12
再び目が覚めると、白い天井が見下ろしていた。
はじめは自分の部屋にいるんだと思った。でも周りを囲む見知らぬ薄ピンクのカーテン。左側の窓に置かれた、花が不在の花瓶。
私は起き上がってカーテンの隙間から辺りをそっと窺った。他にも同様にある無数のカーテン。白い床。すぐに病院だと気付いた。
どうしてこんなところにいるのかわからず、しばらく呆けていたら、入口の大きな白い扉がスライドして、よく知る顔が入って来た。
慌ててベッドに潜り、布団を頭まで深く被る。
(何で藤村君が……)
心の中で繰り返し呟いていると、静かにカーテンが開いた。じっとしていたら、彼は手を伸ばして窓際の花瓶を取り、花を差した。水を注ぐ音が聞こえる。
花瓶を戻した彼は、遠慮しているような動きで、窓の下の丸椅子にゆっくり座った。
「ごめん……」
ぼそりと呟いた声が、布団越しに聞こえた。周りの雑音が色を濃くし始める。この空間だけが、真空になったようだった。
「秋ちゃん……起きてるよね?」
私は何も言わなかった。
「そのままでいいから、聞いて」
そう呟いて、おもむろに彼は話し始めた。
「去年の夏さ、友達の家で飲んでたんだ。そしたらいきなりおしかけて来た奴がいてさ……。それが、雅也だったんだ」
去年の夏といえば、私がちょうど留学したばかりの頃だ。そのまま、彼は雅也と仲良くなった経緯を事細かに話した。私は黙ってそれを聞いていた。
「家を探してた雅也に、あのアパートを教えたのも俺なんだ。まあ……まさか隣の部屋が空くとは思わなかったけど。しかも本当に契約するとも思わなかった」
やっぱり、と思った。藤村君が雅也の友達だと知ったとき、きっとそうなんだろうと思った。
「事故の日も……あいつ、俺の家来てたんだ」
ぽそり、彼は呟く。
「あいつ俺の家に来ても、いつも秋ちゃんの話ばっかりするんだよ。その日も、昨日秋ちゃんに電話で怒られたって言ってて。でもあいつ全然落ち込んだりとかしてなくて、それどころか、早く帰って来ないかな~とか言って笑ってたんだよね。やっぱさ、あいつなんかズレてるよな」
彼はそこまで言うと、ははっ、と呆れたように笑った。そしてまた、言葉を紡ぐ。
「それで、あいつが俺の家出てってすぐ、あいつの忘れ物見つけたんだ。いつもだったら明日渡そうって放っとくんだけど、そのときはなんでか、なんとなく今渡さないといけない気がして追い掛けたんだ。でももうあいつ結構行ってて。走ってたら、前にいるの見つけたんだ。横断歩道渡ろうとしてた。……それで、俺が声かけようとしたら、物凄いスピードで……車、が……」
最後は消え入るような声になっていた。私は思わず歯を食いしばり、シーツを力一杯握った。
「俺、駆け寄って名前呼んだんだ。でも返事しなくて……ずっと呼んでた。そしたらあいつ、目、開けたんだよ。俺もう必死で名前叫んだ。そしたら雅也、俺が持ってたあいつの忘れ物、ゆっくり指差して、『渡して……あ、き……』って、すげぇ小さい声で言ったんだ。本当にそう言ったんだよ……。だけど、また目、閉じちゃってさ……。それからはもう、いくら呼んでも応えなかった。そのうち救急車が来て……」
そこで藤村君は黙った。見ると両手を額に当てて、微かに体を震わせている。
「信じらんなかった。まじで夢じゃないかと思ったよ……。目の前であいつが……さっきまで一緒にバカ言って笑ってた雅也が、俺の目の前で、どんどん冷たくなってくんだよ……それなのに俺、何にも出来なくて……」
シーツを握った手が震える。そこに、熱いものが一粒落ちた。藤村君の涙だった。
彼は泣いていた。微かな鳴咽が聞こえる。気付いた途端、堪えきれず涙が溢れた。
どうして今まで気が付かなかったんだろう。雅也が死んで傷付いたのは私だけじゃない。藤村君や、他の友達もいて、おじさん、おばさんも、雅也を愛した全ての人達が、同じように傷付き、同じように悲しみ、同じように癒えない傷を抱えた。
それぞれが現実を受け入れて懸命に前へ進もうとする中で、私は自分を責めるふりをして駄々をこねては、現実を受け止めたときにさらに傷付くことを恐れて、雅也から逃げてばかりいた。
みんな、辛いのは同じなのに。自分だけが傷付いているような気でいた。
私は肩を震わせ泣いた。シーツにどんどん染みが広がる。しゃくりあげながら私は言った。
「事故の前の日、雅也から電話があって……」
「約束したのになんで電話くれなかったのって聞いたら、あいつ酔ってて、『ごめんごめん、ちょっと忙しくて忘れちゃったんだよね。ていうか早く帰って来いよ。俺もう死にそう』って笑いながら言われて。私、怒って、『あんたなんか死んじゃえ!』って怒鳴って電話切った……。そしたら次の日、おばさんから電話があって、『雅也が死んだ』って……」
嘘だと思った。いつもの悪い冗談だと。だけど、二度とその姿を見ることさえできなかった。
それからずっと、あの日自分が言った言葉が頭の中に回り続けていた。私のせいだと言われているようで……耳を塞ぐために、私は逃げた。
「酷いよね……。ずっと雅也を縛り続けてきたのは私なのに、最後の最後にこんな……」
込み上げる涙と嗚咽で喉の奥が痛んだ。
「本当に、なんであんなこと言っちゃったんだろう……。あれが最後の言葉になるなんて、考えもしなかった。まさかこんなことになるなんて……!」
泣きじゃくり続ける私に、藤村君は「これ……」と言って黒い紙袋を見せた。
それは数日前、藤村君の部屋に行ったとき、彼が黙って取り出した物だった。
私が顔を上げたのを確認すると、彼は袋から綺麗に包装された小さな箱を出して黙って差し出した。
「それさ、雅也の忘れ物なんだ。ずっと渡したかったんだけど……遅くなってごめん。開けてみてよ。あいつの気持ち、わかるはずだから」
戸惑いながら、包みを取って箱を開けた。
「う、そ……」
中には紺色の厚いベルベットに包まれた綺麗な箱があった。見ただけでわかる。指輪を入れる箱だ。
まさかと思いつつ、その箱を開いた。
「えっ、何これ……」
そこには指輪はなく、『残念!』と書かれたカードが入っていた。
呆気にとられていると、カードの側に小さく折られた手紙を見つけた。静かに開いて読んでみる。
『秋へ。本当は婚約指輪を買いたかったんだけど、やっぱそれは一旦家の費用に回して、指輪を入れる〝箱〟を買ってきた。ただの箱なのに高いし……。というわけで、中身は来年、一緒に選びに行こう。あと多分もう謝ってるだろうけど、電話出来なくてごめんな。この前もお前の話軽く流してごめん。なんかあの日、指輪見に行ってちょっと浮かれてたんだよね、俺。本当に反省してます……。頼むからシカトとかやめてね? 誕生日おめでとう。愛してます。』
カードを見た途端、藤村君が吹き出して、あいつらしいと言って笑った。私はさらに大粒の涙をこぼして必死に頷いた。
雅也のいないこの場所で、こんなにも雅也の愛を感じる。そんなこと、もう二度とないんだとばかり思っていたのに。確かに今、雅也の温もりを感じている。
「……実はさ、秋ちゃん。あいつ事故の前、秋ちゃんにプレゼント買うために夜もバイトやってたんだ。結婚式の費用稼ぐとも言ってた。あのときは冗談だと思って笑ったけど、あいつ本気だったんだな……。連絡が減ってたのはきっとそれでだと思うよ。それと最後に会ったとき言ってたんだけど、誕生日に電話出来なかったのさ、あれ本当はあの日急に出勤しないといけなくなって朝までずっと電話する時間がなかったらしいんだ。秋ちゃんに怒られたことも、『帰ってきたらちゃんと話すし大丈夫!』とか言って、不思議なぐらい全然気にしてなかったよ……ったく、ちゃんとバイト掛け持ちしてること話せばいいのに、変なとこ秘密にするんだよなぁー……」
藤村君は、私を見て寂しそうに笑った。
なんにも知らなかった。私は本当に最低だ。雅也がそんなに頑張ってくれていたことも知らずに、心の中で雅也を責め続けて、雅也の気持ちを疑って。
誰よりも優しいあの人を、歪んだ目でしか見れなくなっていた。私はなんて酷いことをしていたんだろう。
「秋ちゃん、本当はわかってるでしょ? 雅也が恨んでるわけないって。ただ……あいつが死んだことを認めたくなかっただけだ」
涙に詰まって声が出ないまま、私は何度も頷いた。
「だって、雅也のこと一番よくわかってるのは秋ちゃんじゃん」
その一言に、とうとう私は声を上げて泣きはじめてしまった。それでも藤村君は優しく笑って、私を抱きしめてくれた。
「……大丈夫、もう大丈夫だから。幸せになってもいいんだよ」
その言葉は、いつかの笑顔のように、私の胸に暖かく溶け込んでいった。
そうしてしばらくの間、私は声を上げて思いっきり泣き続けた。
他の患者と見舞い客に疎ましい目で睨まれようが、駆け付けた看護婦に怒られようが、気にも止めずに泣き続けた。
ようやく落ち着いた頃。私は自分が病院にいる理由を知った。昨日、栄養失調で倒れたらしい。藤村君によると、凄い音がしたので覗いてみたら、隣のベランダで私が倒れていたのを見つけたんだとか。そのあとも付き添ってくれた彼に、私は何度もお礼を言った。
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