インフェルノ☆チェーン

在雅

1、渦巻く怒り

 鎖向さむかいあかねのこれまでの人生は「怒り」のみで表せる。

 彼女には幼少期から腹の底で渦巻くような怒りがあった。突発的で抑えがたく、怒りの弁がかなり緩い。少しでも不満を感じると考えるより先に体が怒りのままに動いてしまう。そのせいで、これまで周囲に多くの迷惑をかけてきた。

 なまじ頑丈な体に産まれたおかげで、一度怒りに突き動かされると止めるのにかなり時間と体力を要するらしい。小さい頃は体格の良い父親が全力で殴ってくれたおかげでなんとか止められたが、成長するにつれてあかねの身体能力が父親に勝るようになり、そして、止める者のいなくなった中学生の頃には地元の乱暴者として有名になっていた。

 さすがに自分でも異常だと思い、なんとか抑えられないかとアンガーマネジメントや運動など、怒りを紛らわすために様々な手段を試みたが、どれも根本的な解決には至らなかった。

 箸を落とした、目の前を猫が横切った、肩がぶつかった。そんな些細なことで頭が爆発しそうなほどの怒りが湧きあがるときがある。熱が体を支配し、「暴れてしまえ」と本能が訴えかける。まるで怒りにまかせて暴れることが、天から与えられた命令だとでも言うかのように。

 しかし、暴れればまた両親や友人に迷惑がかかる。これ以上、世話になった人たちを困らせたくない。あかねは湧き上がる怒りを全力で耐えることにした。何があっても怒らない。理性の鎖で自らをがんじがらめにして、噴き出さないようにしたのだ。

 中学校生活の後半、誰もが進路に向けて様々な感情を抱く頃、あかねはついに憤怒に耐える術を身に着け、一切の怒りを露わにしなくなった。教師に掴みかかることも、怒りに悶えて奥歯を砕くこともない。両親は泣いて喜んでいた、友達には逆に心配された。

 ただ、あかねの性格が変化したわけではない。変わったのは外面だけだ。これから一生、自身の底にある業のようなものを抱えていきていく。それは湧き上がる怒り以上に強い覚悟だった。


 あかねはなんとか無事に中学を卒業し、最寄りの私立高校に進学した。暴れていた過去があるのでそこでもひと悶着あったが、無事に入学できた。そこは進学校を自称する一般的な高校だった。受験の滑り止めに使われていることもあって、在校生は多い。

 あかねは現在、高校二年生だ。「一番楽しい時期」というのを耳にしたが、あまり実感が湧かない。入学してからすぐに入った陸上部は気に入っているが、あらためて楽しいと思ったことはない。

 勉強も、高校に入ってから自分なりに頑張っている。中々成績は上がらないが、中学の頃に比べれば雲泥の差だ。「宿題の強制」という事実に怒り散らして、宿題を見るたびに破り捨てていたあの頃が懐かしく感じる。

 ふと、自室の壁が目に入る。白い素材だ。昔は壁に無数の傷があり、穴が開いていた。全て怒りに任せて暴れたあかねによるものだ。自室に限らず、この一軒家の内装には至る所に傷と穴があった。しかし、今では傷一つない。一年前に父親が奮発して業者に直してもらったのだ。今や、あの頃の暴虐は見る影もない。

 傷つけないように注意を払っているので一年たった今でも壁は新品のように白い。ずっと見ていると、その白さがあかね自身をあざ笑っているような気がしてたまにぶん殴りたくなるくらいに。

 気が付けば、時計が七時過ぎを指していた。そろそろ家を出なければ電車に間に合わない。あかねにしては珍しく、過去を思い出してぼーっとしてしまったようだ。やや急ぎながら身支度を済ませて玄関に向かう。


「いってきます」

「あら、行ってらっしゃい。今日は部活?」


 玄関で靴ひもを結んでいると、母が皿洗いの手を止めて玄関に来た。父の靴が見当たらないので、あかねよりも先に家を出たのだろう。

 

「うん」


 春先の朝は暖かく、程よい日光が駅までの道を照らしている。基礎体温が高いあかねにとっては少し暑い。といっても制服のブレザーを脱ぐほどでもない。いや、これから自転車を漕ぐのだから脱いだ方が良いだろうか。しかし、脱ぐ時間がない。

 些細な不条理があかねの心を刺激し、怒りの奔流が下から上へと流れていく。あかねは両腕で自転車を掲げ、思い切り投げ――るのをすんでのところで抑え込んだ。自転車が壊れては元も子もない。

 自転車に乗り込んだあかねは力強くペダルを踏み込み、駅へと急ぐ。途中、一時停止を守らない車に轢かれかけたときは近くの石を手にフロントガラスを割ってやろうかと思ったが、これもまた抑え込んだ。

 駅に到着。急いだ甲斐あって電車には余裕をもって乗り込めた。あかねにとって朝の電車が一番の天敵だ。右を見れば近くに人、左にも人、前も後ろも人。しかも異様に距離が近い。血を分けた家族でもここまで急接近しないだろう。彼らは何が楽しくてここまで寄ってくるのか。

 あかねは一度、幼い頃に父親に電車に乗ってみたいとせがんだことがある。子供特有の好奇心による欲求だ。当時、あかねは電車に乗ったことがなかった。しかし、父親は頑なに電車に乗せようとしなかった。ブチギレたあかねのタックルを喰らっても、乗せようとしなかった。

 結局、機会がなくて高校になるまで電車に乗ったことはなかったが、今では父親が乗せようとしなかった理由が少し分かる。何故なら今でも暴れたいくらいに電車という乗り物は苛々するからだ。周囲の人間を全員ボディーブローでなぎ倒して、窓から放り投げてやりたい。もちろん、しない。あまりの苛立ちにつり皮を掴む手が震えているが、絶対にしない。

 苛立ちを紛らわせるためにかわいいもの、心が和らぐものの想像する。犬、猫、小さな鳥……。あかねは小動物が好きだ。見ていると心が安らぐ気がする。小さい頃はよくぬいぐるみを買ってもらっていた。しかし、今では全て破り壊してしまったので一体も残っていない。ペットを飼わなかった両親にあかねは感謝している。きっと大変な事態になっていただろう。

 あかねは深呼吸しながら目をつぶり、瞑想するように野原を駆けまわるモップのような大型犬を想像した。だらしなく舌が飛び出ている。触るともふもふで暖かい。荒んだ心が少し、落ち着いた。今日は調子がいい。このまま降りる駅まで犬の想像をしていよう。


「ふぎゃ」


 そうだ、今の自分ならペットを飼える……などと自分の世界に籠ろうとしていたあかねの背中に軽い衝撃が走る。それと同時に背後から気の抜けた声が聞こえた。


「あ?」


 振り返ると少女が涙目で鼻を抑えている。電車の揺れに耐えられず、ぶつかってしまったのだろう。明らかに整えられていないぼさぼさの髪の毛、目の下の濃い隈、そして、あかねが着ているのと同じ制服。リボンの色が緑なので一年生であることがわかる。


「あ、す、すいません」


 少女の身長は低い。対してあかねの身長は高く、見下ろす形になる。

 背中に頭突きをされた。故意かどうかは関係ない。ただでさえ、ストレスがたまる電車の中、必死に妄想をして耐えていたのに妨害された。しかも頭突き。威力はそんなに強くない。だが、「先手で暴力を振るわれた」という行為はあかねにとって喧嘩を売っているのと同じである。

 つり皮から手を放し、小指から人差し指まで、ゆっくりと指を折り曲げて拳を握る。心臓が脈動し、血管の流れが速まるのを感じた。電車の揺れに対してあかねの鍛え上げられた体幹はビクともしない。

 怒気に感づいた周囲が逃げるようにあかねから離れていく。気圧された少女は更に涙目になっていた。


「えええ!あ、すいません!すいません!」

「……」

「あ、あの……ひっ!」


 少女は一瞬、あかねが鬼の形相を浮かべているように見えた。そんなことはなく、あかねは青筋を浮かべながらも無表情を浮かべている。あかねのただならぬ雰囲気が見せた幻である。

 あかねは及び腰の少女に一歩一歩、床を踏みしめて近づいていく。少女は思わずへたり込んでしまった。


「おい」

「ひ、ひいいい!あ、わたし、あの、これ、すすすすいま」

「大丈夫か?」

「殴らないで……へ?」


 あかねは少女に手を伸ばした。おずおずと手を取る少女を引き上げ、丁寧に立ちあがらせる。


「こっちこそ怖がらせてすまない。ほら、つり革掴めないなら扉側に寄っときな」

「はい……ありがとうございます」


 あかねはもちろん心の中では怒り心頭だった。少なくとも、握った拳がしばらく開けなくなるほどには。だが、その怒りはあの陰気な少女にとって理不尽であることも理解している。それはあの時、誓った覚悟が許さない。理性は問題なく自身の怒りを縛れていることを確認しながら、あかねは電車を降りた。

 ホームから差した春の陽光が立ちふさがるように彼女を照す。あかねは挑むように一歩を踏みだした。

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