第11話

学校が休みなので、僕は一人で街を散歩していた。ポケットには働いた報酬として貰っているお小遣いを少しだけ入れてきた。僕には別に買いたいものがあるわけでもないので僕のお小遣いは溜まる一方だった。この世界に来た当初はお小遣いが全くなかったので、僕の知らない僕は、お金遣いが荒かったのかもしれなかった。そこまで詳細にネオンに訊いてはいないが、そうなのかもしれないかった。

 歩みを進めながら左右で僕を囲むようにして立ち並ぶ建物を尻目に思い返した。休日くらいは特訓を休みにしようということになった。僕らはいつも早朝から特訓をしていた。休日までそんなことを続けると体を壊してしまうというのはロザリア先生につい最近言われたことで僕らはその忠告を受け入れた。僕は自分の実力の向上を実感していたので特訓をしたいという気持ちはあった。だが、ロザリア先生の言い分が正しいのは明白だったので、僕らは休日の練習を休みにした。

 十分くらい歩いていると聞いたことが後ろから聞えてきた。振り返るといたのはツユハだった。

「奇遇だね、ロアくん」

「そうだね。こんなところで会うなんて思いもしなかった」

「私は一人で散歩していることあるからね。会うことだってあるよ。散歩しているときロアくんと会ったことも何度か会ったことがあるような気がするけど」とユリナは悩ましそうな表情を浮かべた。「夢の中での出来事だったのかな」

 ツユハは僕の顔をじーっと見たのち、「歩こうか」と僕を促し歩き始めた。思い返せばネオンは僕が散歩を趣味にしていることを以前に話していた。きっと、僕は散歩をしているときツユハとよく会う機会があったのだろう。僕ではないと僕と、ツユハはよく散歩をしていたのだろう。

「ユリナちゃんとは一緒じゃないんだね」とツユハは言った。

「ユリナは疲れてるみたいでまだ寝てたよ」

「そう、なんだね」と切れ切れとした口調でツユハは言った。「ここ最近は大変だったから。僕もまだ疲れが残ってる気がするよ」

「じゃあどうして歩いてるの? 家で休んでた方がいいような気もするけど」

「なんでだろうね。なんで外にいるんだろう。気分かな。休むよりも歩くことのほうが好きなのかもしれない」

「ロアくん変なの」

「変だね」

「ロアくん」と僕の名を呼んで、一瞬ユリナは口をつぐんだ。「今日の夜までデートしない?」

「いいよ」と僕は言った。「だけどデートなんて言い方をされると少し思うところがあるというか。ユリナに怒られそうだ」

 僕の言葉を聞いたからだろうか。ツユハは足を止めた。立ち尽くし、ユリナの瞳は僕の瞳を映していた。人々が怪訝そうな顔を向けながら僕らの傍を通過していく中、ツユハは未だに僕の瞳を何を意味するのか判然としない瞳で覗いていた。

「どうしたの?」と僕は不安に駆られ訊いた。

「デートを他に、どういう風な言葉に置き換えられるのかなと思ってたの」と、機械のような声音で、心ここにあらずという感じでツユハは答えた。

「大丈夫?」と僕は訊いた。

「デートを他の言葉で形容とするとして、何があると思う?」とツユハがまた訊いた。

「あいびきとか」

「あいびき」とツユハは呟き、肯いた「その言い方はいいね。デートじゃなくてあいびき。古風な感じがして、うん、いい。いいよね?」

「あ、うん。でもデートと変わらないような気もするけど」

「だけど少しは紛れるよね。私は紛れると思うんだけど」

 何が紛れるのか分からなかったが僕は首肯した。

「えっと。うん。そうかもね」

「でもね。私にとっては紛れるというよりもアップデートかもしれないな」

「どうしてアップデートなの?」

「アップデートしないと壊れちゃうから。アップデートすることは必然だったから」

 ツユハが自分の世界に没入して言葉を発しているようで、僕には何が言いたいのか全く分からなかった。デートをあいびきと呼ぶことで何が変わるのか、僕にはこれっぽっちもわからなかった。だがきっと、ツユハの心には何かいい影響があるのだろう。それだけは言っている言葉の意味から読み取ることができた。ユリナはいつものように柔らかい笑顔を張り付けていた。

「ロアくんはここ最近はどんな感じ?」

「どんな感じって? なにが?」

「全部に対して、どんな心持で生きている? 向き合っている?」と、ゆるりとした雰囲気でユリナは訊いた。

「どうだろう。よくわからないや」と僕は正直に言った。「質問の意味も、なんだか上手く解釈できない。その時点で、僕の心は散漫になっているのかもしれない。割れたガラスみたいに散漫になった心はもう心ではないかもしれないね」

「心が無いのなら人間じゃないね。だけど安心して、人間じゃなくても私がロアくんの友達であることは変らないからね」と言い、ツユハは僕を安心させるようにひかえめに笑った。

「ありがとう」と僕は言った。「だけど、僕は毎日が充実しているようにも思っているんだ」

「そうなんだ。あ、そこのお店に入ってから話さない? なんだかお腹すいてきちゃった」

「そうだね」

 お店の中は静謐な雰囲気が漂っていた。客もあまりおらず、どこか落ち着いた空気と料理の香ばしい香りがたっぷりと充満していた。僕たちは席に座るとメニュー表を程なく眺め、料理を注文した。

「ロアくん、さっきのお話の続きになるんだけどいいかな」

「うん、いいよ」と僕は内心ではたじろぎながら言った。

「ロアくんは何かについて今深く悩んでるよね。それはユリナちゃんのこと?」

「そうだよ」

「やっぱりそうなんだね」とユリナは暗い雰囲気を漂わせて言った。「何に悩んでいるのか聞いてもいいかな」

「いや、もしかすればユリナのことだけで悩んでいるわけじゃないのかもしれない。ごめん、自分のことなのによくわからないんだ。自分を、僕は理解できていないのかもしれない」

 ユリナと共に特訓を始めた時、僕は確かにユリナを理解し始めているような気がしていた。けれど僕の視界に映るのは僕が知らないユリナの表情や仕草だけだった。それだけで、ユリナが考えていることはやはり分からなかった。ユリナはただ、踊っているみたいに楽しそうなしているだけなのだ。父さんにユリナと同じことをしてみろと言われ実践したが、僕の心が波打つことはなかった。ただあるのは僕自身が魔法の特訓で手ごたえを感じているという充実感だけだった。ユリナという少女のイメージが僕の中で掘り下げられることはなかった。色んな表情のユリナを見ることができたがそれだけだった。

 そもそも、僕が何を悩んでいるのか、それが本当に、心の底から分からなかった。

 僕はユリナについて知らないことを憂いているのだろうか。それとも、もっと他の、僕の価値観の外側にある何かに気付きたくても気付けず、歯がゆく思っているのだろうか。それとも、成長しようと踏み出しても、進んでいないような気がして、ネガティブになってしまっているのだろうか。現に、クラスメイトから残酷な態度を向けられたユリナを助けたことだって一度もないのだからそうなのかもしれなかった。

 お前には何ができる? と問いを投げかけられたのならば僕はなにも答えられず俯くことしかできないだろう。そう思った途端に僕は虚しくなった。自分は何も変わっていないのだと実感して辛くなった。

「ロアくん、大丈夫?」とユリナに訊かれた。ユリナは心配そうに僕を見ていた。

「大丈夫だよ」と僕は言った。

「ほんとに? うそだよね? お節介かもしれないけどね、それはわかるよ」

「僕はどうしたらいいんだろう」

「ごめんね」とツユハ困った顔を浮かべた。「私にはわからないよ」

「そうだよね」

「だから、ユリナちゃんに慰めてもらえばいいんじゃないかな。どう思う?」と、ツユハはじーっと僕の目を見ていた。何を期待しているのかは判然としないが、何かを期待しているのは確かのように僕は思った。

「そうだね。僕にはユリナしかいないんだったよ」

 ツユハが何を期待していたのかはわからない。どんな答えを期待していたのかはわからない。だが、これだけは確かだった。僕は無意識のうちに、ツユハに答えを言ったようだった。ツユハは笑みを浮かべていた。それは乾いた笑みだった。乾いた笑みを、張り付けていた。だが次の瞬間にはそれはマジックを起こしたかのように抜け落ちた。

「そうだよ。ロアくんには友達の私たちもいる。けれどもっと大切な人がいるの。なのに、その大切な人を頼らないのは勿体ないことだと思うよ」

 ここで僕ら二人の料理が運ばれてきた。

「ねえ、ロアくん。この料理と私、どっちを食べたい?」

 僕は料理を見た後、ツユハを見た。顔を赤くしながら僕はもう一度言ってもらうよう促した。

「ねえ、ロアくん。この料理と私、どっちを食べたい?」

「ツユハって答えたらどうなるの?」

「どうなると思う?」と聞いて、ツユハは僕の耳元まで顔を近づけた。「言い難いことなんだけどね、わたしここ最近胸の成長がすごいんだよ」とユリナは震えた声で言った。「他にもね、色々とすごくなったの。そういう意味で成長してるんだよ」

 そこまで言い終えると、ツユハは僕から離れた。顔はやっぱり赤かった。一体何の表明であるのだろうと僕は思った。少なくともネオンには一言も、ツユハが痴女であることなど聞いたことがなかった。

「そうなんだね」と僕は答えるしかなかった。

「そうなんです」とツユハひ俯いた。そのまま気力が抜け落ちたような格好で、運ばれていた料理を食べ始めた。僕も料理に手をつけた。どういう素材で調理されているのかはわからないが鶏肉に近しい食感であると僕は思った。料理を食べながら僕は、ツユハが何を伝えたくて僕を視線に入れたり、時に外したりを繰り返しているのだろうと思った。考えてもわからなかった

「ロアくんはわたしを食べたくないんだね」

「食べたいだとか食べたくないとかそういうことじゃないんだ」

「ロアくん、よおく考えてみてよ。わたしの体は今ロアくんが食べている料理とは比べ物にならないくらい柔らかいし、美味しいんだよ。満たされるのは食欲じゃなくて性欲だけどね」

「もうその話やめない」

「そうだね」と言ってツユハはしゅんとした。「ごめんね。食事中なのに」

 それから僕らはお互いに無言で料理を食べ終えた。店を出ると、ツユハがもう少し色んなところを歩こうと言ったので僕らは目的地も決めずに歩き出した。

「ごめんねロアくん。さっきはごめんなさい」

「気にしてないよ」

「沢山見てる人いたの。私がエッチなことを話している時」

「耳元で囁くように、とは言えないくらいの声量ではあったよね。別に僕は気にしてないよ」

「どうしよう。私が破廉恥な女の子っていう噂が流れちゃったら」

「考えすぎだよ」

「そうかな」

「そうだよ」

「ロアくん」とツユハはいつもみたいに僕の名前を呼んだ。「昔話をしない?」

 僕には記憶がないのでどのような返答をすればいいいのかわからなかった。結局僕は何も言えなかった。

「私たちが出逢った七年くらい前のことが今では懐かしいね」

 ツユハは目を細めてどこか遠くを見るような雰囲気で話し出した。郷愁に浸るようなツユハに言葉を返せない僕は無知ゆえに心苦しくなった。

「森で迷子になって本当によかったよ」とツユハは言った。僕は適当に相槌を打つくらいしかできなかった。「森で迷子になってもう本当に死ぬって思ったところを、ロアくんが助けてくれたの。あれくらいの奇跡がもう一度くらい怒ってくれたらいいのになって思うよ。本当に」

「奇跡なんだ?」

「奇跡だよ。死にたいくらいの悲しみが、生きたいっていう希望に変わったのならそれは紛れもなく奇跡だと思うな」

「そうなのかな」

「考えても見てよロアくん。死にそうになるような経験をしたら、次死にたくなるような出来事に遭遇したときに微々たるものなのかもしれないけど恐怖が和らぐの。それにね、そもそもね、奇跡を味わえばね、いつ死んでもいいって思えるようになるの。あれは、奇跡で繋がれた命だからって、そう思えるの。少なくとも死んでもおかしくないような経験をした私はそう思ったの」

「死にたいって思うくらいに辛かったんだ?」と僕は当たり障りのない質問をした。

「そうだよ。死にたいって思ったよ。だって、真っ暗なところで、生ぬるい風が吹いている、そんなところでひとりぼっちなんだよ。誰だって死にたいと思うでしょう」

「真っ暗なところで生ぬるい風が吹いている。自然の空気を吸い込みながら真っ暗なところで眠る。生ぬるいけど風も吹いている。それだけ聞くと熟睡とまでは呼べないけど眠る環境としては申し分なさそうだ」

「ベッドもなければ周りには魔獣ばっかりいるのに?」

「冗談だよ。本当に酷い空間だね。そんな空間に取り残されたら誰だって死にたいって思うよ」

「でしょ?」

「うん。あと十分後には自分は生きているのか。五分後には生きているのか。肉をかみちぎられて痛い思いをしないのか。恐怖と隣り合わせに森を彷徨い、挙句、おびただしい悲鳴を響かせながらしにくらいなら、今この瞬間消えてしまいたいって思うよ。誰だって。安楽死できる薬があればその場で飲んで死にたくなるよ」

「でしょ? そしてその安楽死したくてたまらない状況で助けてくれたのがロアくんだった。そしてその出来事がきっかけで私はロアくんやユリナちゃんと仲良くなったの。私にはね、友達と呼べる人もいなかったの。ロアくんやみんなに会うまで、自分が一人ぼっちでいることは運命だと思っていたの。最初から全て決まっているんだって。だって、無理をして誰かと一緒に居るより一人でいる方が楽しいから。ううん、嘘、楽しいの水準が低すぎるから、そもそもそれを楽しさなんて言えない。楽しいと思って、自己肯定したかっただけなのかも。何が言いたいかっていうとね、端的に言うと、私は自分があまり好きじゃなかったの。性格も基本的には恥ずかしがりやで奥手だし、なんかみんなといても楽しくなかった。なんか、自分の性質が嫌いでたまらなくて全てを悲観してたの。気付けば、運命なんて言葉が、何度も何度も回ってたな。ぐるぐるぐるぐる」

「僕といるのは楽しかったんだ」

「そうだよ。楽しかったよ」

「十歳くらいの頃のツユハは随分と病んでたんだね」

「ふふ」とツユハは笑った。「病んでたのはロアくんも同じだったよ。ロザリア先生が前に言ってたことを思い出すなあ」

「ロザリア先生が言ってたことって? お前はどうして変わりものとばかりつるんでいるのか、みたいな感じのことを言ってたあれ? というか僕も病んでたの?」

「十歳の少年がどうして暗い森の中を歩いているの? 理由があってもなくても夜に一人で森に入るのは結構奇抜だと思うな私は。私の価値基準ってやっぱり可笑しいのかな?」

「価値基準は可笑しくないと思うけど」

「ロア君はどうしてその日森に入ったの?」

「忘れたよ。十年も前のことだから」と僕は忘れたこと以前に経験がないことは伏せておいた。

「それ前にも言われた」とユリナは言った。「悪い人に洗脳されたのかなって思うくらいには物凄い奇行だよね。自分で自分を理解しないまま森に入るだなんて。まるで無理に辻褄を合わせようと創造主がそうしたみたいだよね」

「そうだね」

「まあそれはともかくとして、この前ロザリア先生は私に言ったことなんだけどね、どうして変わりものとばかりつるんでいるのか。あれってどうしてだと思う?」

「どうして?」

「運命だから」

「なるほど」

「面白くない答えって思ったでしょ」

 歩きながら、ツユハは唇を尖らせた。同じく歩きながら、僕はそれを見て笑った。楽しくて笑った。僕らはそうして歩き続けた。気付けば僕が目にしたことのない建物が多く並んでいる知らないところにいた。僕はそろそろ元来た道に戻ろうと言った。ツユハは名残惜しそうな顔でそうだねと肯いた。僕らは身を翻した。

「可愛らしいお二人さんね」と後ろから甘さのある声が聞こえた。

 僕らは振り返った。黄金の髪をなびかせた女性がいた。僕らが後ろを振り返った直後に天国から地上に降りてきたのを思わせるほどに存在感を放っていた。実際に、本当にそうではないのかと僕は思った。黄金はそれほどまでに、豪奢な類の輝きを放っていた。

「あなたたちは付き合っているの」と女性は訊いた。

「付き合っていません」と僕は言った。

「そうなのね。けれど、一緒にお出かけをしている。そうだ、あなたたちの名前を知りたいわ。教えてもらってもいいかしら」

 僕とユリナは顔を見合わせ、肯いた。そしてお互いに名乗った。ロアルスと、女性は僕の名前を口の中の飴を転がすみたいに幾度か呟いた。

「僕がどうかしましたか」

「いいえ、なんでもないわよ。ごめんなさい。あなたのことを知っていたものだから、ついその名前を口に出してしまったの」

「どうして僕のことを知っているんですか?」

「どうしてあなたは私のことを知らないの?」と女性は言った。

 僕は何も言えなくなった。女性は、ふふふと愛おしさのある笑い声を零した。僕をおもちゃのように扱って楽しんでいる節はあるが、僕を貶すような悪意の一切を感じられない。感じられるのは、女性が僕についての重大な情報を握っているのかもしれないという予感だけだった。

「ごめんなさいね。意地悪な質問だったわね。悪意はないのよ。本当にちょっとした好奇心だっただけだから許してね」

「はい」と、僕は肯いた。

「ありがとう」と女性は微笑んだ。「ツユハさんのことも私は知っているのよ。どうしてだと思う?」

「前にも会ったことがあるから。じゃないですか」

「答えは的の中心のみ。もう少し具体的な内容が訊かせてほしいわね」

 女性に言われ、ツユハは戸惑いをそのまま表情に映した。笑みを浮かべながら女性はツユハから視線を外して僕を見た。

「じゃあロアルスくんはどうしてだと思う? どうして私が君のことを知っていると思う」

 僕は過去の記憶を丁寧に思い返していき思い出した。

「思い出しました。店で何度か顔を見たような気がします。目立たないような格好で来てましたよね」

「記憶力がとてもいいのね。あと観察力もあるのね」と女性は口元に手を当てて驚いた顔をした。「だけど答えとしてはゼロ点ね。どうしてだかわかる?」

「どうしてですか?」

「私は百パーセント正解の答えに満点を与えることしかしないの。九十九パーセント正解の答えには点数を上げないの。そうじゃないと、自分の価値観を反映させて、バラバラの点数をつけてしまうじゃない? 安心して、あなたがゼロ点を取ることを前提で問題を出したから」

「学校の先生をされてるんですか」

「まさか。たとえ話よ。このたとえ話で、私は博愛主義者であり、平等主義者であることを理解して欲しかったの。それだけよ」と女性は言った。「目が見えるのなら、その目で現実を見るのよロアルスくん」

「目が見えないのなら、心で感じ取ればいいです」

「その通りだけど、あなたは目が見えるでしょう?」

「あなたが自分は目が見えない風な言い方をしたので、そう言いました」

「あらそう。私を気遣ってくれたのね。ありがとう。でも見えてるわよ」

「あの」とツユハがおそるおそるという感じで声を出した。「なんだか二人の会話はとても弾んでいますね。まるでとても親しみのある人たちみたいな感じで。まるで別の生物のような感じがするな」

僕と女性はツユハを見た。

「どうしてそう思うの?」と僕は訊いて、先を促した。

「なんだか波長が合っているから」

「近しいだけであってはいないよ」

「近しいとかそういうのじゃないの。どういえばいいのかな。種類が違うような気がするの」

「なるほど」と女性は神妙な面持ちで肯いた。「つまり私たちは運命の糸で結ばれているということね」

「糸で結ばれているかはわかりません。けれど、なんだか二人は同じ人種のような気がしますとツユハは言った。

 僕からしてみればツユハも目の前にいる女性もそう変わらないと思った。僕はこの女性に特別に何かを感じるわけでもなかった。僕からしてみれば、いつもユリナたちと接しているときと同じ感覚だった。普通に話して、普通に感情を揺さぶられるような感覚だった。そこまで自分を振り返ったところで僕は気付いた。僕は初対面の人間とこうも上手にコミュニケーションを取れる人間ではないという既知であるはずの事実に気付いた。ツユハが言っているのはそういうことではないのだろうが、僕は確かに特別のようだった。この瞬間に限り僕は特別だったようだった。普通にできないことを、普通にできてしまっていたから。天然に、やってのけていたからそう思った。

「私たちが同じ人種の人間かぁ。何が同じ人種で、違う人種が何なのかがわからないからなんとも言えないけれど、あなたがいいたいことはなんだか分かる気がするわ。不思議ね」と女性は美しく笑った。

「あなたの名前を聞かせてください」と僕は言った。

「いいわよ。けれどどうして?」

「なんだか」と僕は言葉を続けようとしたが上手く出てこなかった。「とにかく知りたいんです。僕はあなたのことを知らないはずで、あなたは単なる僕のお店に何度か来たことのある普通の女性のはずです」

「でも知りたいのね。別にそこまで熱心に説明しなくても教えてあげるわよ。名前を教えてもらうためだけにそこまでの気持を吐露させてしまってごめんなさいね」と女性はからかうように笑った。「アリーゼよ。名前はアリーゼ」

「アリーゼさん。なんだか綺麗な名前ですね」とツユハが言った。

「ありがとう。けれどあなたの名前も美しいわよ。ツユハと言う名前。素敵よ」と言うと、女性は僕を見た。

「他にも色んなことを聞きたそうな顔ね」

「そんな顔をしているつもりはありませんけど」と僕は本当にこれ以上深く追求するつもりがないことを伝えた。

「いいのよ。気にしないで」

「むしろ、アリーゼさんが話したくて仕方のない感じというか」

「聡すぎる男の子は嫌われるわよ。あなたくらいの年なら可愛いけど。じゃあ年齢から言うわね。あ、嘘よごめんなさい。年齢は秘密ね。じゃあ、家族構成ね。えっと、私ね、実は結婚しているの」

「あまり以外ではありません」

「私の人生観からすれば意外ということよ」

 どんな人生を歩んできたのだと僕は心の中で呟いた。

「子供はいるんですか?」と僕は訊いた。

「いるわよ。一人可愛い子がいるわ。今は四歳よ。本当に幸せに暮らしているわ」

「いいですね」と僕は言った。

「それじゃあ私は行くわね」

「ただ惚気話を聞いただけだと思うのは僕だけでしょうか」

「惚気話の中には個人情報と言う名のお宝もあったでしょう。それで勘弁してくれると嬉しいわね」と女性は口元に手を添えて上品に笑った。

 去って行く女性を眺めながら僕は考えた。この女性がどのような人生を歩んできたのかについて考えた。

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