弐 魔の棲む山へ御招待

「お姉ちゃん……」

桃が不安そうに見上げてくる。私は何も言わず、桃の手に自分の手を重ねた。

築葉神社の拝殿。祭壇前の上座に祖父上、私の左には桃。向かいに座る両親は声を潜め、時落ちこっちを見ながら険しい顔で何か話し合っている。村の喧騒は締め出され、行く先知れずの重たい空気が肩にのしかかる。先刻招集をかけられてからずっと、こんな調子だ。

(もうそろそろ話してほしいんだけど……)

だけどこんな雰囲気の中で、口を開く気力は無い。

無言の時間。風の一陣どころか、虫の羽音一つすらしない。

——泥を飲まされているような時間を断ったのは、祖父上の声だった。

「——心太郎(しんたろう)、幸(ゆき)さん、いい加減覚悟を決めたらどうだ」

ずっと小声で話していた、両親の肩がビクリと震える。

「……そう、ですよね。父上」

「私達が決めたことですし……責任は持たないと」

責任?決めたこと?何のことだろう。

やがて両親は、険しかった表情を更に固くして向き直ってきた。

(顔怖っ……)

「……琴、桃。先日、水鏡神社の結界守がお怪我なさったことは知っているな」

私達は無言でうなずいた。

「結界守が管理している水鏡結界は、鬼神を封じる五つの結界の中でも要となるものだ。結界守がいらっしゃる別宮は、鬼神を封印している山の中腹にあってだな……足を負傷された状態では結界の維持に支障がきたす。そこで——琴。お前が、結界守の代役に選ばれた」

「……」

 ——え?


驚きのあまり、声すら出せなかった。桃も丸い瞳を、こぼれ落ちんばかりに見開く。こんな時でも冷静なのは、祖父上だけだ。

「選ばれた、ということは決定事項なのだな」

「はい。水鏡結界は鬼神の力を直接抑え込む、非常に重要な結界です。そこに綻びが生じれば、その被害は相馬国内だけでは済まないと思われます——」

「——ちょ、ちょっと待ってください!」

思わず立ち上がり、父上の説明をさえぎる。

「どうして私が選ばれたんですか?私、霊力はそこまで強くないのに……。水鏡神社に代理を務められる方はいなかったんですか?」

「琴、一旦座りなさい。順を追って説明するから」「……、はい」

大人しく座りなおす。桃は現実を受け止め切れていないのか、さっきから微動だにしない。

「水鏡結界は、その役割上特殊な性質を持っているんだ。第一に、結界守は女性でなければならない。第二に、結界守は水属性もしくは空属性でなければならない。第三に、結界には毎日結界守の霊力を供給しなければならない。この三点を踏まえた上で説明を聞いてくれ」

私が頷いたのを見て、父上は話し出した。

「そもそも空属性に関しては、保有者が琴しかいない。それに今、水鏡神社の神職者で水属性の霊力を持つのは、宮司の治郎様しかいらっしゃらないんだ。だけど治郎様は男性な上、結界の維持には毎日山道を歩かなければならない。高齢の治郎様には厳しいことだ」

「……それは分かりました。だけど水属性の巫女には、母上様が……」

私の質問に、母上様は首を振った。

「それも考えたわ。だけど私達が持ってきたお札に、琴が作ったものがあってね。それを見た結界守——珠紀様がこう仰ったの。『この札を作った者には、鬼神の力を封殺する何かがある』と」

「鬼神の力を、封殺する……?そんなもの、私にはありませんよ」

「しかし、あの珠紀様がそう仰ったんだ、琴にはその『何か』があるんだろう」

「け、けどっ、私は水属性じゃなく空属性ですよ?もし結界内で力が反発し合ったら……」

「その点については問題ない」意外なことに、そう言ったのは祖父上だった。

「空属性の力の一つに、他属性との高い親和性が挙げられる。だから他属性の術をも強化する作用があるのだ——今朝のようにな」

「うっ……」三方向から鋭い視線が向けられ、肩をすくめた。

私は震える声で聞いた。「もし……もし代役を受けるとしたら、向こうには何ヶ月いることになるんですか?」

「医者によると早くて三ヶ月、完治するには半年、もしくはそれ以上かかるそうだ」

「そ、そんな……」

目の前が真っ暗になった。ヲシエ山に封印されている鬼神は「赤い災禍」の異名を持ち、複数いる鬼神の中でも最強かつ最恐と言われる存在だ。身体は天を衝く程に高く、大鹿のような角と狼のような牙を持ち、知性も高く、炎を操り暴虐の限りを尽くす。その息吹は八つの村を吹き飛ばし、爪の一振りで百の人間を切り裂き、その赤い瞳に睨まれれば命が吸われるという。歴史書を遡れば、その鬼神が起こした災厄が幾つも記してある。八百万の魔を従え、人々を無為に殺害し、一晩で三つの国を滅ぼし、その血を盃に溜めては夜な夜な笑う。残虐で、狡猾で、強大な力を振りかざす最悪の鬼神。

(そんな怪物のすぐ傍で、半年も過ごさなければならないなんて——)袴をきつく握りしめる。

「私達神職者の役目は、神様にお仕えするのみにあらず。危険な『魔』から人々を護り、平穏な日々を支えるのも、また役目である——それは分かっているな、琴」

祖父上の言葉に、私は頷く。

「さっきも言ったが、水鏡結界は鬼神の力を直接抑え込む、封印の要となる結界なんだ。だからそれが破れれば、槇ノ葉村や相馬国、ひいては日本全土に危害が及ぶ」

「私達も、琴を山に向かわせたくはないわ。あの鬼神の瘴気は強すぎて、結界から漏れ出した瘴気から魔が作られるくらいに……。だけどこれには大勢の人の命がかかっているの」

「実際、不安定になった結界から鬼神の瘴気が漏れ出して、近くに魔が引き寄せられているんだ。槇ノ葉村が魔に襲われるのも時間の問題だ——だから頼む、この通りだ」

父上が額を床にこすりつける。母上までそれに倣った。

「……」そんな二人を前にしてなお、私は何も言えない。

二人共、きっと物凄く悩んだだろう。行く時にはなかったクマが刻まれているし、心なしか少し瘦せているように見える。もし私が両親の立場だったら、もし桃に鬼神を封殺する力があって、危険な鬼神の棲む山に向かわせなければならないとしたら。行きたくない、行かせたくない。今の心情は、さながら斬首刑直前だ。死の宣告を言い渡されたにも等しい。だけどここで断って、結界が破れたら……考えると血の気が引く、から、私は。

「——……っ、分かりました、私は——」

「——やだっ‼」

ずっと黙っていた桃が、私の声を割って叫んだ。

「桃……」

「私は嫌っ!だって、鬼神って怖いんでしょ?人を殺すんでしょ?そんな怖いところにお姉ちゃんを行かせるの⁉はやだ、お姉ちゃんは絶対行かせないんだから——!」

豪雨のように涙を滴らせ、私に抱き着く桃。白い装束があっという間に濡れていく。

「桃、泣くのはよしなさい。これはもう決まったことなのだから——」母上が慌てたように口を挟むが、

「いやっ!皆ひどいよ、どうしてお姉ちゃんの意見を聞かないのっ、どうしてお姉ちゃんだけを連れてっちゃうのっ⁉皆は祖母上のこと覚えてないの、お姉ちゃんも魔物に食べられちゃうかもしれないんだよ⁉」

祖父上達の表情が硬くなる。祖母上は私が生まれる前、村にやって来た魔を退治するために戦い、激闘の果てに魔に喰われた。

「……琴は柚木のようにはしない。それに水鏡神社も珠紀様も、何かあれば必ず琴を守ってくれる。あそことは旧知の儂が保障する」

「嘘っ!皆お姉ちゃんのことは何とも思ってないんだ、だから平気でそんなことができるんだ!父上も母上もお姉ちゃんの命より、知らない人達の命の方が大切なんだ——!」

「やめなさい、桃っ!」「っ!」

思わず桃の頬を叩く。いくら納得できないことでも、言っていいことと悪いことがある。人の覚悟を非難するなんて猶更。

だけど、

「ありがとう——」

 桃を抱きしめる。腕の中で、彼女の瞳から涙があふれ出すのを感じた。

「……ごめんなさい。父上、母上。桃、皆の気持ちを考えてなかった……」

「いいえ、こちらこそごめんなさいね。非常事態とはいえ、琴に強要するような言い方になってしまったわ……代役のことは、自分の心ともよく相談してから答えを聞かせてね」

「お、おい、幸」慌てる父上だが、母上にガンを飛ばされ首を縮めた。

「……確かに、俺達は琴の気持ちを無視してしまったな。けど時間が無いのは本当なんだ、できれば今日中に答えを出してくれ……もし琴が嫌なら、その時はまた別の策を考えよう」

「——ありがとうございます、父上、母上」

私は桃を離し、一礼して拝殿を出た。いつのまにか、外は橙色に染まっていた。伸びた影はふらふらと揺れ動く。私は歩を進める。進むべき道は何か、どこへ行きたいのかもわからないまま——。

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