十一羽 白ウサギ

 香ばしい匂いを感じて、有理沙はゆるゆると目を開いた。ぼやけた視界が焦点を結べば、黒ずんだ板戸に向かって自分が寝ていることを認識できた。心地よい布団の肌触りを感じながら、有理沙は寝起きの倦怠感に引きずられるように、ごろりと寝返りを打って向きを変えた。

 そこは、板の間に囲炉裏の切られた見知らぬ部屋だった。

 はてここはどこだっただろうと考えながら、有理沙は億劫に起き上がった。億劫だと思ったわりには、体はずいぶんと軽く感じられた。


 板戸と障子戸に囲われた部屋は、趣ある古民家を思わせるものだった。むき出しの太い梁と屋根裏は囲炉裏の煙で燻されて、黒く艶を放っている。木目鮮やかな床板に切られた囲炉裏には、五つずつ串に刺した団子が火を囲うように並べられていた。白い餅肌にこんがりとした食べ頃な焼き色がつき、香ばしい匂いを立ち昇らせている。枕元を見やれば、有理沙が探していたサッカーボールが置かれていた。


 転がらないよう座布団に乗せられているボールを見て、有理沙はウサギたちの宴会での自身の食べっぷりを思い出した。フードファイターもかくやあらんとばかりに、一体何人前を平らげただろう。しかもそれだけの量を食べたあとで、手元に戻ったサッカーボールで子ウサギたちと全力で走り回って遊んだのである。思い返すだけで、有理沙は自分の胃袋の強靭さにおののいた。

 散々走り回ってさすがに疲れ、休憩をしたところまでは覚えているのだが、そこから先の記憶がなかった。茣蓙に寝そべったのは確かなので、そのまま居眠りしてしまったのかもしれない。目覚めないまま宴会が終わって、起こさぬよう誰かが運んでくれたのだとしたら、大変に申しわけないことをしてしまったと、有理沙は頭を抱えた。


 ふと、部屋の外から誰かが歩いてくる音に気がついた。有理沙とは囲炉裏を挟んだ位置にある障子戸。その向こうの土間を歩く、軽快な足音がこちらに向かってくるのが分かる。足音はあっという間に近くなり、障子に影が映ったと思った瞬間には、がらりと戸が引き開けられた。

 顔を覗かせたのは、真っ白な毛並みのウサギだった。


「おはよう、有理沙」

「……おはよう」


 目が合うと同時に挨拶されたので、有理沙は思わず返事をした。白ウサギの声は、聞き覚えのあるような少年のものだった。けれど平板で抑揚に乏しく、そういう話し方をする者に覚えはない。

 当たり前のように部屋に入ってきた白ウサギは、素焼きの皿を一枚と、小さな甕を抱えていた。そのまま囲炉裏端の円座にちょこんと座り、皿と甕をかたわらに置く。前脚を伸ばして、囲炉裏に並べられている団子を一本とると、焼き加減を確認するようにくるりと回してから、串を持って甕の中へ逆さに入れた。そしてとり出された団子は、透き通った飴色のたれを纏っていた。


 白ウサギはそれを皿に置くと、他の団子も次々に手にとってはたれを纏わせて、皿に置いていった。

 慣れた手つきで団子を積み上げる白ウサギを観察しながら、このウサギは誰だったろうかと有理沙は考えた。

 ススキの原での宴会に、こんなに真っ白なウサギがいただろうか。あの場にいたすべてのウサギと話したわけではないし、数もたくさんいたので白ウサギがいなかったとは断言できない。それでも会話はしなかったはずだ、とは思うのだが、親しく呼ばれたことを考えると自信がなくなった。有理沙があれこれと思い巡らせていると、団子を積み上げ終わった白ウサギが有理沙に向かって皿を差し出した。


「食べる?」


 甘辛い匂いに誘われて有理沙は手を伸ばしかけたが、宴会で食べた量を思い出して踏みとどまった。


「ありがとう。でも、今はお腹が空いてないから」

「そう」


 白ウサギはあっさり皿を引っ込めると、自分で団子を一本とって、ぱくりと口に入れた。もぐもぐと小刻みに動くその愛らしい口元を眺めて、有理沙は布団を押しやって座り直した。


「あなた、名前は?」


 有理沙が少々改まって尋ねると、白ウサギは団子を飲み込んでから、不思議そうにこちらを見た。


「有理沙、ぼくが分からない?」


 逆に問われて、有理沙は焦った。やはり面識があったらしい。けれどウサギの顔など有理沙から見たら皆同じで、色や柄以外にどう見分けろというのか。

 有理沙が挙動不審に目線をさまよわせていると、白ウサギは団子の皿を置いて肩をすくめた。


「ずっと離れてたから仕方ないのかな。ぼくはすぐに有理沙だって分かったのに」


 やれやれと言いたげな口調が、ふいに有理沙の記憶にあるものと重なった。まさかと思ったのは一瞬で、彼しかいないという確信をする。それでもやはりどこかでは信じられず、有理沙は慎重に呟いた。


「……ユウキ?」


 白ウサギは笑うように、うっそりと頬の毛を膨らませて赤い目を細めた。あんぐりと、有理沙は口を開いた。


「ユウキ、なんでウサギになってるの」

「なんでって、有理沙もウサギなのに?」

「え?」


 弟はなにを言っているのだろうと思いつつ、有理沙は自身の手に目を落としてぎょっとした。目の前のユウキと同じ真っ白な毛に覆われた、丸い前脚がそこにあった。


「え? え?」


 頬に触れ、頭に触れる。口元からは細い髭が弧を描いて伸び、頭の上には真っ直ぐに立ち上がった二本の耳があった。


「なんで? なんで? え?」


 混乱して顔中を撫でまわす有理沙を尻目に、ユウキは団子をもう一本食べ始めた。


「月の国の住民は、ツクヨミ様と奥方様以外みんなウサギなんだ。なにも不思議がることじゃない」

「でも、そんなの困る」


 有理沙が縋るように言えば、ユウキは団子の串を口からはずして首を傾けた。


「なにが困るの?」

「なにがって……だって、あたし帰らないと」

「ここが有理沙の家だよ。どこに帰るって言うのさ」

「どこって……」


 それ以上言葉が続かず、有理沙は呆然とした。ユウキが言うように、ここが有理沙の家であるはずだ。だというのに、帰らなければという焦燥が、胸の内をじりじりと焼いている。頭での理解と感情があまりにもちぐはぐしていて、悪い物でも食べてしまったように胃の腑のあたりがきゅうと痛む気がした。

 ユウキは相変わらずのんきに団子を食べている。それを恨めしく思いながら、有理沙は気分の悪さを誤魔化そうと、枕元にあったサッカーボールを引き寄せた。ひと抱えもあるボールを体の前にやれば、顎を乗せられてほどよく体重も預けられる。有理沙はサッカーボールのぴかぴかとした表面をちょっと撫でた。このボールを探していただけのはずが、ずいぶんおかしな事態になってしまったようだ。

 その時はたと違和感を覚えて、有理沙は首をひねった。左右に何度か首をひねって考えてみるが、違和感はぬぐえない。どうにもすっきりせず、ついに唸ると、ユウキが気づいて顔を向けた。


「有理沙、どうしたの?」

「ううん。なんでもない」


 有理沙が咄嗟に平静を装えば、ユウキはすぐに興味を失った様子で顔を戻して団子を食べ進めた。

 わけの分からない違和感でユウキを心配させてはいけない気がして、有理沙は脱力しながら小さくため息をついた。


(あたし、なんでボールなんて探してたんだっけ)

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