エクレア/ミルフィーユ (2022.3)
くじら(イトピナヨス)
エクレア
この家に来る度、チャエは何とも言えない、残念な心地がする。田舎町のはずれにひっそりと佇む民家。屋根は雨風に汚れ、煙突もすすだらけ。せめて玄関の蜘蛛の巣くらい払っても良いだろう。それすら彼には酷だと分かっているが、そう思わずにはいられない。
「ただいま……戻りました」
扉を開けると、ライが階段を慌てて下りてきた。
「買い出しご苦労様。重いだろ。置いといていいからな」
ライはチャエが荷を降ろすのを手伝い、コートを壁に掛けた。自身の出来ないことの代わりなのか、この男は尽くすように働く。
「今お茶淹れるから、手洗ってきて」
この顔色を伺うような目が、チャエは嫌だった。かつて勇者と共に、戦士として魔王の左目を抉ったあの気迫は、最早どこにも無い。それが悲しくて、チャエは黙ったままライに背を向けた。
手を洗った後、チャエは二階へ行った。そこかしこに埃が積もる家の中で、階段と二階だけは清潔に保たれていた。
「イチヅミ。」オークの扉を叩き、部屋の中に呼びかける。返事は無い。
扉を開けると、入れ替わるように風が吹き抜けていった。部屋の中は薄暗く、開け放った窓のカーテンがはためいている。部屋の中央のベッドに目をやる。かび臭いマットレスには、見知った顔の少女が横たわっていた。
「あなたは本当に……いつまで眠っているつもりですか」
チャエは仕事に取り掛かる。四隅の柱に銅釘を打ち、銀糸、自身の髪、聖獣の毛を麻紐に編み込んだ物を結んでいく。窓枠には鉄釘で同じように行い、扉は蝶番の留め釘を鋼に交換した。最後に、それら全てに祈りを込める。チャエが勇者の部隊に入った頃は、ここまで強い結界を張る事になるなんて、想像もしなかっただろう。
部屋を出る前に、チャエはベッド横にしゃがみ込み、少女の横顔を眺めた。
「イチヅミ。」少女の名を呼ぶ。
「早く起きてください」
チャエはイチヅミの手を握り、目を伏せる。
「……勇者が眠っていて、どうするんですか…」
脈の無いその手指は、彫刻のように冷たかった。
居間に戻りハーブティーを飲んでいると、ライが戸棚から一冊の筆記帳を取り、何かを書き始めた。
「それは……日記ですか」
「そんなところだ。診察で見るから、その日やったことを書いておくようにって先生に。」
ライは筆記帳のページをパラパラとめくってみせた。会った人、行った場所、作った料理、食べた物、触れた物。何を見て何を思ったか。挑戦して成功したこと、失敗したこと。普通の日記より、事細かに書き込まれている。最新の項目には、ローズマリーのハーブティーを淹れて、二人で飲んだことが書かれていた。
「……そういえばあなた、随分やつれましたね。」ライの体を見てチャエが言う。「まだ、肉は食べられませんか」
ライは少し考えた後「そうだな。加工済みの、例えばウインナーとかひき肉とか。それなら少しは食べられるけど……やっぱり量食べるときついし、生肉が調理できるのはもう少し先になりそうだ。」
と、申し訳なさそうに、あの目で笑った。
ライは戦士になるためには、心が弱く、優しすぎた。『将軍の弟』『勇者の幼馴染』それだけで旅に参加し、結果、旅が終わる頃には、精神を患う羽目になった。ライは多くの命のやり取りによって、これ以上他者の命を奪うのが怖かった。そして、そのせいで周りにどう思われるか、それが恐ろしかった。
「……それでも、出来ることも増えたのでしょう?ならいいじゃないですか」
少し間をおいた後「かもな。」ライは曖昧に応えると、筆記帳を戻そうと席を立った。チャエはすっかり冷めたハーブティーを飲み干し、暫く物思いに耽っていた。
豆と野菜中心の夕飯を食べた後、チャエは再度二階へ上がった。部屋の前で、チャエはオークの扉が開いているのに気が付いた。ライだ。蝋燭の灯かりだけの暗い部屋で、ベッド脇の椅子に腰掛けている。すぐにチャエに気が付き振り向いた。
チャエは、朱に照らされたイチヅミに目をやる。
「……まるで人形ですね。あの日のままだ。」
イチヅミは、三年前に眠りについてから、何一つ変化がない。成長もせず、朽ちもせず、まるで時が止まったようだった。
「なあ、チャエ。本当は、時々思うんだ。……もう目が覚めない方がいいんじゃないか……って。」
チャエは何も言わなかった。ライが続ける。
「……魔王の呪いとか、いろいろ噂がたって、皆に怖がられて。お前も城から追い出されて……魔術師……カヤフも、殺されて……」
ぽつりぽつりと、思いの丈をこぼす。チャエは黙って聞いていた。
「今この状況で、起きても大丈夫なのかって。もしかしたら俺達も……カヤフみたいに……」
消え入りそうな、悲痛な声だった。もう休んだ方がいい。チャエが声を掛けようとしたその時、ふいにベッドから気配がした。
とっさに顔を上げる。
そこには見慣れた少女がいた。
少女は起きていた。上体を起こし、こちらを見ている。「イチヅミ。」声が震える。瞬きを繰り返す瞳は、光を湛え、薄く開いた唇からは、確かな呼気が漏れる。夢ではない。確実に、そこにイチヅミが居る。
気味が悪かった。
チャエは、全身の毛が逆立つのを感じた。
ライを横目に確かめる。冷や汗を浮かべ、酷く動揺しているらしい。
動いた気配がしなかった。胸まで毛布がかかっていた筈なのに、衣擦れひとつ聞こえなかった。全身がすくんで凍り付いたように動かない。今まで感じたことのない緊張感と、胃の中をかき混ぜられるような不快感。
それは、ゆっくりと瞳を閉じると、崩れるようにベッドに倒れた。
部屋は静まり返り、それきりだった。
チャエとライは、お互いの顔を確かめ合う。
今のは何だったのか。聞いたところで、分かる筈もなかった。蝋燭を手に取り、何度も顔を見合わせたが、結局一言も話せないまま、二人は黙って部屋を後にした。
夜闇に包まれた部屋の隅で、取れかかった銅釘の麻紐が静かに揺れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます