2、胡乱な邂逅
無事に学校に到着し、鬱憤が溜まる授業を乗り越え、放課後が訪れた。今日は全ての部活が休みの日なので校門付近はこれから下校する生徒たちで溢れている。
そんな中、学校指定の青いジャージに着替えたあかねは校庭のグラウンドに立っていた。平らなグラウンドには白い線が楕円状に描かれている。トラックの端に立ったあかねは右ひざを地面に付け、しゃがむような体勢とって両手を地面に置いた。
遮蔽物のない校庭に緩やかな風が流れる。あかねは流れる風の小さな音をはっきり聞き取っていた。人のいない静かな校庭で、あかねの集中力は上がっていく。
そして、一呼吸の後、右足が地面を蹴り、身体が前に射ち出された。全身の筋肉を軋ませてスタートダッシュしたあかねは速度を落とすことなく両足を回転させる。
百メートル通過。ただ、地面を蹴り、足を前に出す。着地した足は無駄な衝撃を吸収し、前へと反発を生む。
二百メートル通過。身体を動かす衝撃で視界が上下左右に揺れ続けている。考えることはシンプルで良い。視界に映る殺風景なグラウンドに描かれた白線に沿って進み続けるだけだ。
三百メートル通過。足が悲鳴を上げている。乳酸が溜まり、筋肉が限界を訴え始める。しかし、止めない。スタートダッシュ時の最高速度をなんとしてでも保ち続ける。いや、速度をさらに上げるために足を動かす。呼吸が乱れている。とても苦しい。その感情があかねの心に火をつける。自身への怒り、苦しみへの怒りが敗北を許さない。
四百メートル通過。目標到着。身体をやや前傾に倒して通り抜ける。そのまま数mほど軽く走った後、全身の力を抜く。呼吸の乱れが中々落ち着かない。意図的に深呼吸をして鎮めようとしたところで、筋肉の疲労に気が付いた。痛みとも疲れとも取れる乳酸特有の感覚だ。
身体に異常がないか探るように軽くストレッチを行う。
あかねは陸上部に入部してから400m走を選んだ。筋持久力が必要とされる種目。練習は筋肉への負荷が高く、かなりハードだ。だが、並みの男子よりも頑強なあかねにとって400m走のメニューは物足りないくらいだった。複雑なルールもなく、誰とも絡まなくて済む陸上はあかねにぴったりの競技だ。
身体を動かすと余計な考え事をせずに済むから気が楽になる。昔から知っていた怒りへの解決策の一つだ。と言っても、どうしても耐え難い怒りは日常的にあるので疲れていても変わりはないのだが。
それでも、その日の鬱憤が晴れるような気がするので走ることは好きだ。部活が休みなのにグラウンドを走っているのはこのためだ。邪魔をする者がいないので部休日は気楽に走れる。今日は多めに走っても大丈夫だろう。
オレンジ色に染まる空を一瞥すると、頭を振って再び走るべくスタートの位置へ向かう。
「やあ、邪魔するよ」
クラウチングスタートの体勢をとるために右ひざをじめんに置いたところで、あかねに声をかける者がいた。
練習の邪魔をされたことにイラつきながらも振り返ると、制服に身を包んだ少女が立っていた。目を細め、あかねを計るような不敵な笑みを浮かべている。
「キミが鎖向あかねくんだね」
女性にしては低い声だ。声質だけで言えば少年のように聞こえる。しかし、その口調は一般的な高校生よりも大人びていた。
制服のリボンを見るに同じ学年ではあるが、あかねの知り合いではない。学校であかねに話しかける人間は多くない。どころか、陸上部の部員を除いて話しかける人間は全くいない。これはあかねの中学時代の噂が広まっており、周りの者は皆、意識的に避けているからである。
部員だって、仲の良い数人と顧問以外は明らかにあかねを避けている。接点もないのにあかねと接触をしようという人間は高校に入ってから一人もいなかった。
――中学の時に迷惑かけたやつか?
それなら心当たりがたくさんある。あかねが顔を覚えていないほどに。だが、中学時代のあかねを知る者なら、自分を前にして怒りも恐れもしない態度が気になる。
「お前、誰?」
あかねは思考の末に、少女に対しての警戒度を上げた。有害か無害か以前に何者か一切分からないからだ。
「僕は
聞いたことのない名前だ。中学にもそんなやつはいなかった。特徴的な人物だから、接点があればさすがに覚えている。
図書室にも心当たりはない。
「本を借りた覚えないけど、何か用?」
閃里は顔をあかねに向けたままメモに何かを書き込んでいる。問われた閃里は口元を綻ばせた。
「いや、あかねくんは何も借りてないよ。少し気になることがあってね……っとその前にキミに個人的な興味があるから、話を聞きたいんだけどいいかな?ああ、もし嫌ならここに居るだけだから気軽に断ってもらっていいよ」
いかにも胡散臭い挙動、言動。
あかねは校舎の掲示板に貼ってある学生新聞を思い出した。存在そのものは知っているが、実際に見たことはない。あれを作っている新聞部。校内に、る珍しいものを嗅ぎまわってはネタにしている、という噂を聞いたことがある。まさか自身が標的にされるとは思ってもいなかった。
図書部、と名乗ったのは怪しまれないための嘘だろう。
「断る。帰れ」
「そっか。じゃあ、ここで練習見てるね。邪魔はしないから安心してよ」
「いや、帰れ」
閃里は帰らなかった。トラックの内側で腕を組んで微笑んでいる。そこにいるだけで邪魔だから、何も言わずに去ってもらいたい。閃里のような口が回る上に融通が利かないタイプは今のあかねにとって厄介だ。再び帰れと言ったところで今度は適当な理由を付けて自分の要望を通そうとするだろう。口下手で、自身の逆上を避けているあかねにできることはない。昔なら問答無用で殴っていた。
練習を切り上げることも考えたが、閃里のために予定を変えるのが癪に障る。閃里は特に話しかけてくる様子もないので、できるだけ意識しないように練習を続けることにした。
それから全力四百メートル走を十回繰り返し、限界まで足に負荷をかけたあかねはインターバル走を切り上げ、校庭の端にある鉄棒で懸垂を始めた。校庭の端にまでついてきた閃里は何を言うでもなく、あかねを見つめ、時折思い出したようにペンを走らせては腕組をしてじっと見つめてくる。
顧問でも部員でもない人間に一方的に観察されるのは大変居心地が悪い。無視を決め込んでも気になるものは気になる。苛立ちを感じると自然と筋肉に力が入りやすくなる。気が付けば、懸垂のノルマをとうに過ぎていた。気分的にはまだ行けるが、身体の節々が悲鳴を上げているのがわかる。既に一般的な女子高生の許容量を超えた運動を行っているが、あかねはものともしていない。だが、これ以上やれば逆に身体が壊れることも知っている。渋々、諦めて軽いストレッチを行う。
「ちょっといいかな?」
閃里が軽い調子で話しかけてきたので、お返しとばかりにあかねは鋭く睨んだ。威圧が効いている様子はない。
「……」
「いいね?じゃあ、聞こう。キミ、大変な乱暴者だったんだってね?」
「あ?」
ストレッチを止め、立ち上がる。あかねは顔から表情を消し、閃里を見下ろした。閃里の身長は決して低くはない。平均より少し高いくらいだ。しかし、全身を鍛え上げ、なおかつ体格の良いあかねからすれば見下ろせるほど小さい。
これからされる質問を予期し、すでにあかねの怒りメーターは振り切れようとしている。年上の不良たちの足を竦ませた威圧を前にしてもなお、閃里はどこ吹く風で、特ダネを披露する記者のように語り始めた。
「調べさせてもらったよ。鎖向あかね。家族構成は父と母のみ。小学時代から怒りを抑えきれず、町の各地でトラブルを起こしていた。何度か警察のお世話にもなったみたいだけど、よく少年院送りにされなかったね。中学時代に至っては年上の不良集団を目が合ったって理由だけで半殺しにしている。ここら辺の治安が急に良くなったのはキミのおかげかもね?」
閃里の情報はだいたい合っている。本当に調べてきたらしい。中学の同級生にでも聞いたのだろうか。身の上を知らないやつに語られるのは確かに苛々する。しかし、あかねの中では未だに困惑が勝っていた。
「教員に掴みかかったこともあるようだね。幸いだったのはその教員の評判がかなり悪かったことかな。セクハラ疑惑もあったらしいしね。彼は最近セクハラが原因で退職したらしいよ。キミという暴威がいなくなって彼の行為が目立ったんだろうね。それはともかく、キミの暴力は中学時代の中ごろにピークを迎えた」
あかねは禿げ頭の社会教師を思い浮かべた。掴みかかったところで拳を振り下ろさなかったのは中学時代の友人が止めてくれたおかげだ。
中学時代に大事に至らなかった出来事の数々はそのたった一人の友人による貢献が大きい。きっと、彼女がいなければ今頃あかねは高校に行けていなかっただろう。卒業式のときに会ったあかねの母親が泣いて友人に感謝の言葉を述べていたのをよく覚えている。
「ペラペラと勝手に人の身の上しゃべりやがって……お前、新聞部か?」
「新聞部?いいや、違うね。僕のこれは趣味だよ」
「趣味?」
一瞬、苛立ちが消え失せたと錯覚するほどにあかねは困惑した。何を言っているのか理解ができない。
「そう。僕は人の遍歴に興味があってね。キミだけじゃなく、気になった人間の過去を個人的に調べてるのさ。本来は調べても、本人に話すことはないんだけどね。不快にさせてしまったようだ。すまない」
「……ああ?」
あかねは奥歯を軋ませて、閃里について推測を試みる。
彼女は新聞部ではない。「趣味」で人の過去を調べてる。あかねの過去を暴いたのもその一環。
「今回、キミの練習を邪魔したのは趣味が目的じゃないんだ。これは前振りさ。実は聞きたいことがあってね。」
「そろそろ帰るから手短にしろ」
閃里は笑みを消して訝しむようにあかねを見つめた。笑っていない、ということは先ほどの奇怪な趣味とは関係ないのか。あかねは判断に迷っていた。どちらにせよ、警戒すべきなのは変わりない。閃里はあまりにも意味が分からなすぎる。
「キミさ。最近、身の回りで変なこと起きなかった?」
「ないな」
「寝てたら違う世界に引き込まれたとか、手のひら大の光る物体を手にしたとか」
夢みたいな内容に対して、閃里の表情は真剣だった。試験終盤で検算する学生みたいな顔だ。何かを確かめるような態度だが、先ほどの興味本位ではないことはわかる。
だが、やはりこう言わざるを得ない。
「お前、馬鹿にしているのか?」
閃里は顎に手を置いて、どこか遠くを見るように目を細めている。
「ふーむ……そうか。なら良かった」
「はぁ?もういい。私は帰る」
「邪魔してごめんね」
「ついて来たら、ころ……通報する」
「ははは、怖いこと言うねキミ。それより、帰り道には気をつけてね」
閃里はそう言うと、あかねが動くよりも早く踵を返し、早歩きで校門へ向かっていった。
「なんだよ、あいつ」
せっかく、身体を動かして鬱憤を晴らすつもりだったのに逆に溜まってしまった。これでは疲れ損だ。
口ぶり的にまた話しかけられそうな気がするが、二度とごめんだ。しかし、今まで対人関係の問題を暴力で解決してきたのでどうすればいいかわからない。今度、友人に相談してみようか。
自身も着替えて帰るべく、歩き出そうとしたとき、あることに気が付いた。
「あれ?まだ行ける……?」
身体が軽い。先ほどまであれだけ走っていたのに、もう一度同じメニューができそうなくらいに疲れがない。やりすぎてついに感覚が麻痺したかと錯覚するほど疲れていない。
もともと身体は丈夫で、傷や痛みの治りも早い方ではあるが、これは異常だ。ふと、さっき閃里が言っていた「変なこと」が頭をよぎるが、関連性がない。きっと特別、今日の身体の調子が良かっただけと言い聞かせることにした。
太陽が半分沈み、空がオレンジから紫に染まり始める。気温が数度下がり、汗ばんだ肌を冷やそうとする。あかねは深い息を吐き、もやもやした苛々を抱えたまま帰路に就いた。
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