第12話「聖女の名前」
〇〇△△。それが聖女の名前。
神官や国王でさえ聞き取ることができなかったことが、彼女が異世界の住人であること裏づけていた。
けれど聖女は特に気にした様子もなく、にこにこと嬉しそうに笑っている。
ゲームってそういうものですもんね。
言葉の真意さえ誰も読み取れず、ただ聖女が今の状況を喜んでいることはわかった。
そして聖女には世界で通用する仮名が与えられた。しかし彼女をそう呼ぶ者は少ない。
多くが聖女様と畏敬の念を抱き、おそるおそると口に出すのだ。
彼女はそれが不満だと言わんばかりに、少しだけつまらなさそうな顔をする。
立場を理解していない。誰も教えてくれない。ただ聖女が嬉しそうに受け入れているから、その状態を維持しようと誰もが綱渡りをしている。
もしも聖女が浄化を行わないと臍を曲げてしまえば、後始末が発生してしまう。
その手間は大変面倒だ。
一人目でさえ竜谷に連れて行くのに時間がかかったのに。
様々な思惑が絡んでいることも知らず、聖女はるんるん気分で長い廊下を歩いていた。
王宮内は広く、曲がり角や行き止まりが多い。あえて迷わせる構造にしており、まっすぐに続く道は少ない。
一階、半二階、二階という階層構造も新人侍女が戸惑う一因だが、聖女には経験豊富な侍女達が付き添っている。
冒険しようにも彼女達が引き止めてしまうので、聖女は決まりきった道を歩くだけだ。
今日は魔導騎士団第二隊長のケイジが先生をしてくれる魔法学の授業だ。
一目見た時に「攻略対象」だと思った。それだけ存在感と美貌が違う。経歴を聞いても優秀な魔法騎士である。
危険な土地に行って浄化をする。周囲にいるのは騎士を始めとした貴族や王子達。これで「乙女ゲーム」でないならば、ただの悪夢である。
聖女は異世界では現役女子高生として、それなりに流行りの漫画やアニメを嗜んでいた。
その中で異世界転生の話が数多くあったことも把握している。転生というよりは召喚や転移の類だが、今は気にしない。
家への帰り道、目の前が明るくなったと思ったら釣られるような感覚。魚の気持ちを味わった直後、見知らぬ世界で知らない人々に囲まれていた。
夢見る女子高生の直感で、これは異世界転生系のゲームの中に潜り込むアレだと理解した。
しかも悪役令嬢ものではない。命の危機に怯えるのではなく、世界を救うために奮闘する方向性であることに喜んだ。
小説でも、漫画でも、なんでもいい。非現実の安全保障つきの内容であるならばどうでもよかった。
最終的に目的を達成すれば、帰る見込みもつくはず。
たった一度しかない人生の、もう二度と訪れることないチャンスを楽しもう。
どうせなら積極的に恋愛をしてみたい。現実では駄目でも、異世界ならば思うままに行くかもしれないのだから。
「フィーロ」
あと少しで辿り着く矢先。
いまだ慣れない仮名で呼ばれて、聖女はわずかに動きを止めた。
「第二王子……」
「バランと呼んでくれ。聖女ならば許そう」
さらりと金髪をかき上げる仕草は、動物の求愛行動のようだ。
気取った髪型に、下心が丸見えな桃色の瞳。宝石が派手な王子用の服は、品位を下げる要因だとは気づいていないらしい。
ずいっと顔を近づけてくるので、聖女は少しだけ背筋をのけ反らせる。
「今日も魔法の授業か?」
「はい。そうです……」
「聖女に魔法の知識は不要だろう?やめにして、私と茶会を楽しまないか?」
最初に出会った頃からこうである。
聖女のあるべき姿というものを押しつけて、自分にとって都合のいい方向に持っていく。
魔法がない異世界で生きていたから、魔法が新鮮で面白いのに。何度言っても、この言葉を繰り返すのだ。
「聖女は浄化さえできればいいのだ」
それは楽だろう。けれど自由ではない。
聖女としても将来働くのは面倒だと思ってはいるが、その選択肢を奪われてしまうのは違うだろうと感じていた。
それに第二王子の言い分は、まるで意思を持った道具に言い聞かせるような響きがある。
「あの、第二王子……私は……」
「魔法学担当に今日は中止だと伝えておく。だから」
漫画みたいに殴れたら楽なのに。
異世界とはいえ、目の前の相手は生身の人間。暴力を振るえば、怪我をしてしまうだろう。
なにより王族。そんな相手に逆らうことはできないと、身につけた知識が邪魔をする。
「それは困る」
第二王子の背後、彼を守る騎士達の後ろからひょっこり顔を覗かせたのは、長い白髪が印象的な青年だ。
前髪は鬱陶しかったのか、眉毛の上で乱雑に切られている。しかし後ろ髪は首を傾げれば大きく揺れる。
青い瞳があちらこちらに動いており、それは目前に全く集中していないようだ。
「だ、誰だ!?」
護衛の騎士達が一斉に振り向いて剣先を向けた。
危うく鼻先が切られる寸前、青年の体が後ろへ引っ張られるように動いた。
慌てて追いかけてきた騎士が、水色のコートの首元を掴んでいる。それを勢いよく引き寄せたせいで、「グエッ」というカエルが潰れたような声が響く。
「誠に申し訳ございません!」
直後に騎士が青年を廊下の床に叩きつける。ゴッ、とかなり鈍い音が響いた。
王宮の廊下にも様々な種類があるが、聖女達がいるのは赤い絨毯が敷かれた廊下である。歩いても音が聞こえにくい、高級感あふれる場所。
絨毯の毛の下にある床板に当たったのか、青年の額あたりからじわりと広がる液体。
絨毯の毛を濃く染めるのは血だろうか。
赤い絨毯のため、見分けがつきにくい光景だった。
「こちらは私が本日の授業を盛り上げるために呼んだ占い師です!ただ修行に明け暮れるせいで、俗世に疎く……」
ケイジが必死に言い訳を募る中、聖女は目を輝かせた。
占い。個人によって好き嫌いはわかれるだろうが、聖女にとっては気軽に楽しめるお遊びだ。
素敵なことは受け入れて、悪いことは関係ないと割り切ってしまえばいい。タロットカードや水晶に星など、使うモチーフもなんだかカッコ可愛い。
「第二王子、私やっぱり今日の授業を受けたいです!」
「聖女!?」
言い訳を跳ね除けて怒ろうとしていた王子は、驚愕で口があんぐりと開いている。
しかし関係ない。聖女が浄化さえ行うだけでいいのならば、それ以外に干渉される謂れはない。
「占い師さん、お名前は?」
「……ライム」
絨毯からようやく頭を上げた青年――ライムは額を押さえたまま仏頂面だ。
血は流れていないが、手の平から透明な雫がぼたぼたと落ちている。慌てて薬を塗っているのだろうかと、聖女は勝手に勘違いする。
「聖女は?」
ケイジが横で顔を青ざめている中、ライムはそう問いかける。
俗世と離れていたせいで、聖女について全く知らないようだ。しかしどうせ聞き取ってもらえないのだとしても、これが元の世界の痕跡であることは間違いない。
「〇〇△△です」
ケイジも、王子も。騎士や侍女でさえ。
誰もわからなかった。頭に文字も浮かばず、発音も不明。尋ね返すこともできない。
「……ハルカ?」
異世界で初めて、本当の名前を呼ばれた。
それは聖女が考えていたよりもずっと嬉しいことで、占い師の青年――ライムに対して信用が芽生え始めるのであった。
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