壱 槇之葉村の朝

ひやりとした青い空気が頬を刺す。目を開けると、見慣れた木目の天井が視界を覆った。

「ふぁ……。おはよう、ございます」

一度立ち上がり、ぐっと伸びをする。布団を畳み、最近付けたばかりの雨戸をあける。初夏らしい、草木の香りを含んだ空気が流れ込み、思わず深呼吸。息と共に眠気も吐き出されたようで、冷たい井戸水で顔を洗えば準備万端。畳んでおいた巫女装束を身にまとうと、障子戸の向こうから声がした。

「お姉ちゃーん、袴の帯が結べない~」

「はーい、今行くから待ってて」

妹・桃の紅袴の帯をしっかり結んで、二人手を繋いで家を出る。まだ朝日も昇らぬ、瑠璃色をした暁闇の時。森の木々が眠る中、玉砂利を踏む音だけが澄んだ空間にこだまする。やがて青藍の空に、漆黒の拝殿の影が浮かび上がってくる。

そう、私の家は神社だ。相馬国のはずれにある小さな農村——槇之葉村を護る、小さな鎮守の社。祖父上が宮司を務め、両親も共に神職に就いている。かく言う私・琴も、巫女の一人。桃と一緒に、神職としての修行に励む日々を過ごしている。

手水舎で心身を清め、本殿に入る。殿内には最低限の灯りのみ。拝殿の最奥部、開け放たれた扉の向こうに小さな本殿が見える。宮司——祖父上は、その扉の前に座していた。白衣に紫の袴。老齢の神職者特有の威厳と風格に、思わず背筋が伸びる。

「「おはようございます、祖父上」」

 声をそろえて挨拶すると、祖父上は皺だらけの顔に柔らかな笑みを浮かべた。

「おはよう、琴、桃。一緒に祝詞を上げようか」「「はい!」」

いそいそと、祖父上の両脇に置かれていた座布団に収まる。三人そろって本殿へ二拝し、祝詞を奏上する。

「「「高天原に神留坐(かむづまりま)す 神漏岐神漏美(かむろぎかむろみ)の命(みこと)以ちて——」」」

朗朗とした声が暁の静寂に染み渡る。揺らめく蝋燭の灯りに、拝殿を組み上げる檜が薫る。すべてが清らかに、穏やかに過ぎていくこの時間が、私は好きだ。

(——だけどこの平和な日々も、いつ終わるかわからない……)

室町幕府の権威が失墜し、各国の大名が争い合う世の中。欲望の炎を謀略の風が駆り立て、幾つもの人々と国が焼け落ちていく。静かで平穏な槇ノ葉村も、いつかは戦火に燃えてしまうのだろうか……。

祝詞を奏上し終わると、続いて境内の掃除に取り掛かる。桃は竹箒で落ち葉を払い、私は布巾で御殿の柱を磨いていく。そのうち空の瑠璃が薄れ、朱い鳥居の間から金色の太陽が顔をのぞかせた。透明な日の光が境内に差し込み、白い玉砂利が金剛石のようにきらめきだす。夏になって、日の出が少し早まったようだ。そんな静かに澄んだ空間に、桃の不安げな呟きが落ちた。

「……それにしても遅いね、父上と母上」

箒を動かす手を止め、不安げな眼差しを西側に目を向ける。神社の背後にそびえる真壁山、その向こうには一つの村がある。

水沢村。その昔、強大な鬼神を封印した山がある、いわく付きの封魔の村。そんな村には『水鏡神社』という、代々鬼神の封印結界を護っている神社がある。そんな村の要とも言える神社の宮司から昨日、急ぎの手紙が来た。

山にいる結界守の巫女が、滑落して足を骨折してしまったというのだ。

幸い一命は取り留めたものの、足場の悪い山中では結界守の役目に支障が出る。そこで彼女の怪我が完治するまでの間、どのようにして結界を護っていこうか、隣にある槇之葉村を護る築葉神社にも協力を申し出たい——手紙には、そんなことが書かれてあった。それを読んだ父上と母上は早馬を飛ばし、水沢村へ駆けていった。それが昨日の昼のことである。

「さっきから何度も霊声を飛ばしているのに、ちっともお返事が来ないの。桃の霊声が届かない場所にいるのか、それとも——」

箒の柄をぎゅっと握りしめる桃。戦国の世なだけに、不安の渦が加速してしまう。

人には誰しも不思議な力——「霊力」を持っている。声に霊力を込めれば遠く離れた人とも、木々や動物とも会話することができるのだ。声が届く範囲は霊力の強さによるが、私も桃も何とか隣村に届くかな……と言った具合でしかない。

「確かに、鳥達も父上と母上の姿を見てないみたい。……そうだ、霊声が届かないなら風に訊けばいいんじゃない?」

桃は生まれつき、風の声を聴ける特別な耳を持っている。霊声と違い会話はできないが、霊声が届かない程遠く離れた場所の出来事でも、桃は風を通じて一方的に知ることができるのだ。

ところが桃は首を横に振った。

「無理だよお姉ちゃん、今朝は風が吹いてないんだもん。それに霊術で風を起こそうにも、私の実力じゃあ隣村まで届かせることはできないよ」

神社に勤める者は、己の霊力を捧げる対価に神の力を借りる——「霊術」を使うことができる。霊力の強さは個人差があるものの、神職の血筋の者は大抵強い霊力を持っている。捧げる霊力が強いほど術も強くなるわけだが、私も桃もそこまで霊力は強くない。全力で術を使っても、隣村はおろか、槇ノ葉村一帯にすら効力が及ぶかどうか。

「そっか……。かと言って、私に風は起こせないし……」

超常の力をもってしても、現実はそう上手くいかない。二人そろって溜息をついた。

霊術には地、水、火、風、空の五つの属性があり、術の属性は自分の守護神の属性によって決まる。例えば守護神が水属性の場合、術者は水の術は使えるけれど火や風の術は使えない。桃の守護神は風属性だから、風を生み出し操ることができる。一方私は空属性、属性の違う風の術は使えない。

加えて空属性は該当者が少なく、その特性は謎に包まれている。私が知っている力の中で、使えるものと言えば——。

その時、妙案が浮かんだ。

「それならさ、二人で一緒に風を起こさない?」

「えっ、でもお姉ちゃんは空属性なんじゃ……」困惑する桃に私は教える。

「前に祖父上の知り合いから聞いたんだけど、空属性は他属性の術を強化することができるらしいの。もしかしたら、風を水沢村まで届けられるかもしれない!」

「そうなの⁉じゃあ桃も手伝う!」

 さっきまでの不安げな姿はどこへやら。打って変わって乗り気になった桃と手を繋ぎ、真壁山——を越えた先にある水沢村——を見つめる。そして互いに頷くと、

【【掛けまくも畏き級長津彦命(しなつひこのみこと)よ、常世を渡る天津風よ、我等と己が父母の在処を結び、早馳風神取り次ぎ給へ!】】

高らかに詠唱した瞬間——


「えぇぇ——っ⁉」「お、お姉ちゃん!飛んじゃうよぉ——!」


虚空が咆哮し、全身を鞭打つような暴風が吹き荒れた。木々が唸り、せっかく集めた落ち葉が天高く舞い上がる。何とか桃の手を手繰りよせ、互いに飛ばされないよう固く握る。

(か、風が、痛い……。完全にやらかした——!)

霊術を止める祝詞を唱えようにも、風が強すぎて呼吸すらままならない。体を貫く勢いで玉砂利が飛んでくる。何も見えない、何も聞こえない——はずなのに。

(……え……?父上と、母上?)

森の中、馬に鞭打って疾駆する父上と母上の姿が、突然瞼の裏に見えた。それだけじゃない、なんと話し声まで聞こえてきた。

『——それにしても驚いたな、珠紀様があのようなことを仰るなんて——』

『——だけどあの子にはなんて説明するのよ?一刻を争う事態なのは分かるけど、心の準備はすぐにはできないでしょ——』

(……もしかして、誰かが水沢村に行かされるってこと?でも誰が——)

しかしその名が聞こえる前に、二人の姿は風にほどけるように消えてしまった。

再び目の前が真っ暗になっていると、狂風を断ち割って力強い声が耳に届いた。

【高天原に坐し坐して、時の狭間に在りて静をなす月読尊(つくよみのみこと)よ、強(あなが)ちなる巫女を護り給ひ荒ぶ天津風(あまつかぜ)を鎮め給ふことを、恐み恐みも白(まを)す!】

その途端、あれほど猛り狂っていた風が消えてしまった。嵐の後に響くのは、折れた枝葉が落ちてくる音と——

「愚か者‼」

——祖父上の怒声だった。

「霊術を使う前には私に申し出よと、あれほど言ったのに……!なぜ無断で術を行使した、私が止めなければ四肢が千切れ飛んでいたんだぞ‼」

 鬼気迫る祖父上の声。普段温厚な人に怒られると、かなり心に来るものがある。

「……ごめんなさい。桃、父上と母上の様子を知りたくて……」

「私も、自分の力もよく分かってないのに、術を使ってしまって……ごめんなさい」

この規模の風では、村の方まで被害が及んでいるに違いない。大迷惑をかけてしまった——。二人そろってうなだれていると、祖父上のあたたかな手が肩に置かれた。

「——もう良い。私の孫娘達は、一度犯した過ちを二度繰り返すような愚か者ではないからね。よく反省したら、二人で村の様子を見てきなさい。そして困っている人がいれば、責任をもって助けるように」

「……はい!行こう、桃!」「うん!」

 御殿に拝礼をしてから、境内を飛び出した。

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