3

 数日後、すっかり回復した私は、彼女の病室を訪ねてみようと思い立ち、すぐさま行動に移しました。彼女は個室から大部屋へ移動していて、入院患者は彼女を含めて六人です。入り口の名札でベッドの位置を確認して入室すると、彼女はベッドに上体を起こして窓外の虚ろを覗いていました。その目の色はどこか悲しげで声をかけるのも憚られてしまいます。脚に制動をかけられ、瞬間、心に着氷した。しばらくベッドの後ろでドギマギしていたら、彼女の顔が不意にこちらへ向けられました。彼女の目の焦点が私のそれにあった途端、一層戸惑う羽目に陥り所在無く右手の人差し指が鼻頭を擦ります。そっと彼女の目を覗く。と、その眼差しは何とも温いさざ波を起こしています。うっすら笑みをたたえた口角は感情の凪いだ証なのでしょうか。桃色の唇が病巣を追いやったことを物語っています。私も彼女の気持ちに呼応するように笑みを返します。解氷された私は静かに歩み寄り、ベッド横の椅子に腰を下ろしました。

「気分はいかがですか?」

「ええ……」

 ひと言か細い声を発しただけで微笑んだまましばらく俯いてしまいましたが、目線をこちらに向けると、その目はしっとりと濡れていました。

「胃の具合は……良好でしょうか?」

 やはり、いの一番に口を衝いて出た問いかけでした。私の病んだ胃袋ですから、申し訳ない気持ちでいっぱいなのです。 

「はい、別段変わりはないようです。ありがとうございます。あなた様は、いかがでしょうか?」

 いたわり深い眼差しが、私の凍てついた不安を解かします。

「おかげさまで、私も最大の苦痛が取り払われて、とても楽になりました」

「そう、それはようございました」

 彼女はしんみり深々と頷いてくれます。「ですが……わたくしのほかの臓器はいかがでしょう?」

「多少、違和感は残るものの、胃痛に比べれば、取るに足りないのです」

 彼女も私と同じ懸念を抱いていましたので、率直にお答えしました。ただ、痛みとは言わず、違和感と伝えました。

「わたくしも同じです」

 同調してまた頷いてくれます。「でも、おかしなものですね。他人の苦痛を受け入れて、自分の苦痛を和らげるなんて」

「苦痛を分かち合うんですねえ……何とも不思議な療法です」

 こうして対面で話すうち、奇妙な感覚に囚われ出した。かの痛みは、自身か、それとも目前の女性のそれなのか。意識的に痛みを受け止めていると、不意に頭が混乱を起こしそうになるのです。私の肉体に存在しなかった痛み──彼女を苛んだ痛みがこの身を襲ってもそれほどの苦しみはもたらされません。しかし、彼女の気持ちは十分に理解できます。さぞかし辛かったに違いありません。先ほど、潤んだ瞳から雫がポツリと零れ落ちたのを見ました。同時にとても穏やかな表情を覗かせています。苦痛から解放された証なのではないでしょうか。私たちは今、心身共に安らぎの直中に生きているのです。

 和やかな歓談をしばらく続けましたが、彼女の顔には未だ疲労の色が滲んでおりますゆえ、早々に立ち去る決意をしました。去り際、母が面会を乞うている旨を告げたら、退院後に実家までの同伴を快諾してくれました。

 自分の病室へ戻る途中、彼女から賜った臓器の箇所を擦ってみる。彼女の痛みが掌に伝わってきます。痛みを分かち合うことで、苦痛を軽減。他人の痛み、己の痛み。交換することによって、これほど相手の気持ちも分かるものなのかと改めて驚かされます。なるほど、これは心身両面において、画期的な施術方法なのですね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る