第21話

現実から目を背けるように身を翻し駆け出した僕はすぐに家に着いた。今日は店は休みということになっていた。僕はそれを今更ながらに思い出しながら父さんの元へ詰め寄った。

「ユリナは本当にどこにいったんだよ。死んでないんだろ。なあ?」

「ユリナは確かにこの世界からは消え去った」

「この世界からは」と僕は静かに聞いた。からはと言うその言い方は僕に微かな希望をくれた。

「ああ。そうだ。もうユリナはこの世界にはいない。ユリナは今、お前がここに来る前の世界にいる」

 僕は息を飲んだ。つまりユリナは現実世界から来たと父さんは言っている。そういうことだろう。

「僕のことをどうして知っているの?」

「父親だから、というジョークは流石にこの空気の中では言えないな。家族は全員現実世界の人間なのさ。俺にお前にユリナは全員、現実の世界の人間なんだ」

 僕は父さんの言葉に驚愕しながらも確かに異様な点は多くあったと思った。ユリナはこの世界に馴染めないような性格だったと思っていた。だが勘違いだった。ユリナはこの世界に全く慣れていなかった。そう考えると合点がいった。その瞬間に悪寒が全身を駆け巡った。悪寒に急かされるように僕の脳内に次々と疑問は溢れかえるように生み出された。

「どうして僕はこの世界に来たの? この世界はなんなの? もう意味がわからない」

「どこから話せばいいんだろうな」とぽろぽりと父さんは頭を書いた。「ロアル、ここは生きることに絶望した人間が来る世界なんだ」

「生きることに絶望した人間? そんなの僕以外にだってたくさんいると思うけど。と言うかそれ以前に父さんも現実世界の人間? ああもう混乱する」

「だろうな。一つずつ説明しよう。絶望した人間がこの世界に来ることは事実だ。そしてお前が言った通り生きることが嫌になって絶望している人間は吐いて捨てる程いある。それも事実だ。ならなぜお前がこの世界に来たのか? それは天の導きに他ならないだろうな」

「理由になってない」

「それ以外に理由のつけようがないだろう」と父さんは真顔で言った。「それで、この世界がなんなのか? だったか?」

「聞かせてよ」と僕は言った。

「この世界は俺の支配下だ」と父さんは言った。「俺が形作っていると言っても過言ではない世界だ。つまり俺にはこの世界を操作することができる力があるということだ」

「世界を操作?」

「というには語弊があった。ただ俺にはこの世界の住民の記憶を操作する力がる。とはいえこの力を使ったことは過去に数回しかないがな。そういえばお前がこの世界に来たときネオンがこんなことを言わなかったか。意識が乗っ取られたいみたいに場違いなことを考えることがあると」

「言ってた気がする。初日に確かに言ってたよ」と僕は慄然としながら言った。「印象に残るよな変な会話だったから憶えてる。まさか今日この日のために?」

 父さんは肯いた。

「ロア、お前が紛れ込んできたのは俺の庭というわけだ」

「僕の記憶を操作することも造作がないの?」と僕は震える声で訊いた。

「自分の記憶を操作されたと疑っているのか? 発想がお前らしいな。安心しろ、家族の記憶を操作することはできない。ただし、お前がここに来るまでにどんな人生を歩んできたのかは全て知っている」と言い、父さんは一呼吸分間を開けた。「影野律、それがお前の名前だろう」

 父さんが口にした影野律と言う名前は確かに僕の名だった。

「僕はいつこの世界を出られるの?」と半分くらい警戒しながら僕は訊いた。「ユリナがいなくなる時期を知っていたんだ。僕がいなくなる時期だって知ってるはずでしょ」

「それを言うことはできない」

「ふざけんなよ」

「それが父親に対する口の利き方か」と動じずに父さんは言った。「お前は短絡的すぎるな。ネオンやツユハはお前がこの世界に来た初日に言いに来たよ」

 父さんは悲しそうな顔をした。

「何を?」と動揺を隠せないまま僕は訊いた。

「二人は記憶を失った。どうしてかはわからない。だからユリナが病気だということを二人には秘密にしてほしい。そうすることで二人は幸せになれるからと」

 僕は自分がネオンに対してどう思っていたのかを振り返った。あのときのことを振り返った。僕はネオンが裏切り者だと思っていた。ずっとユリナが病気だということを伝えなかった裏切り者だと思っていた。

僕は、ネオンが知るロアルスではないのに。記憶を失ったふりをした影野律と言う人間なのに。僕は今さらになって自分が酷い奴であることを自覚した。

「でもどうしてだよ。あいつらが知ってる昔の僕ってなんなんだよ」

「十五歳になるまでの記憶は最初からあの二人の頭の中にあった。この世界が彼らを生み出したように、その記憶もまた世界が生み出したんだろうな」

「じゃあ十五歳からは」と僕はたどたどしい声で聞いた。自責の念を感じながら訊いた。

「そこから先は後継者さ」

「後継者?」と僕は訊いた。

「家族は皆が後継者さ。思い出してみろよロアルス、お前はこの世界に来た時ユリナのことが好きという設定になっていただろう? それは、お前がロアルスの皮を被る前、別の人間がロアルスの皮を被っていたからだ」

「要するに、僕は引き継いだってことか。だから後継者」

「そういうことだ。補足しておくと、十五歳から十八歳をひたすらにループしているんだ。俺達も家族もお前らもな」

「父さんは? いつからいるの?」

「俺はわからん。何年いたのか忘れた」

「じゃあどうしてこの世界に来たの?」

 矢継ぎ早に訊くと、父さんは深く息を吸って吐いた。

「死のうと思ったからだろうな。俺は事故で記憶を失ったんだ。そして俺は記憶を失って以来どうして自分が生きているのかわからなくなったんだ。妻は俺のいないところでいつも泣いていた。たった一人の息子は俺のことをいつも恨みがましそうに見ていた。腹は立たない。ただ無性に泣きたくなる毎日だった。自殺を考えながら生きていた頃だな、この世界に来たのは」

「そうなんだ」としか僕には言えなかった。

「そうだ」と父さんは言った。

「記憶が消えたから記憶を掌握する力を手に入れたの?」

「だとしたら皮肉なもんだな」と言って、父さんは薄く笑った。「ユリナはどうしてこの世界に来たと思う?」

「早く言ってよ」

「病気になり手術の成功率が一パーセントと言われたからだ。そんなに苦しい戦いをしてまで生きる意味があるのか。もう死んだ方がいいんじゃないのか。学校に通えたのは小学生まで、そこから先は闘病生活。ずっと真っ白な空間で過ごし続けた少女の心は色褪せるばかりだ。次第には両親にも謝るようになっていった。一人でいるときもごめんなさいと幾重も呟くようになった。髪は抜けていく。めまいが酷く一人でトイレに行くこともできない。ベッドで寝ていることすらも苦痛で食べ物に味覚は感じない。そもそも食欲だって湧かないだろう。ユリナがこの世界に来た理由がそれだ」

 僕はその悲劇的な内容に言葉を失った。一方でユリナという少女がどのような少女だったのかを振り返り全ての筋が通っていると思った。学校でもクラスメイトへの接し方がやたら可笑しかった。他にも日常生活では点々とヒントがあったような気がした。他の人間よりも圧倒的に才能がないというのにどうして魔法をあそこまで楽しそうに放つのだろうかと思っていた。人生をどうしてあそこまで楽しそうに生きるのだろうかと思っていた。周りの外聞を気にすることなくやれるのかと理解できない部分が多々あった。だがユリナにとってそれはやりたいことでしかなかったということだろう。今までできななったことができる環境だからこそ楽しくて仕方がなかったのだろう。だからやりたいようにやった。たくさん努力をして、その過程を楽しんだ。そういうことだろう。僕を好きと言っていたのも本当はフリだったのだろう。僕を好きなふりをしていたのも本当はそういう風な経験がなくて憧れているからなのかもしれなかった。だとするならばユリナという少女はどれほどの試練と戦い、どれほどの傷を負ってこの世界に来たのだろうと考えずにはいられなかった。あの少女の笑顔は幾戦の戦いの果てに生み出されたのものであるのかもしれないと思うとやるせなくなった。そしてその少女の存在がこの世界から消えたことを思うととさらにやるせなくなった。

「もうユリナは誰の心にも残らないんだね」

「ユリナが現実世界でどういう人生を送っていたのかも俺たちは忘れる。それを忘れて俺達に残るのはユリナがこの世界でそのように振舞ったという事実だけ。他の人間はユリナを忘れ、俺とお前はユリナを記憶に残す。ただしユリナの振舞がその過去に裏付けられていたことは忘れてしまう。今も既にもやが深まっているのを感じている。お前も後に忘れるさ」

「無情だね、世界は」としみじみと僕は言った。「それで、ユリナの後継者がまた現れた時、ユリナが周りに影響を与えた状態のまま進みだすということだね。それは僕も同じで。本来なら三年が経過されるとリセットされるけど、あいにくと世界は滅びる。本当に滅茶苦茶だ。僕が最後の世代の最期の一人かもね。光栄だよ」

 僕はもう情緒がぐちゃぐちゃだった。だから笑うことしかできなかった。

「俺を許すか?」と父さんは言った。

「許すわけないだろうと」と僕は言った。。「あなたが何をしたいのか分からないし、何をしようとしているのかも僕にはわからない。でもこれだけは確かなんだ。僕がもうユリナに会えないことだけはね」

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