。だから結局、だし巻き卵も八幡巻もほとんど私がひとりで食べたのだ。田子森さんはお腹が空いていなかったらしく、少し摘んで美味しいと云っただけ。
伝票は既にかなりの額になっている。なのにこの田子森という客はそれをわかっているのかいないのか、涼しい顔をして静かにグラスを傾けている。
せっかくボトルキープはしたものの、お会計をして帰ったらもう二度と来ないのではないだろうか。私は思った……なら、もっと今日のうちに搾り取ってやらなくちゃ。
「亜瑞……
転勤族で結婚ができないなどと云っていたが、こうして見るとなかなか整った顔で、清潔感もある。もてないはずがないのに、やっぱり転々としてる所為で相手と続かないのかな、などと思いながら私は田子森さんを見ていた。田子森さんはカウンターに、グラスの水滴を付けた指で文字を書いている。亜瑞。そう、その字で合ってるけど、字はどうだっていいし、どうせ源氏名だけどね、と心のなかで呟く。
「ふうん……。ところで、あずちゃん言葉が関西弁じゃないね。どこの人?」
「もうここの人。田子森さん、カラオケは歌わないの? 私、田子森さんの声、聴いてみたいな」
田子森さんは煙草も吸わないらしく、お客用に持っているデュポンのライターは今日まだ一度も役に立っていない。私は手持ち無沙汰でつい弄んでいたライターをことりと端に置くと、通信カラオケの目次本を引き寄せ、開いてみせた。
「歌はいい。それより……当ててあげようか」
「当てるって、なに?」
「歌舞伎町みたいな匂いはしないけど、かといって銀座でもない。六本木あたりの……そうだな、ちゃんとママのいるクラブか、キャバクラでもわりときちんとしてるところで仕事を覚えた。そのライターはその頃の客からのプレゼントだ。……どうかな、当たってる?」
私は少し驚いたけれど、なんとか笑みを浮かべたまま惚けることができた。
「わあ、なんだか田子森さん、名探偵みたい」
「うん、そういうところ。若いのに、しっかりしてるなあと思ったんだ。……キャバにいてそれだけ仕事もできて、けっこう稼げてただろうに、どうしてこんな日本のスラムみたいな地域の小さなスナックに? こっちのほうにだって、もっと大きなネオン街はあるのに」
その質問は失礼じゃないかと思った。
確かにこの辺りは流れ者が最後に辿り着くような、昔から治安が悪いことで有名な地域だ。だけど私にとって、此処は今まででいちばん暮らしやすいところなのだ。
お店だって、一見華やかだけれど裏ではホステス同士の売上競争や、莫迦莫迦しい意地の張り合いばかりのクラブなどと違い、ここはとっても居心地が良い。小さかろうがお客が少なかろうが関係ない。どんな
「……小さなスナックには小さなスナックなりの良さがあると思いません? ここはいいお店よ。ママも最高。お料理、美味しかったでしょ?」
「ああ。確かにここは落ち着けるいい店だし、つまみもぜんぶ旨かった」
「でしょ。……それに、日本のスラムなんて云うけど、それなら田子森さんもそんなところに飛ばされるなんて、いったいなんのお仕事なのかしら」
田子森さんはその質問にふっと笑い、「嘘だよ」と私の顔を見つめた。
「嘘?」
「転勤ってのは嘘だ」
嘘だと云ったその言葉は、本当なのだろう――そのとき、私は初めて返す言葉に詰まった。上っ面の会話ならいくらでもできるけれど、こんなときなんと云えばいいのかわからない。
そのあと、私は気を取り直し、いつもと同じように当たり障りのない世間話で場を繋いだ。カラオケは歌わず、お会計のときもなにも驚くこともなく、田子森さんは現金で支払いを済ませて帰っていった。お釣りはいらないと云って、チップまで。
そして、もう来ないかと思っていたのに、彼はそれから毎晩のように店にやってくるようになった。
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