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「この場所に来たのは、あの日以来です。家は取り壊されているのに、この樹はずっと大きくなり続けてる」
「この樹には思い入れがあるんですか?」
訊くと、彼女はむっとした顔になった。淡いピンク色のワンピースの裾が揺れて、白い脚が露出する。
「早く続きを話してください。私、暇じゃないんです」
彼女が何を思っているのか、まだわからない。推理の催促をする被疑者など出会ったことがない。
わかりました、と警視が迷いなく言う。
「有毒夫妻の別荘があるのは、ここから歩いていける場所。Dといえば、高級住宅街として有名でした。そんな場所で、広大な土地を購入するには一生懸けたとして到底稼げない大金が必要になる。
しかし、今のDの地価は暴落しています。十一年前に一人の怪人が街を燃やしたからです。一度、住宅地で怪人被害があると住民は離れていく。辛い記憶を毎日思い出すことになるから。
有毒夫妻は他の英傑と違い、覚醒時は既に若くなかった。十一年前は国際英雄機関の前身組織があるのみでヒーロー自身が組織に介入することはできなかった。広告出演などによる収入が少なかった彼らにはDに豪邸を建てるほどの財産はなかったはず。そこで、彼らは適当に選んだ人物にサマエルを与えることにした」
「……ええ、そうですよ。あいつらは、新聞の配達員のふりをしていたんです」
姫崎は薄っすらと笑っていた。しかし、その目には猛烈な怒りが宿っていた。
「家の中に人がいると知った二人が私にも注射をしたんです」
「そのときは、怪人化はしなかったんですよね?」
「運が良かったんです。毒婦が『少ない量しか残っていなかったけれど、大丈夫かしら』と言ってました。毒公は、子供だから充分だ、って。そんな理由で私は怪人にはならずに済みました」
「でも、亜人になった?」
「すぐには覚醒しませんでしたが、ウイルスは体内で燻り続けていたんでしょう。翌朝、目が覚めたら亜人になっていた」
他人事のように彼女が言う。
距離を置かないと、とうに心が壊れていたのかもしれない。彼女にとっての自己防衛なのだろう。
「研究データによれば、ウイルスの潜伏期間に、強く思念した事物と覚醒時の環境を反映した能力に目覚めます。通説通りですね。
しかし、擬態能力は今まで見たことがありません。人間本来の欲求とは、かけ離れているからでしょう。ただ、確かにあなたは擬態能力に目覚めた。
有毒夫妻はことを終えると、誰かに見られる前に逃走した。あなたは何をされたのかわからなかったけど、誰かに助けを求めるため、外に出た。それから、隣の家を訪ねると、そこには予想もしていなかった光景が広がっていた。
住人が全員亡くなっていた。違いますか?」
虐待を受けていた姫崎桃香が両親を殺したと考えていた。
リビングで両親を寝かせ、七輪で不完全燃焼を引き起こした、と。しかし、両親が都合良く眠りに落ちる可能性は低い。両親の飲食物に睡眠薬を混入させる必要があったはすだが、姫崎は子供部屋で軟禁されていた。実行は不可能に近い。
だが、七輪は収納棚の中にあった。姫崎家の中に七輪を片付けた人物がいなければいけない。不可能に近くても姫崎を疑う他なかった。
しかし、答えを導くには前提が足りていなかったのだ。
「あなたはリビングで練炭自殺が行われていることを察した。子供ながらにそういう自殺法があることは知っていたんでしょう。逃げてきた先で、全く異なる理由で死んでいる人がいる。混乱したでしょう。そうこうしているうちに、怪人は家を出て行った。火炎の能力で周囲を燃やしながら。あなたは助かったのだと安堵したのも束の間、危機が去っていないことを悟りました。自分が死んでいないことを有毒夫妻が知れば、口封じに今度こそ殺しに来るはずだ、と。焦燥の中、目の前の三人の遺体を見つめ、思いついた。
自分が姫崎桃香になろうと」
西宮は眉根を寄せ、目を瞑っていた。
呼吸に伴って上下する肩の動きが強まっている。
頭で記憶していても、心の奥底に沈殿させていた感情を骨刃警視によって撹拌されたのだろうか。
僕らは――いや、西宮に出会った人は皆全て、姫崎桃香として認識していた。
小柄な体型。可愛らしさのあるデザインの服。わざとらしくない甘い声。
どうしてわかってあげられなかったのだろう。身の程知らずの後悔で胸が痛んだ。
「あなたは心中の証拠となるものを全て片付け、姫崎桃香の遺体を西宮家に移動させた。そして、二軒とも火を放った。遺体が黒焦げになれば、家の住人だと判断すると思ったんでしょう。子供が自分と同じ背丈の遺体を運ぶのは重労働なだけでなく、心に負担のかかるものだったはずです。それでも、あなたはそうするしかなかった」
深々と骨刃警視が頭を下げると、耳にかけられていた髪がつるりと垂れ下がった。
「ヒーローの一人として、私はあなたに謝罪しなければなりません」
世界を守ってきた自負が骨刃警視にはあったはずだ。しかし、全て虚構だった。
知らなかったでは済まされない、と彼女はここに来る途中、繰り返し呟いていた。謝罪をしても、罪が消えることなどないとわかっていても、頭を下げずにはいられなかった。
「謝罪はいりません。私はもう、自分の手でケリをつけましたから」
これは、自白と受け取って良いのだろうか。いや、まだ抽象度の高い言葉で暗に示している程度だ。彼女はずっと自白にならないように発言を調整している。
「十一年前の事件ですから、推理では辿り着けなかったこともあるんじゃないですか? あの日のことなら何でも答えますよ」
急に協力的なことを言う。十一年前に西宮がしたことは緊急避難が適用されると判断したから、か。
「姫崎家に姫崎桃香の写真が一枚もなかったのはなぜですか? 写真が見つからなかったから、入れ替わりが発覚せずに済んだ」
「桃香には生まれつき顔に痣があったんです。あの子の両親は自分の娘を人前に出したくない、って学校にも行かせず、娘の写真を一枚も撮ったことがなかったそうです。最低ですよね。挙げ句の果てに、命まで奪った。狂っています」
「あなたはどうしてそれを? 他人に話すようなことではないでしょう?」
「桃香の部屋の窓、その向かいに私の部屋の窓もあったんです。声を出したらばれて怒られるからって、ノートに文字を書いて、話していました。地方から東京に越してきて、最初で最後の友人でした。
いつかあの家から救い出すよ、って伝えたら、待ってるね、って。その次の日です。彼女がいかれた両親に道連れにされたのは。
そして、私は桃香の死によって守ってもらえていたことになります」
西宮は猫が毛繕いするように目を擦った。
過去と距離を置いてきた彼女でも、桃香に関する記憶からは離れられなかった。
「水中で息を止めているみたいな生活でした。事件のショックで記憶が曖昧だと言って、何とか誤魔化しながら、生きてきました。
あ、私が犯人だというのは、どうやって証明するんでしょうか?」
不思議そうに首を傾げ、西宮が訊いた。
急に試すような視線になる。
「あなたのみ、犯行が可能ができなかったかは証明できません。擬態能力を持つ亜人があなたの他にいないか、調べようがない。
あなたがマンションを出入りしていた姿がカメラに映っていないのは、どこかにある抜け穴を使用して違う部屋に移動し、その部屋の住人として出入りしていたと考えられますが、抜け穴が見つかったとしても、あなたが外出できる状況にあった証明にしかなりません」
「随分、あけすけに言うんですね?」
「全て話して、終わりにしませんか?」
西宮がフェンスから離れ、僕らに向かって土で汚れたスニーカーで歩き出した。一瞬バランスを崩して躓きかけ、ワンピースの裾が空気を捕えて膨む。
西宮は、あの小さな手で二人殺している。
鴉楼にいた無関係の人間を巻き込み、多数の死者を出した。
動機は納得できるが、僕は殺せないだろう。
「終わり、って何です?」
「スマイルが未だに姿を現していない。彼が恨みを持つ人間は全員死んだのに。誰かが傷つくのなら、未然に防ぎたいんです」
「私は何も知りませんよ」
「あなたはずっと私を試してる。記者として私達の前に何度も現れたのは力量を確かめるためでしょう?
それぞれの事件は三層構造になっていた。一層目に明らかにフェイクの真実を。二層目に乾、忍野、道上を犯人とする真実。その先に、あなたがいた。
しかし、あなたは自身の能力に繋がる証拠を残しています。あなたは、無意識に私に真相を明かしてほしい、と救いを求めていたんじゃないでしょうか?」
「自惚れないで!」
音叉を鉄棒に引っ叩いたような叫び声だった。
「私は誰かに助けてもらうほど弱くありません」
「弱いとは思っていません」
「だったら、そんなこと言わないでください。酷い侮辱だから」
いつの間にか西宮の顔が意地悪く歪んでいた。
「あなたは失格です。証拠なしに人のことを犯人呼ばわりするなんて、駄目でしょう?」
答えばかり気にする生徒を窘める教師のように言う。
「何が起きたとしても、指を咥えて見てたらいいじゃないですか」
たった一言で亀裂が全面に走った。
違うアプローチで説得を試みるべきだった。いや、もう今更だ。西宮から情報を引き出せないのなら、考えるしかない。骨刃警視が思いつかないことを、僕が思いつく可能性を諦めてどうするのだ。
スマイルが誰かに危害を与えようとしている可能性は高い。しかし、恨んでいた相手は既にこの世にはいない。他に誰を恨んでいる?
スマイル達が殺害したのは英傑達、乾、忍野、道上、そして組員の男。いや、それだけではない。テロに巻き込まれた鴉楼の人々を、間接的に殺めた。
特定と、不特定の犠牲者。前から、思想が合わない気がしていた。他に何か取り零していることはないだろうか。
スマイルの死亡を予言するSNSの投稿には何の意味があったのだろう。乾が投稿したのではなく、西宮かスマイルがやったのだ。ただ、警戒させるなら国際英雄機関に脅迫状を送りつける方が有効だ。なぜ、SNSで、予言めいた脅迫、をしたのだろうか。
――おい、まさか。
逆流した胃液が口まで上がってきたのを、無理矢理嚥下して胃に戻した。
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