第13話
翌日、僕は風邪をひいて学校を休んだ。ユリナは僕の看病をするから家にいたいといっていた。しかし僕は説得した。するとユリナはしぶしぶと学校に行った。布団を被り天井を眺めながらぼんやりしていると、やっぱり全身が怠いなと思った。筋肉痛のような痛みがあって立ち上がる気にはなれなかった。意識ははっきりとしていた。しかし食欲は湧かなかった。僕がぼんやりしていると父さんが部屋に入ってきた。
「体調はどうだ?」と父さんが訊いた。
「怠くて、食欲もわかない」と僕は思ったままのことを伝えた。
「そうか。そう答えるかもしれないと思ってはいたが何かは食ってもらう。だから作るからな」と、父さんは言い残し部屋から出て行った。それだけのために部屋に入ったのかと思いながら、すぐに思い直した。きっと僕の様子を見る口実を作りたかっただけなのだろうとそう思い直した。僕はもう一度目を閉じた。そして時間の感覚がないまま目を開けた。目を開けて一番に視界に映ったのは父さんの顔だった。いつも通りのどこか険しい顔だった。
「作ってきたから食え」と、父さんは言った。
「ありがとう」と僕は言って、トレーに置かれた料理を食べた。おかゆと似ている料理で、味も似ていた。「美味しいよ。とても美味しい。正直お腹なんて全く空いてなくて、持ってこられても困るって思ってよ。でもこれなら食べられそうだ」
「正直な感想だな。でも正直すぎるくらいが丁度いい」と父さんは言った。「そういえば俺のアドバイスは役に立ったか?」
「アドバイス?」と僕は聞き返しながら、何のことだろうと思った。
「ユリナのことを理解するために、お前も同じことを始めてみろと言っただろう。別にどっちでもいいが気になったから聞いた」
「そのことか。そうだね、どういえばいいんだろう。でも父さんが僕に助言をくれたおかげで、僕の心が軽くなったのは確かだよ。僕が父さんの言葉のおかげで助けられたのは紛れもない事実だよ」
「そうか。ならよかった。だがこうでもあるわけだな。お前が救われたのは事実だが、まだあと少しだけ、深い穴からは抜け出していないんだな」
「そんなところかな」と僕は言った。「父さんは優しいね。僕のことをこんなに真摯に聞いてくれて。本当に優しい人だと思うよ」
「誰と比べてそんなことを言ってるんだ」
「さっき夢で出てきた父さんだよ」
「そうか」と父さんは神妙な面持ちで言った。
「夢の中で出てきた父さんは酷い人だったよ。僕の父さんは共感をせずに、僕を許すんだ。一つ一つの言動はただただ軽薄なんだ。愛が抜け落ちた機械人間のような人なんだ。母さんも似たような人だよ。そんな最初から設定されたような人間だからこそ、イレギュラーに出くわすとすぐに怒るんだよ。型に当てはまる人間と言うか、敷かれた道からそれることなく純粋に育って欲しいと思うんだ」と僕は気付けば溜め込んでいたことを一気に話していた。どうやら僕は風邪をひいたことにより冷静な判断が出来なくなっているようだった。感情のブレーキもやたら故障しているように感じられた。僕は饒舌になっていることを少しだけ反省した。
「それなら」と父さんは言った。「そもそも道を破壊すればいいだけの話だろう」
「え?」と僕は自分の耳を疑って聞き返した。
「道を敷かれたなら、それを壊せばいいんだ。常識だって壊せばいい。全てを壊せばいい。俺はそう思うがな」と父さんは淡々と言った。「道も常識も、親の優しさによって与えられたお前への贈り物さ。その贈り物をくれた両親の心を傷つけるのは怖いことかもしれない。両親が激怒するかもしれないからな。でもそんな優しさも顧みずに道や常識どころか、自分を形成してきた世界そのものを壊せば響くんじゃないか」
「そうなのかな」
「お前らの父親の俺はそう思うがな。それ以上は知らんが、それくらいは思う」
父さんは言い残すと部屋から出て行こうとした。
「待って」と僕は言った。「優しさを無下にするのはやっぱり怖いことだと思う」
「でもそういうことだできるのは少数派だ。その少数派になれば俺はお前を凄い奴だと思うよ。優しさを跳ね返すのは難しいことだがな。その優しさはきっとお前の夢に出てきた両親の本質的な部分というか心だよ。お前の親がぶつける本心に、お前もまた本心をぶつければ何かが変わると思うよ俺は」と父さんは言うと部屋から出て行った。
ここ最近の僕は現実の世界に帰ったときどうなるのかを少しずつ想像するようになった。父さんや母さんや、学校でのことを想像することが増えてきた。そしてそれを想像する度に鬱々とした気分になった。それはきっと現実の世界よりもこの世界の方をよく思っているからなのだろう。居心地が非常にいいと思っているのだろう。僕はもやもやとした気持ちとずっと隣り合わせだ。ユリナやツユハや父さんにも僕が記憶を失っていることを明かしていない。僕は秘密ばかりの人間だ。ネオンにだって僕が別の世界の人間であることを話していない。僕は本当に秘密を多く抱えた人間だ。それは皆と誠実に向き合っていないといえるだろう。事実僕はそのような人間だ。でも僕はこの世界が居心地がいいと思う。秘密を抱え、もやもやしながら生きているが僕はこの世界が好きだ。それは現実の世界が嫌いすぎるからなのかもしれない。そうではなくて、この世界での日々の方が充実しているように感じるからなのかもしれない。どちらかはわからない。だが一つだけいえることがある。それが僕がこの世界を好きになっているということだった。
現実の世界を考えるときに僕はいつもこのような自分に悶々とした気持ちになった。今もまたそのような気持ちになった。だがそこまで重く考えることはしなくてすんだ。それはきっとさっきの父さんの発言のおかげだろう。僕は肩の荷が少し降りた気がした。僕はおかゆを食べ終えるともう一度眠った。
次に目を覚ました時には誰もいなかった。いつ頃なのかもわからなかった。体は依然として重たく感じられたが僕は立ち上がった。すると幾分かは体調がマシになっているような気がした。僕は自分の調子を確かめながらゆっくりと歩いて食卓へと向かった。父さんが昼ご飯のを作っている最中だった。
「目を覚ましたのか」と父さんは言った。「どんな具合だ?」
「平気とまでは言えないけどマシになったよ」
「ならよかった。昨日のようにびしょびしょになるまで特訓するのは控えろよ」と父さんは言った。
特訓とはなんのことだと思ったが、回転がまだまだ鈍い頭で過去を振り返れば思い出せた。僕は魔獣を捕まえにいったとはいうわけにもいかなかったので特訓をしていたと伝えたのだった。それを思い出しながら僕はネオンは結局どうしているのだろうと思った。でも今は深く考えずに僕は椅子に腰かけた。台所で料理を作る父さんの背中を眺めていると、母さんがいないことが顕著になっていた。母さんは僕が二歳のときに死んだとネオンが言ってたことを僕は思い出した。どうしてかこの瞬間に限り僕は強く気になった。もっと知りたいと思った。それは僕には父親がいて母親がいないという事実を濃密に伝達してくるこの環境のせいなのだろう。
深くてぬめぬめな思考の沼に浸かっていると、父さんが作ってくれた料理を僕の前に置いた。僕はそれによってきっぱりと意識が引き戻った。
僕は料理を食べ終えるとしばらくぼおっとした。椅子に座り、自分も料理を食べ終わり後片付けをする父の背中を眺めながらぼぉっとした。
「なあロア」と父さんは振り向かずに言った。
「なに?」
「大会の日、見に行ってもいいか?」
「いいよ」と僕は笑いながら言った。「むしろこっちからお願いしようと思っていたぐらいだよ」
「ならよかった」
「自分が努力しているって自負があって、成長しているっていう実感があればこんなにも誰かに見てもらいたいと思うんだなと思ったよ」
「顔つきが変わったじゃないか」と父さんが楽しそうな声で言った。
父さんはきっと今食器を洗いながら笑っているのだろうと僕は思った。それを知るとなんだか僕も楽しい気分になってきた。
「父さん」と僕は言った。「一つお願いしてもいいかな」
「行ってみろ」とこちらに背中を向けたまま父さんは言った。
「もしも僕が優勝すれば何かプレゼントが欲しいな。ユリナが一勝したら、ユリナにも何かをプレゼントしてあげてよ」
「別にそれはいいが、お前だけが勝ってユリナが負けたらきまずくないか」
「きまずいね確かに。ならその場合は僕は何もいらないよ。でも、ユリナが勝って僕が負けた時は彼女に何かをプレゼントしてあげてよ」
「ああ、わかったよ。でもどうして急に?」
「なんとなくだよ」
「なんとなくねえ」
「どうしたのさ」
「なんとなく何かをするときは大抵ろくなことが起こらない」と父さんは言った。「俺の体験談だよ」
「父さんの予想は結構あたるの?」と僕は訊いた。
父さんは首だけを僕に向けた。
「百パーセントはねえから九九パーセントだよ」と父さんは真顔で言った。
父さんは洗い物を終えると僕に近づいてきた。父さんは僕のおでこに触れようと開いた手を近づけてきた。僕は一度自分の目を疑った。父さんの掌には正の字が書かれていた。一体どういうことなのだろうと僕は疑念を抱き、正の字がおそらくは切り傷によって表現されていたことに恐怖した。父さんは僕の表情の機微に気付いたらしく、手を自分の方へと戻した。
「今のは何?」
「なんだと思う? 俺は何を数えていたと思う?」
「わからないけど、何か大切なことを数えてたんだね。刻んで、数えて、忘れないようにしてたんだ。その生々しさから僕はそう読み取るよ」と僕は言った。
会話をしながら感じたが、父さんは僕に掌の傷のことをずっと黙っていたのだろう。しかしそれくらいのことには簡単に気付けそうなものだがと僕は思った。ずっと秘密にしていた理由や、僕が全く気付かなかった理由が僕は気になったが父さんは答える気配を見せてくれなかった。なので僕は話を変えた。そして取り留めのない会話を始めた。
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