伍 いざ征かん

白み始めた空の下、二頭の馬が疾駆する。直進、右に曲がって、左に曲がる。真っ直ぐ真っ直ぐ、また右へ。顔に吹き付ける風に負けじと、私は前を行く父上に叫んだ。

「父上―!ずっと気になってたんですけど、これ、方向逆なんじゃないですか──⁉︎」

水沢村は槇之葉村の西側にあるから、築葉神社の裏を抜けて山を越えるのが最短のはず。

「本当ならそうしたいところだが、行き先が行き先だからな──何重にも偽装を施さないと、おちおち行くこともできないんだ!次、あの木を左に曲がるぞ!」「はい!」

手綱を握り直した直後、蹄が鳴って左に急旋回。頬を枝葉がかすめ、情けなくも悲鳴をあげてしまう。

「静かに。馬の速さに慣れないのはわかるが、ここで大声を出されたら誰に知られるかわからん。それに俺達は今、槇之葉村の横を通っている」

横を見ると、まばらに生えた木々の隙間から村の様子が覗けた。「確かに、少しだけですけど見えますね」

見えたままのことを言ったはずが、その言葉に父上の顔が引き攣った。

「……何を言っているんだ?ここから村なんて見えないぞ」

「え?そんなことないですよ、ほら──」愕然とする。

一瞬目を離した隙に変わっていた。坂の両脇は、密に生えた木々がどこまでも続いている。作られた壁のような不自然ささえ感じる、向こう側の景色なんてとても見えない。

「嘘、確かに木の隙間から見えたのに……もしかしてこれも、空属性の力なんでしょうか?それとも、桃の耳みたいな特殊体質?」

「いや、常に発動しているわけじゃないから体質ではないだろう。かと言って空属性の力とも言い切れん……」ぶつぶつと呟く父上。

「……俺には分からないが、珠紀様なら分かるかもしれん」

「そうですか。……ところで、珠紀様ってどのような方なんですか?何かあったら守ってくれると祖父上は言っていたけれど……そんなに強いんですか?」

すると父上は、今日一番の大声で答えてきた。

「強いなんてものじゃない、彼女は天才だよ!普段はあまり全力を出さないが、実力なら父上と互角か、もしかしたらそれ以上かもしれん」

「えっ、そんなに強いんですか⁉︎」

 昨日の祖父上の偉業を思い出す。あれを超えるだなんて本当だろうか?

「ああ。それに齢十六にして心中祝詞を許された、数少ない方でもある」

「ええっ⁉︎」自分の耳を疑う。あの祖父上でさえ、心中祝詞が許されたのは五十を超えてからなのに……。

霊術を使うための祝詞は声に出さなければならないのだが、心中祝詞は文字通り、祝詞を声に出さず心の中で唱えること──俗に言う「無詠唱」で術を発動させられる。神道において「言霊」、つまり言葉を声に出すことは非常に重要視されている。心中祝詞なんて例外中の例外、やろうものなら神罰が下って即死するほどだ。そんな無礼が許されるのはごく少数。長年の修行が神々に認められた一部の努力家か、それよりも少ない——生まれながらに神々に愛された天才のみ。後者にしたって相応の修行は必要だから、珠紀様がいかに常識を超えた人物であるかが分かる。そんな人のところに私は行くのか……。

 そうして一刻ほど馬を走らせ続けていると、ふいに空気が変わった。今までと変わらない木々の連なりのはずなのに、先に進むのをためらってしまう。

「結界が張られている?でも少し違うような……」

「ああ、これは陰陽術の一種——風水を利用した『人払い』だ」

父上が書状を取り出し、道端に生えている桃の木にかざす。すると書状は赤く燃え上がり、道を横切って流れる川が現れた。驚いていると、

「琴、俺が案内できるのはここまでだ。この川から先はお前一人で行くんだ……いいな」

「えっ⁉そんな、初めて来た土地で一人だなんて——」

戸惑うばかりの私に、父上は優しくいった。「心配無い。結界守の方々も、水鏡神社の宮司様達も皆いい人だ——それに、これは掟なんだ。外部から結界守又は結界守代を招く場合、当事者以外は渡川手前までしか同伴できない、と」彼はそっと微笑む。

「父上……」

呆然としていると、対岸から馬に乗った人影が近づいてきた。恰幅の良い中年男性で、立烏帽子に卯花の狩衣——陰陽師だ。

「いやあ、心太郎殿!今朝はお早いうちから、どうも御足労いただきまして……」

人の良さそうな恵比須顔をほころばせ、彼が挨拶をしてきた。

「渡良瀬殿。こちらこそ早朝からの御案内、感謝申し上げます」父上の目配せに、

「あっ、私は槇守心太郎の娘、琴です。本日より、水鏡結界の結界守代を務めさせていただくことになりました……。渡良瀬様、何卒よろしくお願い申し上げます」

「おお!まだお若いのに立派な娘さんですなぁ。ああ、申し遅れました、わたくし渡川結界の結界守をしております、渡良瀬門嗣(わたらせかどつぐ)と申す者です。心太郎殿、琴殿は必ずや、わたくしが責任を持って除悪結界まで御案内致しましょう」

「ええ、頼みましたよ、渡良瀬殿——それじゃあ琴、元気でな」

 父上は一礼すると、馬に乗って颯爽と去ってしまった。揺れ出す視界の隅に、そっと手ぬぐいが差し出された。

「——我慢することはありませんよ。泣きたい時に泣くのが、人の自然な姿ですゆえ」

「……はい。ありがとうございます」

手ぬぐいで涙をぬぐい、改めて決意を固める。それを見て渡良瀬様は微笑んだ。

「それでは、参りましょうか」

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