第1話 人が足りぬ...

宏景はなんともとんでもない置き土産を嫡男に残して先立ったものだ。


宏隆ひろたかは、まだその身が幼い頃に父である宏景に先立たれた。その時こそ、周りの涙が引っ込むほど泣き続け、憑き物の存在を懸念されるほどに暴れまわったものの、時が経ち、元服を果たした頃には、既に父の残した遺物を疎む心が、悲しみの念を上回っていた。


父は、莫大な富と同時に、とある競技についての書物を残していた。『野球』と名を冠したその競技は正直、かなり奥が深く、宏隆の心を多少なりとも惹きつけた。


しかし、その未完成の競技の開発を嫡男である自分に託す、と来たのでは、そう気楽な心持ちばかりではいられなかった。


「そろそろ、実際にやってみねば...紙と向き合って考えるだけではいささか限界がある」


「18人も協力者がおりましょうか」


「そこなのだ...頭痛のもとは」


側仕えの竹丸に痛いところをつかれ宏隆の心は曇った。どこまで大人数を巻き込むつもりだったのか、宏景は野球を9人で一団とする体系として作ろうとしていたのだ。

まだ、学問に勤しんでいた宏隆には、官位などというものは与えられておらず、父のツテを使おうにも、どうしても気の退ける性分が邪魔をした。


ある程度父から受け継いだ研究を進めることもできていただけに、人を集められないという初歩的なつまずきはかなりこたえるものがあった。


「宏隆様!おかみの使者様がお見えです」


竹丸に呼ばれ、玄関へ出向くと、そこには帝の使者が立っていた。


「帝がお呼びです」


そんなのお前の姿見りゃ分かるわ、などと言えるはずもなく、黙ってそのまま内裏へと向かった。


内裏の空気は、外とは全く異質で、ただただ静けさだけが、ゆっくりと流れる時間を支配していた。この世の場所とは思えないような雰囲気が、その空間には張り詰めていた。

なるべく音をたてないように気を遣いながら御簾の前まで歩き、腰を下ろした。


「宏隆、例の『野球』とやらの開発はどうなっておる」


帝は御簾を挟んでもわかる前のめりな姿勢で、宏隆に尋ねた。なにぶん協力者の頭数が足りず...などと申し上げるのは情けなさのあまり、気が滅入るものがあったが、背に腹は変えられず、実情を全て吐き出すことにした。帝は、しばらくの沈黙の後、明るい声で仰せになった。


「それでは、武者を使うといい」


「武者...ですか」


「あぁ、宮中の近衛兵を9人ほど貸し与えよう、残りは学友でなんとかなるのだろう?」


「左様でございますが、それでは宮中の警備が手薄になるのでは...?」


「問題はない、お前と違ってこちらの頭数は足りておるのでな」


帝は意地悪な笑い方でそう返した。恥ずかしさで顔が赤くなるのがわかったが、それ以上にありがたい話だったので、素直に喜びの感情で胸がいっぱいになった。


「お貸しいただけるのでしたらこれほどありがたいことはございません」


「励めよ、楽しみにしておる」


帝は再びうっすらと笑いながら宏隆を鼓舞した。宏隆は深々と頭を下げて、常世とかけ離れたようなこの場所をあとにしようと立ち上がった。


「宏隆」


呼び止められ、再び帝の方へ向き直る。


「なにを憂いているのだ」


心を見抜かれたようで全身に緊張が走った。帝はつかみどころのない人だった。いつも明るい声色で鳥や花のように優しい空気を纏われている。しかし一方でとても勘の鋭いところもあり、人の心を見抜いているかのような態度を取られることもしばしばあった。


「...父は...宏景はどのような気持ちで『野球』というものを作り出したのでしょうか。」


宏隆はどこかぎこちなさを帯びながらそう告げた。自分がいつからか無意識に父の背中を追いかけるようになっていたことに、宏隆は気づいていた。それは自身の無さの表れでもあり、同時に周囲の期待に応えたいという、幼く純粋な気持ちの表れでもあった。


「ほう、お前は本当にそれが気になるのか」


「はい、それも知らずに私は引き継いでも良いものでしょうか...?」


「さあな...お前の父は信じられんくらい破天荒で奇想天外であったからな」


けらけらと笑いながら帝は故人を懐かしんだ。

宏隆も全くその通りだと言わんばかりにうなずきながら幼い頃を思い返した。

一体それでどうして偉くなれたのかというほどの自由奔放な振る舞いに、幼いながらもひどく振り回されたことを覚えている。どんな時も豪快に笑いながら、自分の頭をくしゃくしゃに撫でてくれた。その時はただただ嫌だったが、今思い返せばその笑い声や振る舞いは、自分の周りの小さな不幸をまとめて薙ぎ払ってくれていたのだと気づいた。


「宏景が何を志したか、それは後からでも見えてくるだろう。まずは進んでみよ。大事なのは自分の選んだ道を信じることだ」


そう声をかけて帝は宏隆を退席させた。帝からのその言葉だけで、宏隆は不思議と勇気が湧いていた。自分の悩みのいかに小さかったかを実感しながら、来る時よりも軽い足取りで内裏を出るのだった。


「宏景、驚いたぞ。あいつはお前の予想した悩みをそっくりそのまま抱えておった」


死んでなお自分を楽しませてくれる宏景に、帝は驚きと尊敬の念すら湧いた。帝は、宏隆から悩みを打ち明けられた時、かつて宏景から聞いた話を思い出したのだ。


『宏隆は優秀になるでしょう、なんせ私の息子ですからね...しかし、やつは私の幻影に悩まされるでしょう。こんな時、父ならどうしたであろうか、とか、なにかを成す時、父はどのような気持ちだったのか、などと』


「全くどこまで面白いのだ、お前という男は」


空を見上げながら帝は嬉しそうな、それでいてどこか寂しそうな表情を浮かべた。偉大な男を亡くしたことで心に穴をあけたのは、なにも宏隆だけではなかったのである。


「しかし、あいつの本当に憂いているものはきっとそれじゃない。自身も気づかぬ心の底の方で、何かがうごめいている」


宏隆の背中を見ながら帝はそうつぶやいた。

果たして、やつは自身の本当の心に気づけるか、宏景、また楽しみが一つ増えたぞ。


「酒を持ってまいれ」


盃を天へと掲げ、帝はそれを一気に飲み干した。頭上に広がる無限の蒼天が帝の盃にこたえるかのように、さわやかな風を吹かせた。





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平安球児〜宮廷で野球始めました〜 わちお @wachio0904

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