貴方の声で呼んで欲しいフルネーム

虎島沙風(とらじまさふう)

1.目が覚めたフルネーム

「おおみやいろはさん」


 秋の到来はまだ先であると分かってがっかりするような暑さで、ぼーっとしながら自分の名前が呼ばれるのを待っていた私は、今の声で完全に目が覚めた。

 今は音楽の授業中。今日は夏休みが明けて初めての授業ということで夏課題を一人ずつ返却しているところだった。

 私の耳が悪いから聞き間違えただけかもしれないと思い、耳を澄ました。


「おおみやいろはさん」


 先生は確かに大宮おおみやいろと言った。

 口の動きまで両目をぱっちりと開けて見たから間違いない。聞き間違いであることを期待していただけに残念だ。

 下の名前は私だけど苗字が違うから、脳も耳も混乱するのだ。

 先生がまたあのフルネームを呼ぶ。やめて。もう呼ばないで。恥ずかしいから。心の声が思わず漏れそうになった。

 これは家族にすら秘密にしていることだけど、心の中で呼んでニマニマしたことは何度かあるのだ。

 大宮色珀。自分の本名と同じぐらい、しっくりくるかもって。

 そう。好きな人の苗字と自分の下の名前を合わせて、結婚したらこんなフルネームになるのだと勝手に妄想して喜んでいる、乙女パワー全開のただの痛い女なのだ。私は。


 だがしかし、私の甘すぎる妄想が現実になることはないし、大宮色珀なんて名前の生徒はこのクラスにはいない。新嶋にいじま色珀ならここにいるけど。


「大宮色珀さん? ……あれ、もしかして今日はお休みですかー?」


 普段なら、音楽の先生が発するおっとりした性格が現れている間延びした柔らかな声を聞くと、子守唄のようでついうとうとしてしまう。

 しかし、普段より不安げな声になっているし、鼓動をどんどん加速させていく、鼓動の音をどんどん大きくしていく、声にしか感じない。

 すぐ右横の窓から音楽室に入り込んだ外の生温い風が、私の頭のてっぺんで今日も元気にピンと突っ立っている数本のアホ毛を揺らし、セーラー服とスカートの中を吹き抜ける。


「いや、お休みっつーか……」


 戸惑いがちに返事をしたのは、廊下側の列の前から二番目の席に座っている、クラスの委員長を務めている男子だ。


「なあ。うちのクラスん中で大宮って苗字の奴はお前だけだよな?」


 委員長は、先生に向けた視線を自分の席の後ろに座っている琥央こお──大宮琥央に目を向けた。

 あまり訊かれたくない質問だったのか、琥央が気まずそうに目を逸らしてから「ああ」と頷く。

 すると、委員長は「うーん」と軽く唸りながら腕を組んで、


「だよなぁ。で、色珀は……」


 窓側の一番前の席に座っている私の顔に視線を向けた。

 先生が手に持ってるあれは、お前のレポートの可能性が高い。お前が書き換えたんじゃないのか? だったら、いつまでも黙り込んでねぇで、先生に説明してさっさと受け取りに行け。とでも言いたげな、呆れた眼差しだ。

 無茶言うなバカ。……って本当に言われたわけじゃなくてただの憶測だけど。

 私もみんなと同じように、苗字が変わっている理由が全然分からないから、説明しようにもできないのだ。

 クラスメイトが私に向ける視線の数がどんどん増えていく。チラ見程度だけど怖いから嫌だ。見ないで欲しい。

 目が合わないようにひたすら前だけを見詰める。

 このままじゃいけない。

 そう思った私は勇気を振り絞って、「先生……」と軽く手を挙げた。


「はい、何ですか?」


 当然先生が気づいて、私を見る。どっどっどっ、と耳から直接心臓の音が聞こえてくる。

 まるで、耳が心臓そのものになったかのような奇妙な感覚がして、ちょっと。いや、かなり怖い。


「それ、私のレポートで間違いないと思います……。でも、私の苗字は大宮じゃなくて、新嶋です。何で大宮に変わってるのか、私にも理由が分からないです」

「えっと? じゃあ、あなたは大宮色珀さんじゃなくてどなたですか?」


 先生は混乱している様子で首を傾げるけれど、この場で一番混乱しているのは私だと思う。

 先生は私の名前と顔が一致していないことがこれで分かってしまった。

 一年から三年まで全クラスの授業を行ううえに授業回数は週に一回だけだから、仕方ないと言えば仕方ないけど、ちょっとだけへこんだ。

 積極的に話しかけてくれるとか、素行が悪いとか、特徴的な生徒の名前と顔は覚えようとしなくても自然と覚えているんだろうなあと思う。


「新嶋色珀です」


 私は羞恥心に襲われながらも何とか言った。ホントに。何で。入学して間もないころなら分かるけど、中二の九月頭に名乗らなくちゃいけないんだろう……。


「どうして、書き換えたの?」 


 先生が優しいトーンだけど戸惑いを含んだ声で尋ねてきた。

 唇は笑っているけどそれは苦笑いで、目は明らかに困っている。

 先生は私が犯人だと決めつけている。

 信じてもらえるかどうか分からないけど、誤解される前に早く否定しようとしたその時。

 ガンッ、と金属の物が何かに当たったような大きな衝撃音が耳に飛び込んできた。

 大きな音が苦手な私は、怖くてたまらなくてぎゅっと目を瞑る。


「ごめん……」


 目で見て確認しなくても、その声の主が誰であるか分かった。しかし、私の左耳が大きく反応して、すぐさま声がした方向に顔を向ける。

 と、予想通り琥央がいて、椅子から立ち上がっている。

 どうして立ち上がったんだろうと私が怪訝に思っていると、琥央の後ろの席に座っている男子が静かにかぶりを振った。

 気になってその男子の表情を気づかれないようにそっと窺ってみる。無表情だ。これじゃあ何も分からない。表情から感情を読むことは難しそうだ。多分怒ってはいない、はず。うん。怒ってないといいな。

 恐らくだけど。今さっき鳴ったガンッていう衝撃音は、琥央が勢いよく立ち上がったことが原因で、自分の椅子の背もたれをすぐ後ろにある机にぶつけた際のものだろう。

 だから、琥央はぶつけてしまった机の席に座っている男子に、ごめん、と謝罪したのだと思う。やっぱりちょっとは怒ってるかな? 許してくれてるといいけど。ぶつけたのは絶対わざとじゃないの。琥央のこと、どうか許してあげてください。

 私はその男子に対して心の中で懇願した。

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