十羽 月面着陸
穴の底に着いた隼は、一面のススキの原に感嘆の息をもらした。
「すっげぇ……」
ススキが波打つたび銀の野原をきらめきの走るさまは、この場所にきた目的をつかの間忘れさせるものだった。隼がつい景色に見入っていると、隣に並ぶように有毅が姿を現した。
「綺麗な場所だよね」
「本当に月なのか、ここは」
「そうだよ」
有毅は腕を掲げ、頭上を指差した。
「あれが地球。ぼくらは、あそこからきた」
有毅が示す先を追って、隼は空を仰ぎ見た。普通の夜空ならあるだろう濃淡がまるでない真っ黒な空。そこに満月のように円を描く大きな星があった。表面で渦を巻いている白い模様は雲だろうか。
「まじか……」
隼の中で月へいくといえば、アポロ11号の月面着陸映像なのだが、竹林の穴を通ってきたことといい、どうもかなりイメージと違う場所らしい。根の国という言葉がつい頭に浮かび、縁起でもない、と隼は考えを振り払うように首を振った。死者の国とまで言わなくとも、概念的に近い空間ではありえるかもしれないが。
「有理沙は、どこにいるんだ」
言いながら、隼はススキの原へと視線を戻した。前後左右、見渡す限りの銀の野原に起伏はなく果てもない。だからこそ他に誰かいれば見えそうなものなのだが、人らしき影は見えなかった。
「きっと、ツクヨミのところにいる」
「ツクヨミ?」
聞き捨てならず、隼は眉間を厳しくして有毅を見た。
「ツクヨミって、古事記に出てくる、月神の?」
慎重に問うた隼に、有毅は首を横に振った。
「ツクヨミとは名乗ってるけど、彼は神様とか、そういうものじゃない。人ではないことは確かだけど。ツクヨミ自身も、自分がなんなのかは分かっていないんだと思う」
淡々と語る有毅の表情が強張っている。それで隼は、ツクヨミとやらがどんな存在かおおよそ察した。
「それで、有理沙はそのツクヨミにつかまって閉じ込められてるってことか」
有毅はまた首を横に振った。
「閉じ込められているってことはないと思う。むしろ歓迎されて、もてなされてるんじゃないかな」
「は? ツクヨミっていうのは悪いやつじゃないのか?」
「ぼくにははっきり分からない。ただ……」
言いよどむように、有毅は言葉を途切れさせた。わずかに唇を噛み、考え込む様子で沈黙する。隼が言葉の続きを待っていると、有毅は息を吐いてこちらを見た。
「隼、これからぼくが言うことは、絶対に守って欲しい」
有毅が声色を変えたので、隼は体ごと向き直った。ここが隼の知らない場所である以上、頼りになるのは有毅しかいない。
有毅は言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を発した。
「ここの食べものを、絶対に口にしてはいけない」
「食べたら、どうなるんだ」
訝しむ隼に、有毅は一呼吸置いてから続けた。
「月の国のものを食べた生き物は、月の国のものになってしまう――帰れなくなるんだ」
隼は、有毅の言葉の意味が咄嗟に入ってこなかった。ただ、胸の内でざわりとしたもの恐ろしさが首をもたげた。血の気が引くのを感じながら隼は有毅を見詰めた、次の瞬間には眼差しを鋭いものにした。
「そのこと、有理沙は知ってるのか」
有毅は気まずそうに瞳をさまよわせ、隼から目線をそらした。
「有理沙は知らない。伝える余裕がなかった」
反射的に距離を詰めて、隼は有毅の襟をつかんだ。
「有理沙はツクヨミにもてなされてるって言ったな。それって当然、食事も出されてるんじゃないか」
「……おそらく」
目を合わせないまま呟くほどの声で有毅が言い、隼は頭に血がのぼった。
「有理沙はもう帰れないとか言わないよな」
突き飛ばすよう襟を離せば、有毅が尻餅をついた。触れる質量が感じられないので、どうにも気持ち的なすわりの悪さを伴う。有毅に怒るのはお門違いだとはどこかで思いながら、隼は憤りを抑えられなかった。様々な悪態が頭をよぎったが、それを口にするのだけはどうにか堪えた。
「……ごめん。でも、戻す方法があると思うんだ」
囁くように有毅は言い、シャツの襟を整えながら立ち上がった。
「まだ有理沙はこちらにきたばかりだから、食べ物が完全に体に馴染む前なら、きっと間に合う。でも、隼まで月の国のものになってしまったら、もうぼく一人ではどうにもできない」
有毅は、うつむけていた顔を上げた。
「月の国にはツクヨミと、その奥方、それからツクヨミが集めたウサギしかいない。ウサギたちは善良だから攻撃してくることはない。でも、だからこそ、ここでは一番危険なんだ。彼らは悪意なく、色々なものを食べさせようとしてくるから」
進み出た有毅は隼の横を通り過ぎ、数歩いった先で振り返った。
「これからぼくらは、ツクヨミのいる
有毅がいく先を示す。隼はまだ憤然として納まらないものを感じていたが、深く息を吐いて冷静さをとり戻す努力をした。有毅の言う通りであるなら、内輪でもめている余裕はない。
「……分かった。十分に気をつける」
自分をとり戻して隼が了解すれば、有毅は口元に薄く笑みを見せた。
「心配だな。隼は優しいから」
「どこがだよ」
隼は本心から返したが、有毅は笑い声を立てただけだった。
「悪かったな。乱暴なことして」
気をとり直すように隼が謝罪すれば、有毅は目を伏せてから首を横に振った。
「ううん。ぼくも悪かったんだ。さっきも言った通り、きっとまだ間に合うと思うけど、ゆっくりしてもいられない。急ごう」
有毅が先行して歩き出し、隼はすぐにあとを追った。
ススキをどんなに掻き分け進もうとも、有毅の足音がすることはない。それでも一生懸命に地面を踏みしめるように歩く背中に、隼はある種の頼もしさを感じると同時に、自分も頼られているのだと実感した。
有毅だけならば、歩く必要などないはずだ。それでもあえて隼に合わせて歩いている。それほど有毅は、隼の力を必要としてくれているのだ。
有理沙と有毅、必ず二人とも助けてみせると改めて誓って、隼は銀の野原を突き進んだ。
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