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 これまでに捜査線に上がった者たちの資料を読み込んでいた。もう一度、靴底を擦り減らす苦労はないが、リストを消化していくだけで眼球の奥の筋肉を生贄として捧げた気分だった。


「スマイルの他に犯人がいるなら、それは姫崎だと私は思う」

「しかし、見張っていた刑事によれば姫崎はマンションから出ていないと」

「何かあんのよ、私達が見落としている方法が」


 骨刃警視が一人の容疑者にこれほど固執するのは初めてだった。警視は推理の末に犯行が不可能だとわかれば、見切りをつけて新たなルートを模索する。彼女は今、本能的に推理の欠乏を感じているのだろうか。


「姫崎はサマエルを入手してから英雄新聞社に就職した、と警視は推理しましたよね? では、彼女はどうやって入手したと考えていますか?」

「坂口朋美か、スマイル。いや、スマイルはないな。時系列が合わなくなる」

「坂口さんが勤務していた研究所は滋賀、姫崎の母校阪南大は大阪にありますから、同じ関西ではありますね。偶然出会うには距離が遠いですが」

「坂口さんが英雄機関に引き抜かれる前に知り合った、か。あっ、そういえば――」


 骨刃警視が唐突に机上の固定機を耳に当てた。


「都筑さん、以前、大学生が取材に来たとき、坂口さんが対応していたと言いましたよね? 今から送る画像の人物がその取材者なのか確かめてほしいんです」


 彼女の目配せに従い、都筑から以前教えられていたメールアドレスに姫崎の画像を送る。


「そうですか、わかりました。夜分遅くに失礼しました」


 骨刃警視が受話器を置いた。


「覚えてないって。でも、この線だよ、きっと。二人の関係はその後も続いていた。こうなったら、まだ資料にない情報を狙う」

「それはいったい?」

「姫崎が両親と住んでいた家に今から行く。そして、起点を暴く」


―――――――――――――――――――――


 電灯が道を照らす首都高をクラウンで走る。

 O区Dエリア、姫崎の実家があった場所へ向かっていた。

 ハイビームにしている迷惑な対向車の強烈なライトで目を潰される。滲んだ視界が戻るまで強烈な不安が襲う。泣いたあとのようなぼやけた輪郭を頼りにハンドルを持ち続けていると、徐々に光を取り戻した。自分が死ぬことより、誰かを巻き込むことが不安だった。

 氷妃を殺害後、鴉楼から抜け出すためにNHLFを犯人は誘い入れた。連中はサマエルに無関係な人間を大勢殺した。それは、犯人にとって予期できたはずだ。

 恨んでいる相手に危害を加える、というハードルは心理的に超えやすい。が、無辜の人々を巻き込むのは人として一線を超えたあと、さらに二線目を超える行為だ。

 姫崎は、もう、そちら側にいるのか?

 戦闘に巻き込まれた被害者遺族は他にもいる。姫崎がボーダーラインを超えるのに、その悲劇は充分だったのか?

 換気のために開けていたウィンドウを閉めると、車内には振動音だけが流れていた。

 骨刃警視はすれ違う車のナンバーを目で追っていた。無意識にナンバーの数字を計算して十にしているらしい。一度、頭を捜査以外の情報でリセットできると、以前教えてくれた。僕なら余計頭が混乱するだけだと思う。

 今は十分以上、このまま。いつもよりも長い。心配になって、彼女を引き戻そうと声をかけた。


「テロの最中に、犯人はなぜメッセージを送ってきたんでしょう? 被害を抑えるためですかね?」

「それなら、テロリストの到着前に教えるべき。

 あの情報によって、私達は一直線に現場に向かった。もし、情報がなければ、私達は長時間移動するうちにエレベーターが止まることを危惧して非常階段を使用した可能性がある。そうなると、犯行時に非常ドアを開閉する音を聞かれたり、最悪は目撃されるかもしれない。犯人はそれを避けるためにメッセージを送ってきた」


 氷妃殺害後、忍野を殺害したとするなら、彼の部屋に向かうために必ず非常階段を使用する必要があった。

 そこを目撃されたら一発でアウトだ。先手を打ち、僕らを遠ざけたのなら恐ろしく犯人は冷静だと言えよう。

 到着まではまだ時間がある。


「姫崎はどのように犯行に関与したんでしょうか? 計画というものはどうしても融通が効かなくなりますが、一連の事件は柔軟です。バナナジュースに下剤を仕込んだのも今思えば別荘内から警官を一時的にでも追い出すためでしょう。まるで、犯行時にその場にいたみたいですよ。

 それなのに、ティーパーティーにも、Tubeeの映像にも姫崎は映っていませんでしたし、氷妃の事件当日、鴉楼のパス記録に姫崎のものはありませんでした。有毒夫妻の事件では、出入りしたのは道上以外にはいなかった。この状況で、姫崎が現場にいたとするなら彼女は透明人間です」

「透明化の亜人はいないよね?」


 一部の肉体の組織を透かすことのできる亜人は中国浙江省にいた。

 リュウ雨桐ウートンという名の初老の女性だった。しかし、全身を透明にしようとしたときに酸素欠乏で亡くなった。全ての赤血球を破壊してしまったのが原因とされている。


「形態変化の範囲内ではあるので、系統外亜人ではないですし、赤血球の破壊問題をクリアした亜人が現れることもあると思います。とはいえ、透明になりたいという潜在意識がなければ能力に覚醒しませんから、その時点で透明化能力はかなりのレアケースです。硬質化の亜人は根底に自分を強化したいというベクトルがあるから数もそれなりにいるわけです。透明になることは、人間本来の欲求とは言えません」

「そうね。そもそも、透明化の亜人が実在したとしても誰もいないのに扉が開閉したりしたら怪しまれるか。透明化と透過の二つの能力を持つ亜人だったら可能だけど、透過は系統外の能力で罪に問われないんだから四英傑を殺害し終わった今、自白しない理由もない」

「となると、姫崎は系統外亜人ではないが、かなり特異な能力を持っているということになりますね。能力系統ひとつとっても、バリエーション豊富。当てずっぽうでは、とても」

「そんなの、いつものことじゃない?」


 言われてみれば、その通りだ。

 亜怪対の捜査は常に不公平。正直に自分の能力を打ち明ける犯人はいない。そんな状況で、僕らは犯人を捕らえなければいけなかった。

 彼らは必死なのだ。自分に発現した能力を、人生をかけて犯罪に利用する。


「論理的に紐解いていくしかない。まあ、続きは目的地に着いてから。置き去りにしている謎に、答えはあるはず」


 解けていない謎――。


 頭に叩き込んである捜査資料を捲っていく。しかし、客観的なはずのデータが実際に現場を目にしたときの記憶と絡まり、注目すべき証拠と些末な情報との違いを見いだせなくなっていた。事件の構造さえ明確でないことも影響しているだろう。

 僕には見えないことまで、骨刃警視には見える。

 信頼が根拠のない崇拝になってしまうのではないか。目を背けたくなるような結末がその先に待っていたら……。

 いい加減、不安ばかりの自分が嫌になった僕は、沼に嵌る前に思考を引き摺り出そうとハンドルを握り直した。

 自分にできることを全うするほかないのだ。

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