肆 最後の朝

ひやりとした空気が瞼を刺す。目を開けると、見慣れた木目の天井がある。

「……今日で最後か」

ぽつり、と呟いた言葉は静寂に吸い込まれていった。丁寧に布団を畳み、十五年を過ごした部屋を掃き清める。正確には一年空けるだけだが、それでも別れがたさはある。身長を刻んだ柱、摘んだ花を飾った床、何度も貼り直した障子。今までなんとなく漂っていた思い出達が、物の形に凝固して目に焼きついてくる。私の部屋ってこんなに明るかったっけ、と思ってしまう。築葉神社の巫女装束をまとう手つきも、いつもより繊細になる。

今は暁七つくらいだろう。濃紺の絹をかけたような空には、日の代わりに星が輝いている。昨夜の熱気がまだ残る拝殿に上がると、祖父上と桃が待っていた。しかし桃の目が腫れている。「……桃?」彼女はうつむいたまま、何も答えない。

「おはよう琴。一緒に祝詞を上げようか」

いつもの言葉に頷き、三人で祝詞を奏上する。その後は境内の掃除だ。変わらない時間を過ごせば過ごすほど、かえって奇妙なよそよそしさが生まれてしまう。「別れ」の輪郭が存在感を持って、少しずつ近付いてくる。

祝詞を奏上し拝殿の掃除を終える頃には、空の紺も瑠璃色に薄れていた。「荷物を準備してきます」荷物を抱え、境内の外で馬を用意している父上と母上のところへ行く。

「おはよう、今朝はよく眠れたか?」

「はい。いつでも行けます」

「そうか。それは良かった」父上が笑う。

荷物の内容は衣類や日用品、薬や娯楽用の本、お世話になる村長や水鏡神社への贈り物だ。布袋に詰めたそれらを紐で馬にくくりつけていく。

「ところで祖父上は、皆にはどなんと説明したんですか?」

「城下町の神社で、霊術の修行を詰んでくると言っていたよ。疑う者は特にいなかったな」

「え、じゃあ私、帰ってくる時には強くなってないとダメじゃないですか」

そんなの聞いてないと言わんばかりの私を、笑い飛ばしたのは母上だった。

「心配ないわ、琴。結界を維持するだけでも十分な霊術修行になるし、結界守の珠紀様は素晴らしい霊術使いよ。学びになることが、きっとたくさんあるわ」

「そうですか……」呟いて紐を結び終える。馬具も取り付けると、いつでも行けるよと言わんばかりに馬が尻尾を振る。ふと見上げると、瑠璃色だった空は勿忘草色に染まっていた。

「それじゃあ、俺は柏屋の傍で待っていよう」

父上は神職者の狩衣姿で、器用に馬にまたがる。今日は水沢村まで先導してくれるのだ。

「はい。私も、そろそろ着替えてきます」そう断って家に戻る。

井戸水で再度顔を洗い、旅用の小袖に身を包む。家に別れの挨拶をしてから、真壁山の麓にある共同墓地に向かう。先祖代々の墓──その中には、祖母上も入っている。柄杓の水で墓石を清め、花挿しに金盞花を数本を添える。小さな太陽が咲く墓の前で、静かに手を合わせた。「——御先祖様、祖母上。行って参ります」

ほんの少し笑顔を見せて、墓地を出る。勿忘草色の空の下、村は宴の反動で眠りについている。神社から柏屋へ続く、何度も歩いてきた一本道。思わず感傷にひたりそうになるのを、なんとか抑える。

(──ダメダメ、もう覚悟は決めたんだから)

一本道の先、すみれ色の混じる空に、柏屋の影が漆黒に浮かび上がる。どこからか聞こえるスズメの声。裏庭を通って表に出ようとした時──

「琴ちゃーん!」「琴〜!」「えっ、皆⁉︎」

なんと、柏屋の縁側から村人達が一斉に飛び出してきたのだ。驚いた雀がバサバサと飛び立っていく。

「いやぁ〜、琴ちゃんが城下町に修行に出るって言うから。こりゃあ槇ノ葉村総出で見送らんとなぁって、昨日話しとったんよ」村長の言葉に、皆そうそうと頷く。

「それに、渡したい物もあるからのぅ」

村長がうながすと、月花とまこちゃんが前に出てきた。

「私からはこれ。時間のある時に読んでみて」そう言って月花が渡してくれたのは、

「えっ、これって菫花日記の写本⁉︎」

「そう。琴ちゃん、ずっと読んでみたいって言っていたでしょう?前に城下町に行った時に写本を買ったの」にこっと微笑む月花。

「覚えててくれたんだ……」

「実は、俺からも渡したい物があってさ」

まこちゃんが差し出してきたのは、一巻の巻物だった。試しに広げてみると、

「うわぁ……!」墨字の和歌と共に、色鮮やかながら繊細な大和絵が連なっていた。

「これ、もしかして百人一首絵巻?」

「そ。琴が好きな和歌集だからさ、前から描いてたんだ」はにかむまこちゃん。柔らかな笑みを浮かべる二人とは対照に、私は泣きそうになっていた。

「二人とも……本当にありがとう。家宝にして大切にするよ」

「ふふっ、家宝だなんて」「大袈裟だなぁ」二人は笑うが、その瞳は松明の炎をまだらに反射している。その時──

「──お姉ちゃんっ!」村人達の中から桃が飛び出し、強く抱きついてきた。

「お姉ちゃん、本当に行っちゃうの……?」

「うん。でも大丈夫、一年くらいで帰ってくるから」

「……だけど、お姉ちゃんは……」鬼神の結界守をするんでしょ?見上げてくる桃の瞳が、そう語りかけてくる。

「だからね、これ。お守り」

握り拳を開くと、かわいらしい勾玉の腕飾りが現れた。白い糸には藤や薄紅の水晶が連なり、二つの勾玉は淡い桃色と鮮やかなすみれ色をしている。

「すごく綺麗……。桃が作ってくれたの?」

「うん。昨日の夜、祖父上と一緒に。お姉ちゃんが無事に帰ってこれますようにって」

「桃ちゃんは、本当にお姉ちゃん想いなのね」月花が微笑む。しかし彼女の瞳も潤み始めている。私も、もうそろそろ涙腺が崩壊しそうだ。腕飾りをつけて桃をぎゅっと抱き締めると。

「ありがとう桃。お姉ちゃん、絶対無事に帰ってくるから」

「……本当?」濡れた双眸で見つめてきた。

「うん、本当」優しく笑いかける。こくん、と桃は頷いて、そっと腕を離した。

「元気でね、琴ちゃん」「城下町でも頑張れよ」

二人が言ってくれたが、その瞳は松明を受けて斑に光っている。私も涙が落ちる前に、皆に向けて宣言した。

「それじゃあ、行ってきます!」「「「行ってらっしゃーい!」」」

馬に跨ると、待っていたかのように馬が嘶き走り出した。ついさっきまで背後に聞こえていた声は、すぐに聞こえなくなっしまった。

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