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渋谷区道玄坂を中心に数百人の私服警察官と、ハイランクのヒーロー十数人が密かに配置された。
人々を避難させる時間すらない。パニックが発生し、統率できない状況になることが最悪のケースだと、警察庁、警視庁上層部の緊急合議によって判断。表立って避難を呼びかけることはしない整理になった。
十分前、ようやく渋谷に到着した。
スクランブル交差点は、あんな悲劇が起きた場所だが、行き交う人々はそんなことは気にもとめていない。横断歩道の先に辿り着き、目的地に向かう。それだけで頭が埋め尽くされているのだろうか。
例の投稿は瞬く間に拡散され、世界でトレンド入りを果たしている。スマイルの復活とともに、彼の妻についても思いを巡らせていてほしかった。
路肩に停め、ひとまず車内で待つ。
スマイルはどこで身を潜めているのだろう。若者のバイオレンスな黄色い声が聞こえる場所だろうか。それを聞いて、殺意を確かめているのだろうか。
スマイルはいつも笑顔を絶やさなかった。だから、スマイルというヒーローネームがついた。
ある言葉を思い出した。毎年、夏になると子供向けのヒーロー特番が二時間枠でテレビ放送される。その中で、瓶底眼鏡をかけた禿頭のコメンテーターが蝶ネクタイをつまみながら言った。
『あの人、ずっと笑ってるでしょ? 僕はあれは呪いだと思うんですよ。だって、人間、喜怒哀楽ありますでしょう? なのに、笑い続けてるんですよ。もう健全じゃない。だから、呪い。誰より強い力をなんて望んだ反動だったりしてね』
コメンテーターはこの発言を原因にして二度とテレビで姿を見ることはなかった。
今思うと、強ち間違いではないのかもしれない。スマイルは何を思い、あんな能力を得たのか。自分の犠牲と引き換えにした強さを望んだとしたら?
もう終わりにしてくれ。これ以上、罪を重ねるな。
思いが手が届かないこそばゆい場所に募る。
「具体的にスマイルは何をするのか言っていましたか?」
「何も。最後の復讐だ、やっと帰ることができる、と繰り返していただけです」
「そうですか」
嘘をついているようには見えなかった。西宮は憑き物が落ちたような、ぼんやりした表情で、シートに身体を預けていた。
焦りが鼓動を早くしている。
サイドガラス越しに、歩道を俯いて過ぎ行く若い女性が目に入る。インナーカラーを入れた髪を時折揺らしながらきょろきょろと見回し、手元のスマートフォンに視線を戻す。恐らく、地図アプリでどこかを目指している。
「予告の続きをSNSで投稿するんじゃないでしょうか?」
急いで、スマートフォンを起動し、アプリを開く。
スマイルのアカウントを見ると、配信中の表示が現れた。十七時四十三分まで、残り五分のタイミングだった。視聴者はもう十万人を超えている。
笑顔の彼が画面に映った。青と橙のせめぎ合った空の色がスマイルの背景にある。どうやら彼は屋上かどこかで、カメラを見下ろす形で配信しているらしい。
『私のいない世界は、どうだった?』
スマイルが復活した。SNSは歓喜に包まれた。西宮の言っていた、絶望の前にある喜びだった。
渋谷の街がざわつき始めている。立ち止まり、皆がスマートフォンに注目していた。似たようなコメントが増え始めた。
『今、どこ?』
スマイルが笑って答える。
『渋谷にいる人は、見上げてごらん。会えるかもしれないよ』
幾つかの点で始まったざわつきが波紋が広がるように大きくなり面になる。街中の人々が無邪気に目を輝かせて空を見上げた。異様な光景だった。
急いで車外に出て、周囲を見回す。
「あっ」
誰かが言った。喧騒の中、それだけ切り取られたように耳が捉える。一様に皆がスクランブル交差点に接するファッションビルを見ていた。その円塔のような部分のてっぺんに人影がある。
『見つかってしまった』スマートフォンから声が聞こえた。『ハイド・アンド・シークなら終わりだが、これは始まりだ』
スマイルがビルから跳躍した。数人の女性が恐怖か歓喜かわからない叫び声を上げた。彼は何事もなかったように着地してみせた。
ブルーのヒーロースーツ。胸には煌々と輝く太陽のマーク。僕らにとって正義の証だった。
不意に、横から白一色の何かが視界に入る。頭から爪先まで、外骨格のような純白の鎧を身に纏った彼女。髑髏剣姫の異名に相応しい姿だった。
――本気で、止めようとしている。
周囲を見ると、道路や建物にヒーローが点々と配置されている。
骨刃警視ほどではないが、精鋭達だ。全員がスマイルに憧れてヒーローになった。憧れの存在を制圧しろという命に困惑が表情に顕れている。
スマイルが腰元のポシェットに手を伸ばしたとき、瞬脚能力のスマッシュ、獣化能力のジョー・ウルフ、翼人化能力のイーグラーが一斉に彼を取り囲んだ。
はずだったが、ヒーロー達はその姿を見失う。スマイルはいつの間にか信号機の上に片膝を立てて腰掛けている。余裕綽々な態度だったが、困惑しているようにも見えた。
どうして先回りしている?
ああ、彼女が白状したのか、と。
何かおかしいと気づいた観衆が、山中で羆に遭遇したときのようにじりじりと後退していく。あまりに近接した恐怖のせいなのか、叫ぶ人はいなかった。西宮に車内に留まるよう言ってから、流れに歯向かうように走った。眼鏡がずれるのも気にしていられない。
髑髏剣姫の姿が、いつの間にか視界から消えていた。
頭上にTubeeがホバリングしている。
「これも配信すんのかよっ」
あのドローンには聞こえない。これが、あのドローンのレンズに覗かれる感覚。刺々しい言葉ばかり浮かんで消える。信号機から見下ろすスマイルは、生き死にの瀬戸際の様をレンズの中に収められてみろ、とでも言っているようだった。
紫色に染髪した少年と肩がぶつかったとき、スマイルの肉声が聞こえた。
「邪魔をしないでくれ」
平坦な声だった。怒りも、懇願も感じられない。
「一つは諦めるか」
一つ、とは、どういう意味だろうか。
交差点には、ほとんどの通行人がいなくなっている。定期的に行われる怪人発生時の避難訓練の賜物だ。
しかし、粛清対象がいなくなったのなら、目的は果たせない、だけでいい。一つ、とつける理由がない。他に何かある。
「久しぶり――」
慣れ親しんだ声が空からしたと思ったとき、スマイルの腰掛けていた信号がずどんとアスファルトに叩きつけられ、芋虫のようにひしゃげてしまった。
気づかぬうちに地面に降りていたスマイルが、ただの鉄柱になった信号機を見上げる。柱の先端には、器用に立つ骨刃警視がいた。純白の鎧が、空の橙に染まっている。
「危ないじゃないか。私じゃなかったら死んでた」
「殺す気でやらないと、私が死ぬ」
日本のトップとツー同士の狭間に流れる、肌がひりつく剣呑な空気。笑えてくるほどに脚が震えた。他のヒーロー達ですら、身動き一つ取れていない。
別格なのだ、この二人は。
「あの子が、全て話したのかい?」
スマイルが訊くと、骨刃警視が鉄柱から降りた。間合いは狭めず、緊張が緩むことはなかった。
「私が推理をぶつけても口を割らなかった。証拠がないんだから、当たり前といえば当たり前だけど。彼女は、心の隅では救いを求めていた。それでも、私の追及に乗らなかった。それは、あなたを裏切りたくなかったからだと思う」
「そうか? 計画は、あの子がほぼ全て考えた。私のことなんて、手駒の一つでしかなかったはずだ」
「一緒に行動していたら、相手に情が湧くものでしょ?」
「そうか。じゃあ、私はもう人間じゃないのかもしれないな。人を殺したときも、卵の殻を割るみたいに淡々とこなすばかりだった。私の心はね、ここで死んだのさ」
笑顔が、自嘲的なものに変わった。
この場所で、彼自身の手で、最愛の人を殺した。
どれだけの罪の意識を抱えることになったのか、わからない。胸に刺さった十字架が、信頼していたはずの人間によって突き刺されたと知ったとき、どんな感情が渦巻いたのか。察しようとすることすら大罪になる。
「西宮から話を持ちかけられたとき、一人で全員殺そうと死なかったのはどうして?」
「それが、本当の名前なのか。そんなことも、私は知らなかった」
「なおさら、不思議。身元も定かじゃない相手の計画に乗るなんて」
「あの子の身に起きた悲劇を打ち明けられてね。作り話ではないことは直感でわかった。だから、ヒーローがしでかしたことに対する贖罪として――いや、違うな。そんな綺麗なものじゃなかった。恨んでいる人間を、その手で殺めたい。その気持ちが痛いほど共感できたから、だと思うよ」
「私は、止めてほしかった。それが、ヒーローの役目でしょ?」
スマイルが抱腹して笑った。
「私はもうヒーローなんかじゃない。彼らを殺したとき、本当に気が晴れた。休日にシーツを洗濯するよりずっとね。
姫崎さんからサマエルについて聞いたとき、雪が美紀の事件に関わっていること直感した。
美紀が一年前に死んだあと、雪は私に何度もアプローチをかけてきた。私の心の隙に入り込んだわけだ。実際、何度か寝たよ。大学時代から私を好いていたことは知っていたが、美紀を殺してまで私と一緒になろうとするなんて思ってもいなかった。
あの日、浴室の磨りガラス越しに確かめた。そしたら、こっちが切り出す前から命乞いが始まった。許すはずがないのに」
「一生わかりたくない。そんな気持ち」
「そうかい? 私が――そこにいる君の相棒を傷つけたら、君も理解できるかな?」
スマイルの悪意が自分に向けられたことにすぐには気づかなかった。気づくより前に、彼の右手が僕の喉を握り締め、僕の身体は地面から浮き上がっていた。
空気が気管に入っていかない苦しさ、鬱血していくじわじわとした気持ち悪さが、脳内でカンカンと警鐘を鳴らした。喉のどこに筋肉があって軟骨があると、妙に客観視している自分もいる。
絞め殺されるより前に、その手が離され、僕は地面に受け身を取ることもできないまま落ちた。
噎せて何度も咳を繰り返す中で、聞き馴染みのある声がした。それだけで安堵した。
「私を怒らせたら満足? そんなことしなくても、最初からあんたのことはぶっ殺すつもり。殺して、止める」
芯のある声だ。もう、揺るがない。
「そんなに怒るなよ。本気で殺そうとしていたら、もう彼は死んでる」
繰り出される冗談半分の殺意に、ぞっとする。
「君に私が殺せるかな? 私と君は同じSランクではあるけど、力量には差がある。そこらにいる有象無象のヒーローが集まったところで邪魔になるだけで、パワーバランスに足し算は成立しない。どうだ、手合わせするかい? 後輩を育てるのも、先輩の役目だから」
「あなたは後輩思いじゃないでしょ」
二人の輪郭が炎のように揺れた。
目で追えないスピードで打撃、刺突、そしてそれを躱し、受け流している。僕ら凡人には、耳に入る音からその様子を想像するしかない。
スクランブル交差点が戦場になっている。乗り捨てられた車のボンネットが大胆に凹み、次の瞬間にはビルのガラスが空から降り注ぐ。
手の届かない場所で互いに剥き出しの殺意をぶつけ合う二人が、五メートルほどの高さで甲高い音を鳴らしたあと、距離をとって地面に着地した。
肩が上下することもなく、戦闘前のようにさえ思える。何という体力、耐力なんだ。
「腕を上げたな。今なら世界ランクでも二位には入る」
「その上から目線が昔から苦手。で、まだやんの?」
「いや、いい。骨刃ちゃんの体力は温存しておかないと」
温存とはどういう意味だろうか。死力を尽くすのは今ではないと言うのか。
「他に訊きたいことは?」
「田山真美からの手紙を置いておいたのはなんで? ミスリードのためなら、遺族リストと脅迫状だけで良かった」
「そうだな……ああ、腹が立ってたんだ。彼女は生きる意味を私への逆恨みに見出した。ぐだぐだ長い言葉で私を罵っても、それに尽きる。私は、気づいてしまったんだ。償う必要なんてないのに、償いを続けていた。彼女が疑われるならいい気味だ」
「だったらなんで、家の近くまで行ったの?」
「さあね。そんなことはもう考えたくない。どうせ忘れる。そういう運命だ。今さら、赦してはもらえない」
そうだ、とスマイルが切り出す。
「君達は私がこれから何をしようとしているのか、どこまでわかってる?」
「この場所で、不特定多数の人間を殺めて、自分の憎しみを思い知らせようとしている。でも、避難は終わった。ここからあなたを出さなければ、食い止められる」
「そうか。しかし、私なら君らの最初の妨害を振り切ってでも、観衆を殺せたとは思わないかい?」
やはり、まだ何かあるんだ。
首を絞められたせいでちかちかする視界と、ぐらぐらする頭が、思考を妨げる。
「ずっと引っ掛かってた。あなたが西宮に言った、帰るという言葉と、復讐が結びつかなかった。最初から、誰かを殺すことを重要視していなかった?」
「流石に察しがいいね」
「……まさか、自殺するつもり? 美紀さんの元に帰るの?」
スマイルは首を振った。
「惜しいな」
歩行者が避難したことで、一つは諦めるしかない、と言った。自殺をするだけなら、目的が果たせなくなることはない。
「美紀のところへ帰りたい。俺はただ、美紀を守るための力がほしい、そのためなら何だってする、と願っただけだ。世界の平和など、本来どうでも良かったんだよ」
「何を言って――」
「さよならだ。この姿じゃ受け入れてもらえないからさ。この世で最も愚かな男への復讐でもある」
スマイルが二つのカプセル剤を口に放るのと、骨刃警視が走り出したのは同時だった。
一つは、亜人を常人に戻すサマエル。
もう一つは、怪人化するサマエルに違いない。
同時に服用したら何が起きるのか。スマイルは地面に膝をつき、頭を抑えながら叫んだ。身体が膨れ上がり、獣のように変貌していく。膨張する肉にスマイルの顔が埋まるときも、彼は笑顔だった。
笑顔でいる、呪い。あの蝶ネクタイの男の言葉を思い出す。
全身に黒い球体が疣のように広がる。黒いのが瞼で、その中にぬめぬめとしたピンク色の組織が隠れていた。
その姿はあの日の美紀に酷似していた。
充血した眼球が一斉に瞬き、涙を流している。
これが、スマイルの本当の感情なのか?
一連の事件で多くの死体が積み上がった。その中には、罪人も、無辜の人もいた。
それでも、スマイルの心は癒せなかった。
何のための、犠牲だったのだろうか。力が入らず、無防備に僕は立ち尽くしていた。ヒーロー達が一斉に攻撃を始めるのを、ぼうっと眺め、派手な映画のようだと思った。
スマイルの涙に血が混じり、涙から火が上がる。耳を劈く咆哮のあと、無数の目からごぼごぼと涙が噴き出した。袖で拭うように、体躯を揺らして涙を弾き飛ばす。焼夷弾のような涙が、空から降る。ヒーロー達は、それを躱すか、落とすかして身体に当たらないように動いた。
僕の脚は、主人を失ったように動いてくれなかった。
ピンク色の涙と、高校の体育で捕れなかった硬球が重なる。あのとき、硬球は僕の額に瘤をつくった。ひと月近く青黒いままだった額は見た人を不快にさせるほど痛々しかった。
死ぬ。死ぬのだ、僕は。
――ああ、こんなことなら警視ともう一回ぐらい――。
目を瞑ったとき、誰かに強く身体を押され、アスファルトに右半身を勢い良く擦った。傍で水でいっぱいのバケツを引っくり返したような音がする。
「うっ」
喉の奥で痛みをぎゅっと押し込めるような声が出た。けれど、僕の声じゃない。もっと、高い声だった。骨刃警視でもない。苦い予感が口に広がった。
彼女が、青く、燃えていた。
「西宮さん!」
手錠がかかったまま、西宮が青の炎に包まれ、焔に合わせるようにゆらゆら地面を踏んでいる。
僕の全身にとめどなく押し寄せる高温。たんぱく質が燃える、独特な臭い。
助けようと手を伸ばすと、音の総てに濁音がついたような声がした。
「ありがとう」
西宮は僕の目の前で、燃え尽きた。彼女の黒黒とした亡骸は祈りを捧げるかのように手足が屈折していた。
灰が僕の頬についた。それを拭うことはしなかった。
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