10



 藤村君の部屋は、きちんと物が納められていて無駄がなくきれいだ。物が少ないだけの私の部屋よりも、どことなく広く感じる。

 大事な話があると言った目の前の彼は、温め直したお粥を少しずつ口に運んではいつもと変わらない話をしているだけで、本題に入る素振りも見えない。

「秋ちゃん」

「何?」

 ついに来たか。一体何を言われるのかと私は顔を上げた。でも彼の口から出たのは全く期待外れな言葉だった。

「一口でいいから、食べてみなよ。すごい美味しいからさ。食欲も出るかもよ」

 思わずため息をついた。

 テーブルに置かれた私の分のお粥を見やる彼。そんな仕草にも苛ついてしまって、たまらず私は、「話って、何?」と自分から尋ねた。思ったよりも不機嫌な声が出て少し焦る。

 すると限界だと感じたのか、彼はため息とも深呼吸ともとれる長い息を吐くと黙って立ち上がって背中の戸棚からこぢんまりとした黒い紙袋を大切そうに、そっと取り出した。

「それ、何?」

 紙袋をテーブルに置いて腰をおろした藤村君に尋ねた。

「秋ちゃん。驚くだろうけど、最後まで俺の話を聞いて欲しい。もしかしたら……秋ちゃんを傷付けるかもしれない。でも、大事なことなんだ」

 藤村君は質問には答えずに、私の目を見つめてゆっくり言った。

 何も言えず、私はただ頷いた。

 時計の音だけが部屋に響く。重すぎる沈黙に、息苦しささえ感じる。

 藤村君は何から言おうか迷っているようで、口を開いたり閉じたりを何度か繰り返した後、「あのさ」とだけ言って、また黙ってしまった。時計が再びリズムを刻み始める。

 すると突然けたたましい音が鳴り響いた。私は驚いて肩をビクっと小さく揺らした。二人同時に音のする方を向いて音源を探す。

「ごめん、忘れてた……」

 正体は時計のアラームだった。慌てて藤村君がアラームを止めに別室へ立った。私はその様子をなんとなく目で追って、ついでに改めて部屋を見回してみた。

 ちゃんと靴が並べられた玄関。そしてさすが料理人なだけあってキッチンは念入りに手入れされている。思わず自分の部屋の、うっすらと埃がついたコンロを思い出した。

 ソファにテーブル、おしゃれな椅子、食器棚、そして大きな本棚。壁付けの背が高い本棚は一際目を引いた。中には本がずらりと並んでいた。眺めていると、やっぱり料理の本ばかりで素直にすごいなと思った。

 ふと、その中に見覚えのあるタイトルを見付けた。

「これって……」

 思わず立ち上がって本棚に向かう。一番上の段に立てられた、大きくて分厚い本。

 何も珍しくない、どこにでもある、ただの料理本。

 でも棚に収まりきらず少し飛び出したその背表紙に、印刷ではない見覚えのある線がわずかに覗いているのが見えた。

 戻ってきた藤村君が、「どうしたの?」と聞いているけれど、声は耳を通りすぎて消えた。

「何、これ……」

 本を手に取った。どこにでもあるはずの、ただの料理本。でも、そこには有り得ないものが一つだけ。

「なんで……? なんで、雅也の字があるの……?」

 問い掛けた声が震えた。

 その本の背表紙には、雅也の癖のある字で「頑張れ!」と大きく書かれていた。

「私……これ、知ってる」

 なんでこれを藤村君が持っているんだろう。だってそれは、雅也が……。

「雅也が、友達にあげるって……」

 去年の冬。語学学校が少しの間休みになったので、私は留学先から帰国した。雅也は私を迎えに空港まで来てくれていた。

 家に帰る途中、通りがかった本屋で、『友達がもうすぐ誕生日だから』と言って、雅也はこの大きな本を買って行った。

「本でいいの?」と聞くと、「そいつ料理人目指してるんだけどさ、もっと勉強して早く夢叶えて欲しいじゃん? すげぇ頑張ってるし」と真剣な顔つきで言われて、よっぽど大切な友達なんだろうと思った。

 だけど「今度私にも会わせてね」って言ったらすごく嫌がられて、少し寂しかった。

 雅也は家に着くなりすぐに、私の部屋で、買ったばかりの本にメッセージを書いた。私はそれを隣で見ていた。ちょっと失敗したと焦る雅也を、渡すのが楽しみだと微笑んだ雅也を。

 ──ああ、そういえば。

 あのとき雅也は、「お前の誕生日はもっといいもんやるから、楽しみにしとけな」なんて、言ってくれたっけ。

 楽しみにしていたその誕生日は、今までで一番最低なものだったけれど。

 なんだか、何もかもどうでもよくなってきた。

 驚いた表情で立ち尽くす藤村君が何か言おうとしたとき、私が手に持っていた本の中から、パサリと何かが落ちた。写真だった。そこには、楽しそうに笑う雅也と藤村君がいた。

「黙っててごめん。俺、実は雅也と友達で……!」

「もういい……」

 私は力なく藤村君の言葉を遮った。

「秋ちゃん、ちゃんと聞いて! 雅也のためにも……雅也は秋ちゃんに……!」

「やめてよ! あんたが誰かなんて知らない! 知りたくもない! ずっと私を騙してて楽しかった? だったらもう十分でしょう!? これ以上やめてよ!」

 その言葉に藤村君は口を噤んだ。すかさず私は背を向けて歩き出した。

 玄関のドアノブに手をかけたとき、藤村君が私の腕を掴んで言った。

「待って! 騙すつもりじゃなかった……本当にごめん。でもなんであいつから逃げるんだよ! あいつは秋ちゃんが幸せでいることを誰よりも願ってるはずだろ!?」

「違う!」

 私の否定に、藤村君は困惑した表情を浮かべた。私は彼の目を見て言い放つ。

「それは違う……雅也はあたしを恨んでる。 私がいたせいで、雅也は最後まで自由になれなかったんだから」

「そんなわけないだろ!」

「うるさい! 何も知らないくせに!」

 もう止められなかった。

「じゃあなんで雅也は連絡をくれなくなったの!? なんで私の誕生日を忘れちゃったの!?」

「秋ちゃん…!」

「私は最低なの! だから雅也は……」

「違うよ!」

「……私が、」

乾いた唇から出た声は涙に詰まって震えてしまった。

「私が最後に言った言葉が、『死んじゃえ』でも……?」

 顔が熱い。胸が苦しい。涙が知らずに頬を伝っていた。

「私……最後に、『死んじゃえ』って言ったんだよ……? それでも雅也は私に幸せになって欲しいと思ってる……? 本当にそうだって言える!?」

「秋ちゃん……」

 一番忘れたかった記憶。言葉はいつも、実感となって胸を刺す。

 顔中が涙でぐちゃぐちゃだった。自分でもわけがわからなくなって藤村君に掴まれた腕を振り解いた。

 気が付いたら自分の部屋にいた。まるで頭の中のものすべてが、どこかへ吹き飛んでしまったようだった。その感覚は、数ヶ月前、物言わぬ棺を目の当たりにしたときのそれとよく似ていた。

 私はまた、何かを失ってしまったのだろうか。だとしたら、一体何だろう。

 ──ねえ、これ以上失うものなんて、私にはもうないよ……雅也。

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