3
翌朝、猫の鳴き声で目が覚めた。
不審に思って声のするキッチンへ行ってみると、どこから入って来たのかレンジフードの上に一匹、青い目をした灰色の猫が床を見下ろして必死に鳴いていた。どうやら下りられないらしい。
「ニャァ……」
そっと手を伸ばして抱きかかえると、猫はホッとしたように一鳴きした。
辺りを見回すと、廊下に面するシンク上のすりガラスが少し開いていた。この猫はそこから入って来たのだろう。首には瞳と同じ青い首輪がついている。
「ということは野良じゃないね、キミ」
「ニャァ〜」
猫は大人しく抱かれたまま、腕の中からじっと部屋を観察している。なんとなく部屋の薄暗さを指摘されているような気分になった。ベランダへ向かい、昨夜窓に貼った新聞紙を一枚、片手で剥がした。
現われた空は晴れていた。夏特有の濃い青をしている。しかしながら、その逆光によって部屋の中はより影が強調されたように感じた。
──ピンポーン
突然、玄関ベルが鳴った。何かしらの荷物が届いたのだろう。玄関へ行き、ドアスコープを覗いた。けれどドアの向こうに立っていたのは宅配業者ではなく、見知らぬ若い男性だった。襟足の長いブラウンの髪からなんとなく軽そうな印象を受ける。何かの勧誘だろうか。
一旦ドアチェーンを掛けてから、小さくドアを開けてみる。
「はい……」
「あの、突然すみませ……杉本さん!」
ドアの隙間から顔を見せた男が興奮気味に言ったが、それは知らない名字だった。
「あの、人違いじゃないですか」
「あっ、すみません、違うんです! そうじゃなくてその猫……」
男が見つめていたのは、私が腕に抱いている猫だった。
「その猫の名前、杉本さんっていうんです。すみません、俺の不注意で窓から出ちゃったみたいで……!」
──ああ、そういうことか。
どうやら彼はこの猫の飼い主らしい。どうぞ、と言って私はその猫、杉本さんを渡した。涙目になって大きく安堵する彼の様子からして、名前のセンスはひどいけれど、大事にしているのは確かなのだろう。
彼は嬉しそうに杉本さんをしっかり抱くと、「何かお礼というか、お詫びでも……」と言ってきたので、丁重に断った。彼は「そうですか……」とさらに申し訳なさそうに肩を落とすも、「あっ、俺、隣に住んでる藤村です」と思い出したように名乗った。
「あ、どうも……遠野です」
つられ私もまた名乗る。なんか変な会話。
「遠野さんは、昨日引っ越して来たんですか?」
藤村さんが人当たりの良さそうな笑顔で聞いてきた。右側だけ八重歯が見える。私も薄く笑みを返して、はい、とだけ答えた。
「そうですか……。えっと、引っ越し早々ご迷惑をおかけして、ほんとすみません! 俺、一応ここに住んで結構長いんで、何かあったらいつでもどうぞ!」
彼はまくしたて、お礼を言おうとした私の言葉まで遮って、
「あと、101号室の佐伯さんには挨拶しといた方がいいですよ。年配の方なんですけど、そういうの後ですごくうるさいから」
と小声で言ってきたので、一瞬きょとんとしてしまった。
「あ、お節介でしたか? すみません……」
「いえ……ありがとうございます」
どうやら悪い人ではなさそうだ。ドアスコープ越しに軽そうだと思ってしまったことを心の中で詫びた。
それからというもの、私は藤村君とよく顔を会わせるようになった。
特に親しくなったというわけではないけれど、話して少し彼のことを知った。私と同じ歳で、近くのレストランの厨房で働いているらしい。杉本さんはそこの店長から特別に譲り受けたんだとか。店長の名前が杉本なのでそう名付けたらしい。
正直なところ、ここに入居しようと決めたときは人付き合いをするつもりなんてなかった。けれど、彼の人柄もあってか、たまに交わす程度の当たり障りのない会話は心地良い時間になっていった。
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