増田朋美

その日、杉ちゃんと蘭は、静岡市に用事があって出かけていた。帰りに二人揃って駅員に手伝ってもらって電車に乗せてもらい、富士駅まで帰っていく予定だった。二人が電車に乗り込むと、隣の席に座っていた女性の様子が杉ちゃんたちは気になった。

「おいお前さん。ちょっと気になることがあるんだけどさ。」

杉ちゃんがその女性に言った。

「その着物の袖だけど、しつけがついてる。」

「え?しつけ?どれですか?」

女性はとても驚いた顔で言った。

「だからあ、しつけがついてんだよ。着物の袖をよく見てみな、大雑把に縫ってあるのが見えないのか?」

蘭は、その女性の着物の袖を取り、糸がついているのを彼女に見せてあげた。

「これをしつけと言うんですよ。いらないものですから取ってしまってください。」

「そうなんですか。これはいらないものだったのですか?」

女性は驚いた顔をしたまま言うのだった。そんなものはまるで初めて知ったようだった。

「そうだよ。たまにしつけが付いている着物が売られているときがあるけど、そういうときはしつけを取ってから着るんだ。それもわかんないんじゃ着物を知らなすぎだ。」

「そうだったんですね。全然知りませんでした。そんな事教えてくれる人もいなかったし。私の家族は誰もいないし、着付け教室へ行ったわけでも無いので、そんな事全然知らなかったです。ここについている糸は、しつけと言って、いらないものなんですね。そう言われてみると、しつけのついてる着物はたくさんありますので、家に帰ったら、すぐに取ろうと思います。」

「そうそう。それは、糸切りバサミで取ったほうがいいね。しつけとはいえ、正絹の糸でやっている場合もあるからね。」

杉ちゃんがそう付け加えると、

「正絹ってなんですか?」

女性はすぐに言った。

「お前さん正絹も知らないのか。よく着物は絹でできていると言うだろう?その絹の種類も、蚕さんから取った糸と、人為的に化繊で作った、人絹ってのがあるわけよ。それに対抗して、蚕さんから取ったのを、正絹って言うんだよ。」

杉ちゃんがそう言うと、女性は更に驚いた顔をして、

「そうだったんですが、そんなものがあったなんて、全然知りませんでした。私、着物着るの向いてないのかな。」

と、申し訳無さそうに言った。

「まあ、向いてるとか向いてないとか、そういうことは関係ないよ。それより、着物をちゃんと勉強して、着物の知識を増やしてから、着物を着るといいよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「本当にすみません。私何も知りませんでした。着物が好きで、安く手に入るから、着てみたいと思っただけで、何も悪気は無いのです。本当です。着物をバカにしているとか、そういう気持ちは一切ありません。しつけを取るってことや、正絹のことは、本当に知らなかったんです。本当です。信じてください。」

「信じるとか信じないとか、そういうことよりも、注意をしてくれる人が、一人もいなかったという方が問題だと思うよ。」

蘭が優しく彼女に言った。

「誰もしつけを取るようにって、あなたが着物を買ったとき、教えてくれなかったんですか?」

「ええ、、、。」

彼女は小さい声で言った。

「着物についての情報はインターネットで手に入れるしかありませんでしたから。人に聞くことはできませんでしたし。」

「じゃあ、着物自体はどこで買ってた?」

杉ちゃんが聞くと、

「はい。通販サイトで買いました。しつけというものは何も描いてなかったし、それを取るなんて全然知りませんでした。正絹という言葉もありませんでした。」

彼女は答えた。

「そうなんだねえ。通販サイトも無責任なことばっかり書くからな。可愛くなることも大事なのかもしれないが、そういう着物の知識を教えなくちゃね。まあ、家に帰ってさ。持ってる着物のしつけを取って、それでちゃんと着られるようになることだね。」

杉ちゃんがそう言うと、女性はハイと言って頷いた。

「それで、あなたはどうして着物を着ようと思ったのですか?なにか理由があるのでしょうか。ご家族にも着物を着ていらっしゃる方は、いないようですが?」

蘭がそうきくと、

「あたし、辛いことがあって、仕事も何も全部辞めなければならなかったんです。」

と彼女は話し始めた。

「はあ、パワハラにでもあったんか?」

杉ちゃんが聞くと、

「ええ、もとは学生だったんですけど、先生とうまく行かなくて、ちょっと精神がおかしくなってしまったんです。それで私は、制服を着るのがすごく嫌になって、そんなとき、着物というものがあるんだと言うことを、初めて知りました。」

と、彼女はとても申し訳無さそうに言った。

「つまりどこにも所属していないの?」

杉ちゃんが言うと、彼女は小さな声でハイと言った。

「そうか、それもなにか辛いよね。居場所が無いってことでしょ。」

「ええ、行くところが無いから、どうしても家で生活しているんですが、最近他の家族の人達と気持ちが伝わらなくて。」

「はあ、それはどういうことかなあ?うまく行かないんだったら、つっかえてること、素直に吐き出しちまえよ。僕は、答えが出るまで何度も聞いちゃうタイプだからね。それは覚悟しておいて。」

杉ちゃんがそう言うと、

「自宅にいても、居場所が無いんですね。」

蘭は彼女に言った。

「例えば、ご家族がなんでこの子は働かないんだとか、嫌味を言われるとかですか?お母様や他の家族といても居心地が悪いのでは?」

「どうして分かるんですか?」

彼女は蘭に言った。

「はい、そういう不自由な境遇の女性を仕事からたくさん見ているのです。その女性たちは誰も手を差し伸べない、居場所をなくした人たちで、それでもその場で生きていかなくちゃならないから、観音様やバラの花などを背中に彫ってくれと、僕に頼むわけです。」

「ということは、刺青師の先生なのですか。」

蘭に向かって女性は言った。

「あたしも、入れてみたいと思ったことがありましたが、でも高級車が買えるくらいかかるって言うから、諦めたんです。」

「大体、時間制で、一時間一万円としてますからね。」

蘭はさらりといった。

「基本的に、刺青師さんは、一時間一万とか二万が多いけどね。」

杉ちゃんがそう付け加える。

「まあいずれにしても、彫ってほしいと思うようであれば、連絡をください。こちらが電話番号とメールアドレスです。もし、メールが難しいんだったら、電話でショートメッセージサービスでも構いません。あの、ついでですが、あなたの名前を教えていただけないでしょうか?」

蘭は、電話番号とメールアドレスを紙に書き、伊能蘭、彫たつと書いて彼女に渡した。

「あたしは、浅村と申します。浅村あかり。ひらがなであかりと書きます。よろしくお願いします。」

彼女はそう言って、自分の名前と、電話番号を同じ様に紙に書いて蘭に渡した。

「先生、名刺持たないんですね。それでは、自己紹介するのに困るでしょう。そういうことなら、名刺作ればいいのに。」

あかりさんはそう言っているのであるが、

「いえ、名刺の肩書というのは僕は好きではありません。それにそんな格好つけたことは、僕はしたくないんです。」

と、蘭は恥ずかしそうに言った。

「へえ、彫たつ先生っておかしな刺青師さんですね。普通偉い人は、何でも名刺に描いちゃうようなことが多いですけれどね?」

あかりさんはにこやかに笑った。

「いやあ、僕は、そういうことは好きじゃないんです。偉いとか、そういう事言われるよりも、誰かの役にたてたら、それで本望ですよ。」

蘭は、照れくさく言ったのであるが、

「そうなんですか。誰かの役にたてたらそれで本望っていいですね。あたしも、子供の頃はそう思っていました。だけど、それだけではやっていけないんだなってことも、あたしはすぐに分かりました。先生は、そういうことができるってことは、いいですね。」

あかりさんは小さな声で言った。それと同時に、

「まもなく富士、富士に到着いたします。身延線をご利用のお客様はお乗り換えです。」

と車内アナウンスが聞こえてきた。杉ちゃんたちは、もうここで降りるんだなというと、あたしもここでおりますとあかりさんが言った。電車が富士駅のホームに停車すると、駅員が杉ちゃんと蘭を電車から降ろした。二人は、駅員に手伝ってもらって、エレベーターの前へ行った。蘭が登るボタンを押すと、エレベーターのドアが開いた。すると、そこにいたあかりさんがエレベーターのボタンを押し続けていてくれたので、エレベーターのドアは、開いたままになったので、杉ちゃんと蘭は二人揃って、エレベーターに乗り込んだ。そして最後に、彼女、浅村あかりさんがエレベーターに乗った。改札階に到着すると、あかりさんはすぐにエレベーターのボタンを押してくれていたので、また杉ちゃんたちは、エレベーターを降りることができた。

「ありがとうな。お前さんのお陰で、エレベーターを降りることができた。お前さん、意外に優しいんだね。それは感謝するぜ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「いいえこちらこそありがとうございます。なんか私が、役にたてたような気持ちがして、とても嬉しかったです。」

と、あかりさんは言った。

「では私、身延線に乗っていきますので、失礼いたしますね。今日はありがとうございました。」

にこやかに笑って身延線のホームに向かっていくあかりさんは、とてもうれしそうだった。その嬉しそうな顔が、いつまでも続いてくれればいいのになと杉ちゃんも蘭も思った。

それから、数日が経って、蘭の家に手紙が来た。普通情報の伝達手段は、電話かEメールでしてしまうものであるが、それなのに手紙を送ってくるということは、なにか重大な用事だろうなと蘭は思った。蘭は、封を切って読んでみた。

「前略、あの時は、私と話をしてくださってありがとうございました。本当に嬉しかったです。でも、嬉しい気持ちになったのは、あのときだけでした。あのあと私は、家に帰って、先生に言われた通り、しつけを取りました。でも、そのしつけを取っていたのが、祖父に知られてしまって、私が大量に着物を買い込んでいるのを、贅沢は敵だと叱られました。それから、あれよあれよと、働かないで何をやっているんだとか、親に苦労をさせるな、家族がみんな助け合っているんだとか、散々叱られました。だからもう死んだほうが良いと思います。先生、あのときは本当にありがとうございました。最後に一回だけ、お礼を言われるようなことができたことが、私に取って最高に幸せです。先生、ありがとうございました。これでわたしも心置きなく、あの世に行けます。先生、ありがとうさようなら。かしこって、これ、遺書みたいな内容じゃないか!」

随分下手な字だったけど、蘭にはそう読めてしまった。それと同時に買い物に行こうとやってきた杉ちゃんが、

「おう蘭。お前さんの話は丸聞こえだった。もしかしたら、もう自殺してしまったかもしれないよ。そういうやつってのは、変なところで、気が早いから。」

と言ったので、蘭は、二三日前から保管してある富士ニュースを取り出した。これにたまになくなった人の名前が掲載されることがあるので。しかし、それには載っていなかった。

「蘭も鈍いなあ。若い女性だし、そういうところに掲載するのはだいたい大往生の年寄ばかりじゃないか。すぐにさ、その、浅村さんのお宅へ言ってみたら?」

蘭は、急いで封筒の消印を調べてみた。すると消印には富士根と書いてあった。ということは、富士根駅の近くに行けば、なにかわかるかもしれないと思った蘭は、すぐにそこへいってみることにした。富士根駅は、富士市と富士宮市との境の駅で、車では30分以上かかる。蘭は、富士根駅近くの交番に行き、この近くで浅村あかりという女性が住んでいないか尋ねると、浅村家は、精神科である広岡病院の近くにあるということだった。そこまでの道順を教えてもらい、蘭は、浅村という家を訪ねてみることにした。

しかし、浅村という姓はこのあたりでは多いらしく、あかりという女性が居る家はなかなかなかった。とりあえず、交番で教えてもらった浅村という家を全部回ってもあかりという女性が居る家は見つからなかった。とりあえず近くの公園でおむすびを食べながら、

「一体どういうことだろう?何故、あかりさんが見つからないんだろうな。この消印は紛れもなく、富士根駅の近くの、、、。」

蘭は不思議そうな顔でそういうのであるが、

「お前さんも鈍いなあ。もしかしたら、あかりさんは、座敷牢に閉じ込められているのかもしれんぞ。」

と、杉ちゃんが言った。

「つまりいなかったことにしようと言うのか?」

蘭が言うと、

「ああ、そういうことだ。どっかへ旅行にいったとか、そういうことにしておいて、実際は、家の何処かに閉じ込めておくか。病院にぶち込んでおく。それだって十分有り得る話じゃないか。」

と、杉ちゃんは言った。

「そういえば、僕のところに刺青を依頼してきた人が、そういう事を言っていたな。もう独立したことにして、結果として病院に、何十年もいさせられてしまったと。でも、それはもう昔の話だし、今であればそのようなことは無いんじゃないの?」

「いやわからんぞ。精神関係というのは、一歩古い概念がまだ存在しているって、影浦先生が言っていたじゃないか。足が悪くなったとか、そういうことであれば、割と優しくなってるけどさ、精神がおかしくなった人間に対しては、まだまだ進化してないぜ。」

杉ちゃんに言われて、蘭はそうだねと考え直した。

「意外にさ、大金持ちで、そういうことができるやつほど、そうしちゃうもんだろう。精神の人ってのはそうなっちまうのでは無いかな?」

杉ちゃんがそう言うので、蘭はもう一度地図を見た。そして、一つ一つ浅村さんという名字のお宅にいた人を思い出してみた。

「ああ、そういえば、あの浅村さんの奥さんだっけ。うんと厚化粧で隠しているみたいだったけど、疲れたような顔をしていた人がいたな。あれはたまたまではなかったのかな。それならもう一度行ってみようか。」

「そうそう。それは良いよ。」

蘭は杉ちゃんと一緒にそれを語り合うと、急いで、車椅子を方向転換させた。そして、もう一度、浅村さんという家を訪ねてみた。その家は、他の浅村さんに比べると、比較的大きな家で、車椅子でも入りやすいようになっていることから、年寄が居ることを伺わせた。

「あの!すみません。浅村さんですね。あの、そちらに、浅村あかりさんという、着物が大好きな女性はいませんか!」

と蘭は呼び鈴を鳴らしながら、そう言ってみた。

「失礼ですが、お宅様はどちらですか?」

先程応答した中年女性がそう言っている声がした。

「刺青師の伊能蘭と申します。もし、あかりさんが、わかっていらっしゃるのであれば、僕が渡した連絡先が保管されていると思うんですが?」

蘭がそう言うと、しばらく反応は返ってこなかった。

「なるほどこれが、あかりさんがこの家に居るという証拠だな。」

杉ちゃんが思わずつぶやく。

「あの、あかりに何のようでしょうか?」

ガチャンとドアが開いて先程の中年女性が出てきた。

「実は、あかりさんからこんな手紙がうちに届いたのです。これはもしかしたら、あかりさんの本当の気持ちなんじゃないかと思って、もし自殺されるんだったら、何としてでも阻止しなければならないと思って、ここにこさせてもらったわけで。」

蘭はすぐに、カバンの中から先程の手紙を差し出した。女性はあかりさんの書いたと思われる手紙を受け取って読んでみた。

「こんな事、あかりが思うはずありません。だって家の中ではあれほど明るく過ごしているのに。」

「でも、その手紙に書いてあるとおり、お祖父様と喧嘩しているというか、対立しているのではないかと思うのですが?」

蘭は、すぐに言った。

「ええ。父はもう年ですから、仕方ないとあかりには言い聞かせているのですが。あかりはそれで我慢しているようにと言っているのですがね。」

女性はそう言うが、杉ちゃんがすぐに、

「お前さんさ。お前さんにとって、あかりちゃんとおじいちゃんと誰が大事なのか、よく考えてみたことはあるか?あかりちゃんがどんな思いで蘭に手紙を出したのか、ちゃんと考えてみろ。それを考えたら、この家に居るってことがどれだけ有害なのか考えてみてくれよ。それで、まさか、お前さんの事を守るだけで精一杯ってことは無いだろうね。あかりちゃんは、それを一番嫌っていると思うぜ。」

と言ったので、女性は、そうですけど、と小さく言った。

「だからあ、父も必要なのとか、そういうこと言っている場合じゃないんだよ。あかりちゃんは、自殺したいと思ってる。そして、お前さんたちも彼女を座敷牢に閉じ込めておく必要がある。それに、経済力があるから、そういうこともできる。それとも、おじいちゃんの命令?働けないあかりちゃんを外へ出させるなとか言われて、お前さんたちが逆らえないだけ?」

杉ちゃんは、ちょっと苛立った様に言った。もしかしたら、豊かと思われる人ほど、あかりちゃんを大事にしてやることはできないのかもしれなかった。不思議なもので、何でも叶う世の中になってしまうと、あかりちゃんのような人は、その邪魔をしている存在にしか見えなくなるのである。不思議なものだ。人間は。

「なあ、そういう事、真剣に考えてやってくれ。世間の見てくれや、おじいちゃんに対処するより、あかりちゃんの方を見てやることが大事なんだ。それをわかってやってくれ。そうでなければ、こんな手紙出さないよね。」

と杉ちゃんはそういった。蘭も続けて、

「あかりさんはとても素直で優しい方です。僕たちが先日電車に乗っていたとき、着物のことでちょっと注意をしましたが、それにも抵抗することもなく素直に応じてくれました。それに、僕たちが駅でエレベーターを待っていたとき、エレベーターのボタンを押してくれました。僕はそれが本当にありがたかった。押してくれるだけでも、とても嬉しかった。だからちょっとだけでいいです。あかりちゃんの方を見てやってください。彼女がまたエレベーターのボタンを押してくれるように。」

と、静かに言ったのだった。この屋敷の何処かに閉じ込められて居るあかりちゃんに届いてほしいと願いながら。


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増田朋美 @masubuchi4996

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