[2]新規の太客

「――あの、いいですか。やってます?」

「はーい、いらっしゃいませー」

 木曜日、開店してすぐの早い時間。ひょこっとドアを開けて覗いたのは初めて見る顔だった。

「おひとりさま? どうぞー、お好きな席に」

 ママは奥の厨房へ突き出しを取りに引っ込み、私はおしぼりを手にどうぞ、と客の前に立った。アップバングがお洒落な短い髪、服の上からでもわかる厚い胸板と筋肉質な腕。地味めなポロシャツとチノーズは、シンプルだけどその辺のファストファッションではない品の良さを感じる。落ち着いて見えるけれど四十代まではいってなさそうな――なんとなく職業不詳な印象の男だ。

 なにかめずらしいものでも見るように店内をぐるりと見まわしている客に、私は「なにになさいます? おビール? それとも水割り?」と尋ねた。

「ああ、えっと……ボトルキープができるなら、水割りにしようかな。ヘネシーはある?」

「ヘネシー……はごめんなさい、リクエストがあれば次には置いておきますけど、今日は。ブランデーならサントリーのXOエクスオーがありますけど」

「ああ、じゃあそれで」

「ありがとうございます」

 そこへママが小鉢とチャームを持って厨房から出てきた。木製の横長なトレーの上には洒落た小鉢が三つ、一直線に並んでいる。今日は焼きそら豆と、茄子と鰊の炊いたん、麩の辛子和えだ。チャームは昔から定番のさきいかやチー鱈、チョコレートとナッツなどが、竹籠にレースのようなサーヴィエットを敷いて盛ってある。

 私は棚からXOのボトルを下ろし、白いマーカーと一緒に客に差しだした。

「お名前でもなんでもいいんで、なにか目印をおねがいしますね」

 さらさらとなにか書き、マーカーがカウンターに置かれる。私は「水割りでしたね。私もいただいていいかしら」と微笑みかけながらボトルを開け、そこに書かれている文字を見た。

「……田子森たごもりさん?」

「ええ、田子森といいます。水割りでもなんでも、好きなものを飲んで。……そちら、ママかな? ママもどうぞ」

 あっらー、ありがとうございますと、ママは喜んですぐに瓶ビールを一本だしてきた。私は、じゃあウーロン割りにさせてもらっていいかしら、と烏龍茶の小瓶をカウンター下の冷蔵庫から取りだす。ビールはもちろんだが、烏龍茶も売上になるうえ、このほうが水割りよりも酔いにくいのだ。

 皆にグラスが行き渡ったところで乾杯をし、どっから来はったん? とママが話の取っ掛かりを探り始める。それを聞いて私はそういえば、と気がついた。田子森と名乗った客の言葉には訛りがなかった。関西弁ではない自分が違和感なく話せるということは、関東のほうから来たのだろうか。

 その答えはわからなかったが、最近この辺りに越してきたのだということは、話しているうちに明らかになった。田子森さんはまだ独身で、それをいいことに繰り返し転勤を命じられ、日本中を転々としているのだと云った。

「――おまえは独りもんだからいいって云うけど、これじゃあ身を落ち着けようにも相手ができないよね。参りますよ」

「ほんまやねえ、そんなんやったらせっかく彼女さんできたかて、よっぽどよぉできた人やなかったら結婚してついていこ思わへんわなあ」

「そうなんですよ」

 ママが身の上相談よろしく話をしてくれていたので、私はグラスを取り水割りのおかわりを作った。突き出しの小鉢ものは口に合ったのか、既に完食されていた。私は水滴を拭いたグラスを差しだしながら「なにかおつまみは要りません? ママのだし巻き卵とか、鶏の八幡巻とか美味しいんですよ」と勧めてみた。

 来ていきなりヘネシーをボトルキープしようとしたり、ママが何本ビールを飲んでも私がウーロン割りしても嫌な顔ひとつしない。太客である。ふつう、こういったお店で食べるものを頼むととんでもない値段がしたりするが、ここのお店はママがお人好しだから、けっこう常識的な値段だ。私はもっと値上げすればいいのにといつも云っているのだが、ママは食べてもろてなんぼやからと頑なだった。料理が好きな人なのだ。

 だから売上にしようと思ったら二、三種類くらい頼ませて、半分ほどは私が食べなければいけない。ママにはお世話になっている。出勤したら最低でも自分の給料分、取れる客からはしっかり搾り取れるようにしなければいけないのだ。

 すると、田子森さんはそんなことなどなにもかもお見通しだという顔をして、薄く笑った。

「……いいよ。あずちゃん、だっけ。君の食べたいものでもおすすめでも、なんでも適当にだして」

「……ありがとうございます」

 もともとは都心のほうにいたようだし、遊び慣れているのか。私はじゃあお言葉に甘えてと云い「ママ、だし巻き卵と八幡巻と、フルーツの盛り合わせおねがいします」と、とっておきの微笑みを浮かべてオーダーした。

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