第18話
僕は次の日は学校に行かなかった。僕はユリナの看病に徹することにした。物理的には僕の存在が彼女の役に立つことはないと思うが僕の中でのユリナの認識は変わった。変わったいうより深まったと言うべきかもしれない。決定づけられているがその上からハンマーで釘を打ったかのように僕はユリナに心酔していた。愛という感情に果てはないと言われれば今の僕には同意できるとさえ思った。だが同時に愛とは残酷であるとも思った。愛した人が本当に死んでしまうのではないかという恐怖の穴に嵌ればただひたすらに落ちていくことしかできないことを僕は初めて知った。終わりのないウォータースライダーに乗っている気分だった。地獄の深淵へと下降していく気分を味わいながら思い浮かんだのは一人の親友の顔だった。
そしてユリナを見た。ユリナは早朝こそ落ち着いていて、汗を拭いたり着替えたりして綺麗でさっぱりとした平常な様相に変わったが見かけだけだった。ユリナは一瞬で死地をへと帰ったかのように苦しみ始めた。どうして言わなかったんだとネオンに対して黒色をした怒りの感情が湧き上がってきた。人間の血のように赤黒い感情であると自分のことながらに思った。
これでは大会に出られないではないかと、認めてはいけない事実を認めざるを得なかった。だが一度過れば忘れられずに、ふざけるなと心の中で連呼した。幼稚な言葉に呪いのニュアンスを込めて何度も何度もふざけるなと心の中で叫び続けた。世界を破壊してやりたいとすら思っていると僕の手をきゅっと握る感触があった。
「消えたい」と、消えそうな声でユリナは言った。
目は苦しそうに閉じられていた。頬の筋肉を歪めた顔で、喘ぐようにもう一度言った。消えたいと言った。次には死にたいと言った。
やめてくれいなくならないでくれ。僕はユリナが消えることを前提に考えるようになっていた。
大会を前日に控えた夜になったが当然ユリナの体調がよくなることはなかった。ふざけるなと現実というものに実態があればぶん殴って壊してやりたかった。生物を殴り殺すくらいの勢いで破壊してやりたかった。ここまで頑張った人間がどうして報われることがないのだと世界に問うてやりたかった。それくらいに腹が立った。ユリナを起こさないように体を寝かせたまま苛立ちを込めてぎゅっと拳を作り爪を食い込ませた。ユリナは背中を僕に向けて寝ていたがぴくりと動いた。
「明日は絶対に大会に出場してね」と言い、ユリナは寝返りを打った。僕を見るユリナの顔は真剣だった。
「出るよ」と僕は言った。
ユリナは真剣な表情を和ませた。
「ありがとうと」とユリナは言った。「私のことはね、気にしないでいいんだよ。これは嘘じゃないよ。本心だから」と言い、ユリナは仕方なさそうに笑った。「自覚ないの? 今とっても泣きそうな顔をしてるよ」
「当たり前だよ」と僕は自分の頬を涙が伝う感触を感じた。「君の頑張りを見た人間なら誰だって涙を流すよ」
「暗いのに光ってる。綺麗」とユリナは儚いものが消える瞬間に立ち会ったかのように目を細めた。「本当のことを言うとね。こういうことになるような気がしてたの。病気の私をお兄ちゃんは泣きながら見るの。声には出さないんだけどね、瞳で訴えてるの、この世界に。不条理に腹を立てて、どうしてこうなるんだって。でもね、こういうことだってあるんだよ。生きていれば一度か二度かそれ以上かこんなことだってあるんだよ。だから悲しまないでいいんだよ」
「悲しむよ。ユリナの頑張りを知っている人間なら。ユリナの心を想像して涙を流すんだ。君の傷ついた心に呼応するように涙を流すんだ」
「私の心は泣いているように見える?」
「誰の目にもそう見えていると思うよ」
「そう見えるのなら私は酷い人間だね」とユリナは弱弱しく笑った。「ネオンくんやツユハちゃんにたくさんのことを教えてもらったのにね、私は悔しくないの」
「悔しくないのならユリナの顔に浮かぶその表情はなんなのさ」
「お兄ちゃんにはどう見えているの?」
「少なくとも悲しそうだ」
「もっと具体的に」
「寂しそうだ」
「うんそう」とユリナは寂しそうに笑った。「正解だよ。私は寂しいんだ。でもね、同時に満たされてもいるんだよ。満たされたからね、寂しいんだ。空っぽの瓶を見ているだけじゃ楽しくないけどね、そこに美味しい飲み物が注ぎ込まれると楽しくなってくるよね? そしてそれを飲み干すと寂しくなるの。それと同じだよ」
「ユリナは今空っぽの瓶ってこと?」
「そう。私は空っぽの瓶なんだよ。でもただの空っぽじゃない。ちゃんと跡が残っている。匂いだとか色だとか。まっさらな中性の瓶じゃないの。私はね、まっさらじゃないから、跡が残っているから寂しいんだ。つまりね、何が言いたいかって言うとね、私には楽しい過程があた。お兄ちゃんやネオンやツユハとたくさん頑張ったていう事実が胸に残り続けているからこそ寂しいんだよ。私は満足しているよ。今は寝込んじゃってるけどね」
「欲がなさすぎる」と僕は上ずった声で言った。
ユリナはそうだねと笑った。その笑顔も寂しそうだった。
「確かに欲がなさすぎるかもしれないね。でも仕方ないじゃん、こういう人間なんだから。私の瓶は小さくてすぐに満たされちゃう。小さいから、中身もすぐになくなっちゃう。お兄ちゃん、空っぽだけど幸せの私が願っているからね。お兄ちゃんが優勝しますようにって」
ユリナの存在を感じられる日がこれで最後になることを僕は知らなかった。
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