九羽 月へ

 月乃浦神社の社殿は、よくある神社と同様に、参拝者が参詣する拝殿と、祭神を安置する本殿、それらを繋ぐ幣殿へいでんが棟を連ね、奥に長い構造になっている。拝殿の左右には、社務所の役割をする翼殿よくでんが欄干つきの廻縁まわりえんで繋がっており、これらを回り込むとなるとなれば、それなりの距離を走ることになる。

 それでも隼は心得たもので、棟を繋ぐ縁をくぐりつつ、長く伸びる日暮れの影と併走するように社殿の裏へと駆けつけた。

 竹林に入ると、有毅の姿はすぐに見つかった。社殿からいくらか離れた竹林の中ほど、竹の隙間から差す夕日を浴びて立っている。その輪郭が滲んで見えるのは、隼の目が日差しに眩んでいるだけなのか、あるいは有毅の存在の希薄さゆえか。前者であればいいと思いながら、隼は有毅の背中に駆け寄った。


「あったか?」


 有毅はすぐには答えず、目線だけで隼を見やってから、足元を指差した。


「ここだ」


 有毅の前の地面は、竹の地下茎が覗く段差になっていた。飛び降りて振り返ってみれば、ちょうど段になっている部分が、黒い穴になっていた。かなり狭そうではあるが、人が一人どうにか通れはするだろう。

 隼は地面に両手をついて、慎重に穴を覗き込んでみた。ぽっかりと開いた口より奥は、地肌すら見えないほど濃い闇に塗りつぶされていた。


「この穴が、月の国に繋がってるのか」

「うん」


 有毅が頷くのを確認すると、隼はスポーツバッグを紐をできるだけ短く調整して腹這いになった。


「待って、隼」


 早速穴に潜り込もうとした隼を、有毅が引き留めた。穴の縁に手をかけたまま首をひねるように顔を上げれば、間近に膝をついた有毅が硬い表情でこちらを見ていた。その口元が震えているのを見てとって、隼は一度体を起こした。


「怖いのか?」


 隼が問うと、淡い色をした有毅の瞳が揺れた。動揺を悟られまいとするように有毅は顔を伏せたが、吐いた息も震えを含んでいた。数瞬の間があって、ようやく有毅は声を絞った。


「怖いよ。正直、ぼくがまた向こうにいって、どうなるか分からないんだ。今度こそ本当に、帰ってこられなくなるかもしれない」


 消え入りそうに背中を縮めながら、有毅が言う。隼は怯える幼馴染みの姿に自然と目を細めると、体温のないその手を握ってやった。


「そうはならない。そのために、おれがいくんだ」


 励ますように言えば、有毅は少しだけ顔を上げた。隼は、手を握る力を強めた。


「昔のおれはなにも分かってなかったから、見よう見まねのままごとみたいな儀式しかできなかった。有毅が皆に見えないのはおれのせいだ。だから、もうそんな半端なことはしない。有理沙は確実にとり戻す。有毅も、今度こそ完全な状態で、一緒に帰ってくるんだ――そのためにおれは、ずっと努力してきた」


 隼の言葉を受けて、次第に有毅の瞳に光が差した。驚いたように見開かれた目が、ふと笑みの形に細まる。


「ありがとう。でも責任は感じないで欲しい。どんな形であれ、隼がぼくを呼び戻してくれたことには感謝してるんだ」


 今にも泣きそうにも見える有毅に笑み返すと、隼は改めて穴の前に腹這った。


「ねえ、隼」


 進む体勢を作った矢先に再び呼ばれ、まだなにかあるのかと隼はかたわらを仰ぎ見た。今度は怯えのない表情の有毅と目が合った。


「隼はさ、なんで、ぼくが見えることを有理沙に言わないの」


 静かな声音に、隼はすぐに答える言葉が出なかった。黙ったまま正面に顔を戻し、穴の縁に手をかける。一つ、息を吐いた。


「おれは絶対に、有毅を元に戻すって決めてる。でも、今の有毅が見えることが当たり前になったら、それで満足して、決意が揺らぐ気がするんだ。それに、有毅が元に戻れば、言わなくたって同じだ」


 隼がこうして思いを口にするのは初めてだった。有毅を呼び戻した時からずっと秘めていただけに、言葉にすると妙に照れくささがある。それでなんとなく隼が顔を上げられずにいると、有毅が小さく笑うのが聞こえた。


「隼らしいや」


 らしいと言われるのなら、照れるものでもないのかもしれない。しかし笑われるのは、少々憎らしかった。


「言っとくが、おれはあくまで宮司の息子でしかないから妙な期待はするなよ。出仕しゅっしですらないんだ」

「それが分からないほど無知じゃないつもりさ。それでも、子供のままごと儀式でぼくを呼び戻すことはできた」

「不完全だけどな」

「できたっていう事実が大事なんだよ」


 念のための釘差しだったが、有毅には不要な上に意味をなさなかったらしい。それでもやはり少々期待しすぎなのではと思ったものの、有毅が柔らかに笑っているので隼はそれ以上言うのはやめた。

 気をとり直して、隼は穴の縁にかけた手に力を入れた。


「いくぞ」

「うん」


 隼は大きく息を吸い込んで、暗い穴へと身をすべり込ませた。

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