5
「二人の死んだ順番が重要なの」
毒婦の遺体があったソファーとローテーブルの間に骨刃警視は立っていた。僕は鬼塚らとともに彼女から何となく二、三メートルぐらいの距離をあけて、骨刃警視が述べる推理を注意深く聞いていた。
「ここ、滴の周縁が一部、欠けてる。誰かが擦ってしまった。これぐらいは気づいたでしょ」
「当たり前だ。そして、毒公の履いていたスリッパに青い液体が付着しているのも確認済みだ。毒婦を毒公が殺めたときに、うっかり踏んでしまったんだ。何がおかしい」
不機嫌そうに咳をしながら鬼塚が訊く。
骨刃警視について回っていた僕には彼女の言わんとすることがわかりかけていた。確かに、不可解だ。そして、その不可解の先に解決の糸口があるのだろう。
「ここで、もう一つのスリッパを提示する。このラックにあったスリッパの底は一部溶けている。言われなければ気づかないほど僅かに」
「それが何だ?」
「溶けた原因は酸によるもの。そして、ルミノール反応が同じ部分から出た。このことから、導き出されることは? はい、ミツロウ」
「やはり、僕らが来訪したときに一悶着あったとき、毒公の能力によって産み出された酸を踏んでしまったんだと思います」
「酸を踏めたのは誰? 毒公と、強いて言うなら僕と骨刃警視ですが、僕らはスリッパを履いていませんから、毒公で間違いありません」
「どうして、そうなるんだ? 毒婦が踏んだ可能性を排除するな。彼女の遺体はスリッパを履いていなかった。履いていたスリッパを何らかの理由でラックに戻した可能性がある」
「いや、鬼塚さん、それはあり得ません。毒公は僕らがいたときに能力を解除した。そして、解除したあとに毒婦が二階から降りてきたんです。毒婦が酸であった滴を踏んだとしても、それはもう鬼塚の体液でしかなかった。強酸の性質は失っていたはずです」
「そう、その通り。だとすると、おかしい」
鬼塚も気づいたらしく、目を丸くしている。
縣が律儀に挙手をして、話し始めた。
「第三者によってスリッパが入れ替えられたと言うんですね? しかし、時間の制約があることは変わらない」
「時間の制約は、道上が屋敷に入ってから毒婦、毒公もしくは毒公、毒婦の順番で連続して殺した場合にのみ、発生する」
「連続して、ですか?」
「そう。連続していなければ所要時間は半分以下で済む」
「骨刃警視は、毒婦が道上の共犯だったと考えているんですね?」
僕が言うと、骨刃警視は頭を掻くのを止め、満足そうに頷いた。
「毒婦が共犯なら、道上を呼び出すことは事前に計画されたこと。道上の到着前に毒婦が毒公を殺害していたのなら、道上が殺害するのは毒婦だけでいい」
「道上が屋敷から出てきたときに聞こえた毒婦の声についても、毒婦に道上の考えた台詞を言わせて録音しておけばいいわけですね?」
共犯だと仮定した途端に事件が至極単純なものに見えてきた。
毒婦の死体の状況からして毒婦が加害者である可能性を無意識に排除してしまっていたが、骨刃警視は違った。だからこそ、スピーカーの機能について僕に訊いたのだ。
「そして、ここで、スリッパの入れ替えが効く。道上は毒婦を殺したとき、自分のスリッパに洗剤がついてしまったことに気づいた。しかし、拭き取ると、滴の形が崩れた説明がつかなくなる。そこで、毒公の履いていたスリッパと交換することで、毒婦を殺したあとに毒公が自死したというストーリーを補強しようとした」
黙っていた鬼塚が口を開いた。
「なぜ毒婦は共犯に応じた?」
「実は、毒婦はこの別荘の庭師と不倫をしていたそうです。発覚する前に殺してしまえば、遺産を相続できるとでも唆されたのかもしれません」
「そうか……決まりだな。逮捕状を請求する」
鬼塚はリビングから出て行き、縣もそれに続いた。
気迫のない鬼塚の様子に、味気なさに近いものを感じた。そのせいか、達成感はなかった。しかし、事件は終わった。
「これで、本当に終わりですね」
「本当にそう?」
崩れた髪型を直すこともなく、自分を戒めるかのように不穏な言葉を骨刃警視は呟いた。
今回の事件は辛うじて解決した。しかし、手遅れだった。
警察への風当たりは生半可なものではない。サマエルの存在を秘匿するために事件についての虚偽情報を公表した影響で矛盾を指摘する国民の声が既に上がっており、警察組織への不信感が増長している。そんな最中に、有毒夫妻まで殺されたのだから、暴動が起きてもおかしくはない。
警察官になったのはひとえに亜怪対に所属して秩序を守る一助になるためだ。警察が腐敗している様を間近で見せつけられた今、現場を離れることになれば退職も選択肢に入るだろう。
唯一気がかりなのは骨刃警視の支えになる人が現れるかどうかだ。
――慢心から来る杞憂だ。自分よりも優秀な人間が警察庁には数多くいる。
物思いに耽っていたとき、床が微かに揺れた。横揺れではなく、突き上げられたような感覚だった。
「地震、ですね。震度二ぐらいでしょうか」
「いや、何か違う。もしかして――真下?」
骨刃警視は眉間に皺を寄せながら床に耳をつけ、
「何か、いる」
呟くと、地下に入る方法を探し始めた。制服警官、鑑識官達にも声を掛け、総動員で屋敷中を捜索した結果、キッチンの床下収納に何も入っていないとわかった。
別荘とはいえ、毒婦はこの場所で暮らしていたはずなのだ。念入りに探ると底面に取っ手のような凹みがあり、持ち上げると、簡単に底が外れた。底の下には、地下へと続く階段が隠されていた。三メートルほどの深さの階段の先は暗く、地面があることくらいしかわからない。地下から漂う湿った空気が薄気味悪かった。
「さっきの振動の正体は、この地下室にいる〝何か〟のせいでしょうか?」
「間違いない。耳を当てたとき、ホウコウが聞こえた」
「ホウコウ?」
「叫びの咆哮。たぶん怪人の。有毒夫妻は地下で怪人を飼ってたらしい」
怪人を、飼っていた。
そして、地下に今もそいつは、いる。
大の大人達が慌てふためき、叫びながらあるいは吐き気をこらえるように口を手で覆いながら屋敷から飛び出していった。
「ミツロウは逃げなくていいの?」
「一緒に行きますよ。相棒じゃないですか」
「好きにして。怪人の戦闘力によっては、迷わず逃げんのよ」
恐怖心がないと言えば嘘になる。しかし、捜査中、相棒を一人にしてはならない。それは規範であり、何よりも心に決めたことだった。
縦に列をなし、簡素で頼りない溶接したパイプに板を乗せただけの階段を下ってゆく。
地面に到達して、スマートフォンのライトで先を照らすと、数メートルある直線的な通路の突き当りに頑丈そうな金属製の両開きの扉があった。中央には太い閂があり、閂の通っている穴には錠までついていた。
有毒夫妻が懐中電灯を片手に地下に出入りしていたとは思えない。周囲を照らしてみると、壁にスイッチがあった。押すと、天井の蛍光灯が一斉についた。地下通路は床から天井までコンクリートが剥き出しになっていて、暮らすことは前提としていない場所だとはっきりわかる。
扉に向かい歩を進めると、コンクリートに足音が幾重にも反響した。その中に紛れるように異質で小さな声が混ざっていた。人間の喉から生み出される類のものではないのに、生き物の温かさがある気色の悪いものだった。
「これ持って、下がってて。雰囲気からして、戦闘力は低いと思う」
骨刃警視は雪白刀を二振り生成して、一振りを僕に手渡した。
想像よりも軽く、少し温かかった。骨を触るというのは肌に触れるよりも密だった。
扉から二、三メートル離れ、中段に刀を構える。腕に力は込めず、地面から脚に伝わるエネルギーを全身に流す感覚。骨刃警視から教わったことを脳内で反復する。
上段に構えた骨刃警視がいつの間にか下段に構えたかと思うと、車輪が線路に擦れたときのような音が響いた。分厚い金属製の扉が通路とは反対側に倒れていく。斬ったのだ、あれを。
扉の向こうにあったのは、糞尿まみれの部屋。通路と同じくコンクリート打ちっぱなし。
その隅で大型犬ほどの、蛙と飛蝗を合成したような姿の怪人がこちらの鼓膜が破れそうになるほど叫んでいた。潤んだ黒一色の眼球が僕らを捉えると叫声はいっそう大きくなり、立方体の室内をスーパーボールのように跳び回りながら扉のあった位置めがけて突進した。骨刃警視は怪人を縦に真っ二つに斬ったが、勢いそのまま怪人の左半分が僕に向かってくる。
怪人の体液にもろに触れたらどうなるかわかったもんじゃない。迫る死骸に向かって、半ばヤケクソになり目を瞑って刀を振り下ろした。手応えを感じ振り向くと、死骸の断片から血がコンクリートに垂れていた。
禍々しいそれに感じたのは、一握りの憐憫だった。
「悪くない太刀筋だった」
「助かりました」
血の付いた刀を返すと、骨刃警視は二振りの刀を砕くことなく瞬時に形態変化によって粉末に変えた。
アドレナリンが収まってくると、部屋の放つ悪臭をもろに感じた。八畳ある部屋の、床や壁に糞尿が撒き散らされている。ペット用トイレらしきトレーがひっくり返り、防臭のための砂利が散乱している。
履いている革靴には足跡がつかないようビニールのカバーが被せてある。えい、と二人して飼育室の中に入った。
右手の壁の上隅にはかたかたと換気扇が回っている。屋敷周辺で悪臭を嗅いだ覚えはないから、やはりトレーがひっくり返されたのはこの怪人が暴れ始めたときだ。
糞は湿ったものから乾いたものまであり、怪人は長期間ここに拘束されたのだとわかる。毒婦はここで怪人を閉じ込め、何をしていたのだろうか。自分の能力を試すためだとすると、怪人の身体に毒をかけられたりした形跡がないのが気になる。犬猫のような感覚で飼育しているようなことはないと思うのだけれど。
左隅には壁から腕ぐらい太い鎖が四本垂れ下がり、床にとぐろを巻いていた。鎖の片端は壁にボルトで固定され、もう片方の先端には分厚い革のベルトがついていた。ベルトに空いた七つの円型の穴のうち端から二つ目と五つ目の穴が楕円に変形していた。それは四本とも同じだった。この拘束具によって怪人が繋がれていたのだろう。先ほどの怪人は拘束されていなかったから、暴れたときに限って繋ぐことにしていたのかもしれない。
骨刃警視がベルトを一つ手に取り、目を細めて観察すると怪人の表皮がついてない、と呟いた。
たまたま掃除をしたのかもしれないが、夫妻が死んだ今、確認のしようがない。しかし、頑丈な夫妻の死因には関与していないことは、飼育室が完全に施錠されたいたことから明らかだ。つまり、抜け出した怪人が実は犯人だったという可能性は一つもない、ということ。
いい加減鼻が曲がりそうになってきた頃、骨刃警視も気が済んだようだった。飼育室を出る前に靴のカバーを外し、玄関に向かった。
僕らが玄関ポーチに出ると、門扉の外で団子になっていた警察関係者達が歓喜の声を上げた。生還を祝ったのではなく、仕留め損なった怪人に襲われることはないらしいという安堵だろう。
「そちらへ、行っても、よろしいですか?」
一人が応援団のように言葉を切りながら訊いてきたので頷いてやると、門扉を抜けてぞろぞろと戻ってきた。
僕らに話しかけようとした警官が、僕らの身体に染み付いた糞尿の臭いに気づき顔を顰めた。
「地下に行ってみてください。同じ目に遭いますから」
はあ、と怪訝そうに首を傾げてから、
「そんなことより、大変なんです。犯人が逃げたと」
見てみると、スマートフォンに縣から数分前のメッセージの通知が続々と届いている。地下にいたせいで電波が届かなかったのだろう。
『道上が署内のトイレから逃亡。現在検問の設営中』
警察はまたも失態を重ねた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます