第15話

大会までの残り三週間となった。一週間ほどユリナは早朝のランニングを続けていて、特訓が休みの日はユリナと一緒に走った。特訓が休みの日は家で休みたいと思うがユリナと一緒にいたいとも思った。実際にユリナと一緒にいる時間はとても楽しかった。どういう楽しさかを具体的に説明しろと言われれば説明できないが、僕はきっとユリナのことをもっと知りたいのだろう。それゆえに恐らく楽しかった。僕の日々はそのような感じで過ぎ去っていった。

 僕は玄関でユリナが来るのを待っていた。祭りに行く約束があるからだ。ユリナは階段から軽快な足音を響かせながら降りてきて僕の傍まで来た。

 夕方頃、僕らは家を出てある程度歩いた。ずらりと屋台が並んでいる通りにたどり着くまでにそれほどの時間を用さなかった。ユリナが僕の名前を呼んだ。

「手を繋いでおかないとはぐれそうだよね」とユリナが催促するように言った。

「そうだね」と言って僕は差し出されたユリナの手を握った。

 屋台はどうやら現実の世界と同じようだった。射的や口引きやあとは食べ物など、あまり差異はないようだった。そして祭りの賑わい様も現実世界と似たような感じだった。子供が楽しんでいて大人も楽しんでいる至って平凡な祭りだ。人数も多く、人々の今後の思い出の一つのページになるだろう普通の祭りだった。

「お兄ちゃんはお腹すいてる?」

「そんな不安そうな顔で聞いて来なくたってすいているよ」

「よかった」

「ユリナに断食させられたからね。お腹を空かせた魔獣みたいに飢えてるよ」

「お腹を空かせた魔獣ってどんな心境なのかな」

「イライラして物事を冷静に判断できるなくなってなんでもいいから食わせてくれって思ってるんじゃないかな」

「その苛立ちをお兄ちゃんみたく好きな人にぶつけるんだよね」

「ユリナに当たった記憶がないよ」

「そしてエッチをするときに乱暴にするんだよね。私が怯えているのに気付かないふりをして、あるいは気付いているのに押し倒して色んなことをするんだ。恥ずかしい感じのところから始まって気付いた時には私たちは見境がなくなってるの。当然のように生まれたままの姿で本当に当たり前のように生殖活動をするんだ。お腹をぐーぐーと鳴らしながら」

「雰囲気が台無しだね。二人でしている時にお腹が鳴るなんて」

「だからお兄ちゃんは私の肉を食いちぎるの」

「急に残酷になったね」

「空腹で死にかけていると仮定したらこうなるんじゃないかな」

「確かに野生の世界ではそんなことも有り得るのかもね。割と本気で有り得るのかもしれない」

「すると食欲を性欲でごまかそうとしてた魔獣ないし人はどんな気持ちになるんだろうね。好きな人のお肉を食べられたからこれからは僕の人生は僕のものだけじゃないと思うのかな」

「そこまで美しいお話にまとめあげるのは無理だと思うし有り得ないと思うな。背徳感で死にたくなると思うよ。それよりもさ、もうこの話はやめよう」

「そうだよね。祭りのときにこんな話をするのは間違ってるよね。ごめんねお兄ちゃん、気付けばお兄ちゃんが飢えている話から始まって変なところに着地してたよ」

 それから僕らは色んなお店を見て回った。魔獣の肉焼きが売られていて食べてみると意外と美味しかった。そしてユリナがもう一度さっきの話題に戻そうとしたので僕はそれを制した。それからも僕らは取り留めない話に花を咲かせながらくじ引きしたり射的をしたりした。くじ引きでは魔獣の毛皮が辺り何に使うのだろうと僕は思いながらも受け取った。ハズレなのでおそらく特に意味はないのだろうと思うが一応持ち歩くことになり面倒だなと思った。射的では僕もユリナも景品を手に入れられなかった。外れたものにも何かをくれるのかと思っていたがそうではないらしかった。まあ荷物が増えなくて良かったとユリナと話しながら僕らはまた歩き出した。結局手に持った荷物は魔獣の毛皮だけだ。なんだか綺麗なのかも分からなくて怪しいのでどこかに捨てたい気持ちはいっぱいだが仕方なく右手に持って歩いていると、クラスメイトの女子が三人いた。そして丁度目が合いこちらに近づいてきた。

「それ美味い?」と、一人の女子がユリナに訊いた。

 ユリナは右手で棒を持って加えていた飴を口から出すとうんと肯いた。

「そうなんだ。上手いんだ」と女子はつまらなそうに吐き捨てた。

 そしてユリナの右手を叩いた。飴の棒は手から離れて地面に落ちた。溶けてほとんど小さくなっていた飴を通り過ぎていく人々が何度も何度も無造作に踏んでいき原型はなくなった。

 どうやらこの前に僕が言っていなかったことに懲りていないみたいだった。あるいは僕が彼女らの過失を論理的に説明しすぎたゆえに鬱憤を与えてしまったのだろうか。どちらにせよ彼女らが未だにユリナを嫌悪しているのは明らかだった。

「なにするんだよ」と僕は言った。

「うざいからやった」と女子は言った。

 そして三人の女子はぐにゃりと表情を歪ませて笑った。

 ああ、とその笑い声に消え入りそうな声が微かに混じった。粉々になった飴をユリナが視界に入れていた。しゃがんで、悲しそうな目で見ていた。あるのはもう飴という原型を失った何かだった。飴ではあったが飴と言えるものではなかった。そんなに飴を失ったのがショックだったのだろうかと思っていると三人の表情は深みを増した。どこまでその気味の悪い笑顔は深くなるのだろうと僕は思った。

 ゆっくりと立ち上がったユリナに行こうと声をかけ僕は歩こうとした。女子生徒はもうユリナを貶める気はないようだった。僕らは歩きその場を去ろうとすると、見たのある女性が傍にはいた。

「あなたたちは何をしているの?」と女性は三人の女子に言った。

「誰だよあんた。というか見て分からないのか」

「見てたら何となくわかったけれど、あなたたちに訊かなければ確証が得られないでしょう」と女性はおだやかな声で言った。

「うざかったからこいつに嫌がらせをしたんだよ」

「ありがとう。事情を説明してくれて」と女性は微笑んだ。「事の経緯を説明してもらってもいいかしら」

「うぜえ」

「うざいなら説明しなくても構わないわ。知っている上で聞いたんだもの」

「勝手に妄想してるだけだろ気持ち悪い」

「妄想だと思いたければそう思ってくれていいけれど本当よ」

「もういい。行こう」と女子は言ってこの場を去ろうとした。。

 他の女子もその場を立ち去ろうとした。女子たちが背中を向けた瞬間、女性の視線が鋭くなった。

「あなたたちは逃げるの?」と女性は言った。「正直なことを言わせてもらうわね。あなたたちなんて死ねばいいのにと思うわ」

 三人の女子は振り返った。

「今なんて言った?」

「死ねばいいと、少なくとも私なら思うと言ったのよ。だってそうでしょう。どうして見ず知らずの人間にりんご飴を叩き落とされなきゃならないのよ。見下されなきゃならないのよ。あなたたちは人の心を病ますために生きている人間なの? いいえ愚問ね。だって答えはもう出ているんだもの。あなたたちはクズよ。あなたたちはこの子に何かをされたの?」

「されてない」と苦々しい声で女子生徒は言った。

「でしょ」とまくし立てるように女性は言った。「なのにどうして一生懸命生きている人間を罵倒するの? どうして一生懸命生きている人間の足かせになろうとするの? あなたたちには自覚がないのかもしれないけどあなたは足かせよ。ねえ、考えてみなさいよ、ユリナちゃんの心を。ああごめんなさい。あなたたちにはわからないわよね。だってあなたたちだもの。とにかくね、ユリナちゃんは一生懸命に生きているのよ。あなたたちは知らないでしょうけどね、いろんなものにぶつかりながら精一杯生きているの。だからねあなたたちの汚い感情のはけ口になんて絶対にしたらいけないの、そういしていい理由はないし、そもそそもね、あなたたちは何を勘違いしているのか知らないけど権利だって全くないのよ」

 女性は言い終えると三人の女子を眼力のある視線で見ていた。

「帰るぞ」とやがて一人の女子がいい、三人は去って行った。

 ユリナは一歩前で出て女性の前に立った。

「ありがとうございました」と笑った。誰かに助けられたためだろうか。それは自虐を含んでいる笑顔だった。

「いいのよ。それに私はああいう人たちを見るととても腹が立つの」と女性は笑った。「不条理に相手を責める行いなんて存在の否定とそう変わらないわよね。理由もなく責める、あるいは改善の余地のないところを責め立てるなんて当人にはどうしようもないものね」

「そうですね」とユリナは苦笑気味に言った。

 女性はそれが実体験であるようかのような態度だった。ユリナと向き合う女性を眺めながらその通りだなと僕は思った。努力でどうにかならないことや、信念のもとに行動を起こしていことに対して批判されてもどうしようもない。その女性の言い分はきっとこんな感じだろう。

「でもね、不条理な目に遭っても折れない心を持っていれば無敵だとは思わない?」

「たぶんそうですね」

「そうよね。そういう心を持っていれば無敵よね。人には本当に色んな種類がある。だから傷つけられるのに慣れない人もいるの。私もそちら側の人間よ。だから傷つけられる人を見ていることにも慣れないの。まるで自分が被害を受けているわけじゃないのに腹が立つの」

「共感力が強いんですね」とユリナは言った。「私はどう見えていますか?」

「頑張ることと諦めることの落差が激しい人」

「頑張るのは何に対してですか? 諦めるのは何に対してですか?」

「諦めるのはさっきのような人に対して。ユリナちゃんはもう無駄だと悟っているように見えたわ。だってあの人たちに絡まれているユリナちゃんはまるで感情の炎を自分の息で消しているみたいだったもの」

「じゃあ頑張るは何に対してですか?」

「不条理に対して」

「それはさっきの人たちのことですか? さっき諦めているって言ってたじゃないですか」

 女性はふふふと朗らかに笑った。もう行くわねと女性は言うと身を翻した。そして何かを思い出したように首だけこちらに振り返った。目は僕を見ていた。

「ロアルスくんも会うたびに顔が良くなってるわよ。悩んでいる顔も多分健康的には良い顔よ」

 言い終えてにこりと笑うと女性は去って行った。

 僕らはその後も色んな屋台を回った。ほとんどの屋台を網羅したころで祭りに来るなんて小さい頃以来だなと思い出して笑った。更には、もう二度と行くことはないだろうと思っていたからもっと笑えた。

「どうしたのお兄ちゃん」

「ユリナと来てるからなんだか笑えたんだよ」

「毒を含んだような言い方だね」

「毒なんて含んでないよ。純粋さ」

「ならいいけど」とユリナは言った。「ねえお兄ちゃん、夜の匂いは好き?」

「好きだよ」

「じゃあ風は?」

「今吹いてる生ぬるいやつ?」

「そう」

「好きだよ」

「ほんとに?」

「ほんとだよ。でも一つ補足しておくと、好きになったのは今だよ」

「そうなんだ。あ、聞くのを忘れてたけど気温は?」

「好きだよ」

「じゃあこのお祭りの喧騒は?」

「正直今まではあんまりって思ってたけど好きだよ」と僕は言った。「ユリナはどうなのさ?」

「お兄ちゃんと一緒だよ」

「そうなんだ」

「当たり前でしょ。だって私はお兄ちゃんの妹なんだから」

「それっぽく言ってるけど理由になってないね」と僕は笑った。「もう一度買いに行こうか?」

「さっきのやつ? 別にいいよ。無くなりかけてたし。お兄ちゃんに食べさせてあげられなかったのが心残りなくらいだから」

「さっきの悲しそうな顔は演技?」

「正直に言うとその通り。悲しそうな顔をすればあの人たちは満たされると思ったから」

「僕がユリナの立場でも同じ反応をしてたよ」

ユリナはその後もう一度りんご飴を買った。購入後すぐにユリナは僕の口元に飴を近づけてきた。

「本当はさっきのタイミングでお兄ちゃんにあげるつもりだったんだけどね。だけど忘れてたから。二度目の失敗はないよ」

「ありがとう」と言って僕はユリナのりんご飴を口に入れた。甘かった。「美味しいよ」

「ほんとに? 嘘じゃない? 僕が買わなかった理由を考えろだとか思ってない?」

「僕が買わなかったのはユリナの奴を貰いたかったからだよ」

「うん」とユリナははにかんだ。「知ってた知ってた」

「なんだよ」と僕は照れながら言った。

 背景には流れるように通り過ぎゆく人々がいて、彼らの存在を消し去ってしまうくらいにユリナの笑顔は燦然と輝いていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る