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 驚いたことに、藤村君のお願いとは、犬のお守りだった。

 友人の家が急遽修繕が必要となってしまい、その間だけ飼っている犬を預かることになったのだそうだ。ほとんど毎日朝から晩まで働いている藤村君よりも、バイト勤務の私の方が時間に融通が利くこともあってか、藤村君の留守中に様子を見て教えてほしいと言われた。突飛なお願いに戸惑ったものの、元々動物が好きだったこともあり、様子を見るだけならと、その役を引き受けることにした。

 その犬はシオンという名前の小さなテリアで、とても賢く手のかからない子だった。

 私は藤村君から日中鍵を預かり、毎日の空いた時間をシオンと杉本さんの二匹と一緒に過ごすようになった。その時間は私にとって楽しみとなっていき、仕事が終われば急いで帰って来る藤村君を二匹と出迎えるのも、自然と日課になっていった。そしてお世話にも慣れてきた頃、鍵を預かるよりは、と、二匹を私の部屋で預かるようになった。

 藤村君と話す時間も次第に増えていく。彼は自分の働くお店での面白い出来事や、自分の可笑しい失敗を話しては私を笑わせてくれた。

 藤村君の笑顔には、不思議な力がある。見ていると、沈んでいたはずの心が一瞬にして彼のあたたかさにのみこまれてしまう。気が付けばいつもつられて笑っていた。胸に染み込んでくるそのぬくもりは、よく知る何かに似ていた。

 藤村君と過ごす時間も、私はいつの間にか、とても好きになっていた。


「藤村君はずっと料理の仕事がしたかったんでしょ? ちゃんと夢を叶えてすごいね」

「いや、まだまだこれからだよ。俺まだ全然半人前だし」

 何気なく言った言葉にそう返されて、感心してしまった。そして同時に羨ましくもなる。

 私は昔から夢なんて持ったことがなかった。雅也のそばにいれば必然的に幸せが待っているような気がしていたのかもしれない。雅也の歩く道の先には素敵な未来があって、そこに私の未来も存在しているものだと信じていた。

 思えば、私は……少し、雅也に依存していたのかもしれない。そんな私を雅也は、本当に想ってくれていたのだろうか。だからどんどん連絡が減っていったのかな。きっと私は、彼にとって今さら下ろすことが出来ない重い荷物になっていたのではないだろうか。

「秋ちゃんは? 何かやりたいことあったりする?」

「えっ……? あー、うん……特にない、かな?」

「そうなんだ。でも、留学したのは?」

「あー……それはたまたま勧められて、なんかとんとん拍子で進んだから。行ってみるのもいいかな、と。……私あまりにも取り柄がなくて、唯一得意なのが英語ぐらいでさ。と言っても、大した語学力でもないんだけど」

「いや、一人で海外って十分すごいと思うよ。その経験だけでもいろんな可能性があるよ、きっと」

「はは、そうかな……」

 正直なところ、先のことなんて考えたくない。いつ変わるかわからない未来。存在してるかすらわからない将来なんて、どうでもいい。

「でも今はあんまり、何もしたくない……かな」

 そう言ってから私は、「ちょっとお手洗い行って来るね」と立ち上がった。

 留学なんてしなければよかった。──そしたら雅也は。

 そんな考えを振り切って洗面所に向かい、明かりを点けようとスイッチを押す。パチ、という音の後、一拍遅れて白い光が点いた。

 頭を冷やす代わりに顔を洗ってから、鏡を見た。虚な表情の自分と目が合う。妙に細くなった頬と顎に触れた。引っ越してきた一ヶ月前よりもさらに痩せているのは間違いない。体重計なんて持ってないけど、ろくに食事をとっていないのは自分がわかっている。何よりも、鏡越しにこちらを見つめる私自身がそれを物語っていた。

 別にお腹が空かないわけじゃない。雅也が死んで数日経った日、不意に空腹を感じた。ショックだった。普通に考えれば何もおかしくはない人間の生理現象。それでも私には異常なことのように思えてならなかった。雅也が死んでも生きようとするこの身体。それに私は、どうしようもないほどのおぞましさを感じた。

 それからだった。ぱったりと食欲がなくなったのは。お腹が空いて食べ物を前にしても、気分が悪くなるだけで食べる気がしなかった。唯一の栄養源は気休めに口にするゼリーみたいな栄養補給のドリンクだけ。

 このまま何も食べなかったらどうなるんだろう。人間の体ってどこまで空腹に耐えられるのかな。

 そんなくだらない事を考えてぼうっとしていたら、胃の辺りから急に突き上げるような激痛がして、物凄い吐き気に襲われた。たまらずしゃがみ込んで洗面台にすがりつく。

「おぇっ……! ゲホッ、ゲホッ……うぅっ……!」

 今朝飲んだものはすでに消化されたのか、出てくるものは胃液だけだった。

 必死に立ち上がって蛇口をひねり吐いた物を流した。すると必死の形相で藤村君が駆け寄って来た。

「秋ちゃん! 大丈夫!?」

 背中をさすりながら藤村君が言った。それに答えることすら出来なくて、私は生理的に流れる涙で顔を汚しながら止まらない嘔吐感に咳き込み吐き続けた。

 数分後、ようやく吐き気は収まり、私は部屋の壁にもたれかかって荒い呼吸を落ち着けようと息を吐いていた。

「はい、タオル。これで汗拭きなよ」

 藤村君がわざわざ自宅から持って来てくれたらしいタオルを差し出した。

「ありがと……。あはは、わざわざ取りに行かなくてもタオルならそこにあったのに」

 私が洗面台の壁に設置されている棚を指して言うと、「苦しそうだったから聞けなくて」と困ったように言われた。

 きっとこの人は、本当に優しい人なんだろう。私は胸に別の苦しさを覚えて俯いた。

「ねえ、秋ちゃん……」

 気まずそうに呼ばれて、返事をする代わりに視線だけを上げた。

「……ちゃんと食べてる? 最近、すごく痩せてきてるけど」

 私は答えなかった。

「もしこれ以上体調崩したりしたら……」

「ごめんだけど」

 私は藤村君の言葉を遮って言った。

「今日はもう帰ってくれないかな」

「えっ、でも……」

「本当にありがとう。……もう大丈夫だから」

 それでも何か言おうとした藤村君に、私はとどめと言わんばかりに「今日は楽しかったよ。また明日ね」と言い放った。

 藤村君は眠っていた杉本さんを抱きかかえ、心配そうな表情のシオンを連れて渋々自分の部屋へ戻って行った。

 私は静かになったこの部屋で、しばらくの間座り込んでいた。

 やがて来る朝はきっと、昨日よりも暗いだろう。徐々に濃い影を落としていく毎日。いっそのこと、その影にのみ込まれて消えてしまえたなら。

 私はゆっくりと、重い瞼を閉じた。

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