平安球児〜宮廷で野球始めました〜

わちお

第0話 「これだ」

どの天皇の御時だっただろうか。

宮廷ではこの日、いつものように歌詠みが為されていた。


その場の誰もが壮大な自然を尊び、流れゆく月日に無常の美を見出していた。


吹き抜ける風の中で舞い落ちる木の葉、微かな音とともに滴る水、

周りを取り巻く物事に感覚を研ぎ澄まし、紡がれる言葉は、一人、また一人と繋がって、新しい美を織りなしていく。


歌詠みの場においても、何を美しいと感じるかは、当人に委ねられるものでこそあるが、彼と同じ価値観の人間は当時、その場にはきっと、一人としていなかったことだろう。


彼のその視線の先には二人の子供の姿があった。片方の子供が木でできた棒切れを刀のように握って、もう一人の方を見ている。


もう一人の子供は小さくて丸い石を握り、棒切れを持つ子供となにやら合図を交わしていた。


何が始まるものかと思われたその矢先、一人の子供が、棒切れの子供めがけてゆっくりとした軌道で手に持っていた石を投じた。


高く舞った石は子供の目の前へ、見つめる視線に向かってゆっくりと吸い寄せられるかのように落ちていく。

その瞬間、宮廷の時の流れは遅くなり、固唾を飲む音がはっきりと聞こえる。


カンッ


横向きに一閃、武士の振るう刀の如く振り抜かれた棒は、投げられた石を捉えて、乾いた音を立てながら弾き返した。


その時その場にいた誰もが歌を詠む手を止め、音のした方を向いたが、子供の戯れとわかるやいなや各々に呆れたり笑ったりしながらすぐに再び紙と向き直った。


「何かと思えば...」

「いやいや、微笑ましいではございませんか」

「全く、子供の考えることはわかりませぬ」


それぞれに反応を示しながら笑い合う、こんな刹那にも貴族の楽しみは垣間見える。


そんな中で紙に向き直ることなく子供に視線を送るのは頭中将である宏景ひろかげだった。


「中将殿、あなたの番ですぞ」


呼ばれる声も耳に入らぬまま、宏景は

「これだ...」と言ってすっと立ち上がった。


「皆様には申し訳ないが、やることができましたので、ここで失礼いたします」


急に席を立とうとする宏景を周りが快く思うはずもなく非難の声が飛んだ。

「中将殿、あまりに非常識ではないか」

「お上がいらっしゃる席で非礼が過ぎますぞ」

がやがやと声が飛び交う中、帝がゆっくりと口を開いた。


「よい。これ以上、興をさますな。宏景、それはそなたにとって大切なことなのであろう」


真っ直ぐな目でそう問いかけてくる帝に宏景は怯むことなく答えた。


「はい、恐れ多きことでございますが」

「そうか、ならばゆけ。代わりの詩は定家が詠む。」

「え...」


宮廷には唐突な無茶振りを食らった定家に同情しながらも面白がる貴族たちのくすくすという笑い声が響いた。


「それではこれにて」


一礼してその場を去る宏景の目は、庭で遊んでいた子供達と同じ輝きを放っていた。


宏景は、この後長い時間をかけてとある一つの遊戯を編み出す。

この遊戯は後々、宮廷のあらゆる人間に影響を与え、新たな美しい物語を紡いでいく。


貴族達に全く新しい価値観を提示する球遊びの存在が常世に生まれ落ちた瞬間であった。



その競技の名前は『野球』というのだとか。

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