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 逃亡した道上が見つからないまま夜八時になった。突然の逃亡から三時間以上経っている。逃亡は報じられていないが、マスコミからの突き上げはもう限界に来ていると聞いた。


 ――このまま、見つからなかったら?


 不安を紛らわすように、コンビニで買ったカップ麺に熱湯を注いだ。

 捜索自体は道上が逃亡した警察署とその周辺一帯の警察署の人員が行っているため、今しかないと一時帰宅している捜査員が多かった。デスクに残っていた者も夕飯を胃に収めようと外に出て行き、今は僕と骨刃警視しかいない。

 ふやけた麺を箸で掻き混ぜている間も、事件のことを考えていた。

 鴉楼にある道上の自宅に戻った形跡はなく、所有するいくつかの物件にも滞在していた形跡はなかった。そもそも、逃亡が発覚してすぐに警官を向かわせたから中に入れたはずがない。

 不可解なのは、署外へ逃亡した姿がどのカメラにも映っていないことだ。カメラに映ることなく逃走できるルートはあるにはある。とはいえ、初めて訪れた署で単独でそんなことができるとは思えなかった。逃亡を手助けした人物がいるのでは、と署の人間にまで疑いの目が向けられたが、そちらも不振だ。

 署内のトイレに道上のスマートフォンは手荷物とともに放置されていたが、セキュリティーの厳しい機種だったせいでロックが解除できていない。

 スマートフォンすら持たずに長い時間逃げ回れるはずがない。捜査員達の脳裏に過ぎったのは、道上の自殺だった。

 道上が死ねば、国際英雄機関の密事を知る者はついに消える。

 彼の自宅に手がかりとなるものはなかった。このまま、彼が死体で発見されるようなことになれば、真相は闇に紛れる。

 犯人は突き止めたが、真相はわからぬまま。こんなことは今までなかった。

 一年中整理されることのないデスクで、骨刃警視がプロテインバーを手に持ち、坂口朋美の研究資料を読んでいた。難解な英語で記載されている研究内容を、雑誌でも読んでいるかのようにパラパラとページを進める。大学を首席で卒業した経歴は伊達ではない。

 警視はまだ諦めていなかった。闇に紛れた真相に向けて、論理という光を照らそうと試みているのだ。

 坂口朋美の過去の研究は、やはり動物の感染症に留まっていた。サマエルと結びつけるのは難しい。

 一連の事件の中心にあるのはサマエル。サマエルについて明らかになれば、事件解決の糸口になるだろう。それは、有毒夫妻も認識していたはずだ。

 毒公が自白しなかったのは意外だった。あれだけ窶れていたのは殺害される恐怖に苛まれていたからだろう。それなのに、ついに口にしないまま殺害された。

 彼らが隠し通そうとした――恐らくは、そのために坂口朋美を殺した――事柄は、わかっているだけで二つ。

 一つは、亜人を常人に戻すサマエルという毒。

 もう一つは、常人を亜人化する技術。

 これらの裏にも更に秘密があるのだろう。

 しかし、道上が裏で糸を引く黒幕だったとすると、不可解だ。亜人に関する技術の隠蔽には道上も関与していた。いわば共犯だというのに、それを動機に手の込んだ犯罪を実行するか?

 そもそも、国際英雄機関の抱える秘密を動機と考えるのが見当違いなのだろうか。でなければ、道上も駒の一つ? しかし、人を操るのは簡単ではない。直接自分の手をかけないことはリスキーだ。駒が増えるほど、破綻しやすくなる。

 ここまで考えて、何かが引っかかる感触がした。

 もう一度、順を追って思考をなぞる。


「どうして、亜人化技術についても話そうとしなかったんでしょうか?」


 別荘で毒公に後者について尋ねたとき、彼は心当たりがあるようだった。


「亜人化を自由にできるなら、人類にとって有益な情報とも言えませんか?」

「なるほど。確かに、変。亜人化のメカニズムを知られた先にもっと不味いことがあった?」


 僕と話していたことを忘れたように呟きながら骨刃警視は足先から思考の海に浸かり始めた。すると、彼女が服を着ていたのを思い出したようにはっとして海面から身体を出した。


「この仮説が、事実なら……」

「何に気づいたんですか?」

「ちょっと、時間くれない?」


 骨刃警視は椅子に座ったまま足を投げ出し、いっぱいに背を持たれて、ただ天井を見つめていた。何を言うでもするでもなく、じっと。

 声をかけられるような雰囲気ではなく、僕は一旦窓の側まで寄り、深みを増していく桜田門の夜空を見ることにした。

 五分ほど経ったとき、骨刃警視は姿勢をゆっくり戻すと、ごしごしと顔を手で拭った。鼓舞するように、よし、と頷く。


「ごめんね、もう大丈夫」

「推理しただけでショックを受けるなんて」

「聞けばわかる。これは、私にも深く関わることなんだよ」


 僕は彼女の言葉を汲みかねたまま、頷いて先を促した。


「亜人化技術も、亜人から常人化させるサマエルも、管理さえ厳重にしておけば、自分や他人の命を懸けてまで隠蔽する必要はない。悪用される心配はない、と約束すれば不安を煽ることはないからね。

 となると、隠した理由はそれ自体を隠したかったんじゃなくて、亜人化のメカニズムについて警察の手が入ることで、秘密を暴かれると思ったから。

 坂口さんは、偶然発見した猿の奇形は特定のウイルスに感染したことが原因だと推測した。そして、すぐにヘッドハンティングされた。絶対に繋がってる。

 奇形と亜人。を、結びつけるのは強引だけど、こっちはどう?」


 奇形と、怪人。

 猿の写真と、異形の者達の姿が重なり、ぞっとした。


「同じウイルスが、怪人も、亜人も産み出した?」

「世界じゃ聖なる力と思われてる能力の出処が同じウイルスだったとしたら、前代未聞のスキャンダルになる。坂口さんの研究が進むと、ゆくゆくは亜人や怪人との関連性が判明する可能性がある。ヘッドハンティングをして国際英雄機関で囲い込むことで流出を防いだ」

「じゃあ、サマエルを開発したのは坂口さんじゃないんですか?」

「それは、わからない。サマエルは国際英雄機関にとって不都合なものだったから、進んで研究したとは思えない」

「しかし、坂口さんが研究した意図もわかりません」

「亜人と怪人がウイルス感染によるものなら、怪人化した人を治せると思ったんじゃない? その過程で産まれたのが亜人を常人に戻すサマエルだった」


 偶然の産物というのは嘘ではなかったのか。


「では、どうして国際英雄機関は坂口さんの研究を阻んだんでしょう? 怪人を治せるなら――そうか」

「ヒーローは、怪人がいないと成り立たない。倫理的に正しかった坂口さんの研究は、邪魔でしかなかった。

 そして、坂口さんが反発した理由はもう一つある。亜人化だけでなく、怪人化も可能だとしたら? 四英傑は二つの大罪を犯していたことになる」


 全体が見通せないほどの大罪。

 あまり大きさにその場で蹲りそうになった。

 骨刃警視が動揺した理由もわかった。

 彼女がが殺した怪人の中に、人為的に怪人化された者がいたのなら、ヒーローによる正義の執行ではなく、ヴィランキラーによる殺戮でしかない。この世で最も残忍な人殺しだ。

 指先の震えが止まらず、拳を握って誤魔化した。

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