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 全身に蚯蚓腫れができるような後悔を引きずりながら有毒夫妻の別荘に到着した。

 玄関から屋敷内に入り、警護に当たっていた制服警官や身を屈めた鑑識官達の間を縫うように移動する。毒婦の遺体がリビング、毒公の遺体が二階の書斎にあると刑事から耳打ちされた。まだ解剖に回していないのは極力この目で遺体を見たいという骨刃警視の意向だった。

 リビングに入ると、微かに刺激臭がした。ソファーの前の、ローテーブル上に仰向けになった毒婦の全裸死体があった。身体中に青色の薬品をかけられているせいで、その部分の表皮が溶け落ち、手首や足首は薄っすらと骨が透けるまでに。テーブルから投げ出された足先から、数センチの間隔で一メートルほどに渡って床に青色の液体が垂れていた。床の滴は身体にかけられた薬品と同じらしい。丸い滴のうちの一つ、その周縁が欠けていた。


「良くも、こんな惨いことを……いったい、何をかけた?」


 呟くと、鑑識官が一人近づいてきて、ビニールのジップつきパウチに入れられた筒状の容器を掲げた。


「排水口掃除用の洗剤です。テーブルに空の容器が置いてありました。タンパク質を溶かすことができますから、人に使えばこうなるわけです。我々が到着したときには化学反応は終わっていましたから使用から一時間以上は経過していたと思います」

「溶け方の差は何? かけられた量の問題?」

「だと思われます」

「お前ら、それは些末な問題だ」


 聞き耳を立てていたらしい鬼塚が、黒革の手帳を振りかざしながら言った。後ろには縣が控えている。僕らよりも先に臨場していたらしい。


「検視官によれば死因は窒息死。頸部に圧迫痕はなかった。表皮の化学熱傷に生活反応はなく、毒婦の死因とは関係ない。燃焼、冷凍に続いて毒と関係づけたかっただけだろう。それだけでなく、犯人も歴然としている。書斎には褐色の液体の入った小瓶と事件の顛末が記された毒公の遺書があった。毒公はそれらを残し、毒を注射して自殺をした」

「毒……自分の死に様まで能力に見立てたというんですか?」

「そうなるな。射った毒は解剖を待たなければ分からないが、恐らくはニコチンやらタールだ。書斎の抽斗には巻き煙草が詰まっていたし、彼の嗜好品だったんだろう。それらを水に浸けておけば、有害物質が滲み出していく。このぐらいの知識はネットにいくらでも転がっているから、毒公にも作製が可能だ。そして、キッチンの塵箱に湿った葉巻があった」


 淀みない語り口だったが、表情は暗い。

 けれど、毒公から事情を訊いていたとき、彼は怯え憔悴していた。その姿は狩る側ではなく、狩られる側だった。


「遺書には何が書いてあったんですか?」


 訊くと、縣が答えた。


「乾、忍野を脅し、犯行後に死ねば二人の家族には大金を払うと約束していた。計画は上手く行っていたが、罪の呵責に堪えられなくなったため、妻を道連れにして死ぬことにした。すべて紙にプリントされていました」

「動機や、脅迫の内容について言及はなかったんですか?」

「ただ、それだけです。しかし、それで十分です。犯行が可能だったのは毒公のほかにはたったの一人もいないのですから」

「この屋敷に足を踏み入れた人物はいなかったんですね?」

「いえ、そういうわけではありません。十五時に道上がこの別荘に訪れています」


 縣が淡々と言ったので、聞き流しそうになった。


「では、道上が犯人なのでは?」

「それは、あり得ません」

「どういうことです?」

「物理的に不可能なんですよ。

 道上が有毒夫妻から連絡を受け、午後三時に屋敷を訪れ、十分間という毒婦の提示した条件で滞在していた。午後二時半から午後三時半という死亡推定時刻内ですが、これだけの作業をこなすことは不可能です。ニコチン水溶液を作り、二人を殺す。十分やそこらでできることではありません。それに、毒公の書斎に入り、葉巻を使って水溶液を作る。そんなことをしていたら、住人が怪しむでしょう」

「事前にニコチン水溶液を用意していたら、どうでしょう?」

「それもありえませんね。屋敷に入る前に徹底的に所持品検査を実施されています。怪しいものは何もなかった、と。また、十分という時間を指定したのは警官で彼にとっては予想できないことでしたし、呼び出されたというのが虚偽ではないことはメッセージアプリの画面から確認していますから、道上にとっては二つの予測できない事象に対応しなければいけなかったのです」


 縣捜査員による事実の列挙を、鬼塚が太鼓腹の上で腕組みしながら頷いている。


「道上が屋敷を出た時点で、安否を確認したんですか?」

「道上が玄関から出てきたとき、毒婦の声が聞こえたそうだ。道上さん、鍵はあとで閉めに行くから、とな。道上が事前に録音するのは難しいだろ? つまり、それまでは生きていた。おい、何とか言え、骨刃」


 骨刃警視を見ると、一人で部屋中を歩き回っていた。かと思えば、入口脇のキャビネット上にある二リットルペットボトルよりも一回りほど大きな円筒状のスピーカーを、未知の機器を目の当たりにしたかのように不器用に確認した。家庭用のスピーカーの中ではハイエンドのようだし、室内全体に安定して音楽を響かすことができるだろう。


「話は聞いてる」振り返らずに言うと、骨刃警視が僕を手招きした。「これ、スピーカーの電源はオンになってる?」


 近づき型番を確認し、インターネットで取扱説明書をダウンロードする。円筒の上部を一周するLEDのラインが青色であれば電源は入っているとのことだった。


「オンになっていますね」

「今は無線でも音を流すことができると記憶してるんだけど」

「はい。デバイスをペアリングしておけば、約十メートルの範囲ならデバイスから音声を流すことが可能です。このスピーカーも対応端末ですね」

「とにかく、可能ってことね」


 なぜスピーカーにこだわるのだろうか。毒婦の台詞は事前に録音できたとは思えない。スピーカーについて検討しても意味がないはずだ。

 骨刃警視はくるりと身を翻して玄関に戻り、空になったスリッパのラックを見るなり、足跡採取に勤しんでいた若い女性の鑑識官に訊いた。


「スリッパはどこに?」

「ラックにあったものは全て保管してます」

「その中に毒婦に掛けられていた薬品がついていたものは?」

「一見した限りではありませんでした。詳しくは鑑定結果をお待ち下さい。あ、そういえば、一つ底が僅かに溶けたものがありました」

「見せてください」


 はい、と短く頷いて鑑識官がプラスチックの収納ケースから、スリッパを取って戻ってくる。鑑識官は恭しく頭を下げると、足跡採取に戻った。

 見ると、底の踵側の縁、黒色の塗装が剥げてクッション材が見えている部分があった。酸で溶けたように見えた。


「あのとき、毒公が能力を発動して生み出した酸を気づかずに踏んでしまったんでしょう」


 骨刃警視は明確な反応を返すことなく、階段に向かった。階段下から鬼塚が呼ぶ声がしたが、それを無視して二階に上がり、ドアの開けられた部屋に入った。毒公が死んだ書斎だった。

 毒公は書斎のキャニスター付きの椅子に、踏ん反り返るような姿勢で事切れていた。収縮と弛緩が混ざり合った苦しそうな表情が痛々しかった。

 机には小瓶と注射器。話にあった通りだ。

 顎の下の首筋に血で滲み、乾いた注射痕がある。

 骨刃警視は遺体の状況をさっと見ただけで、あとは毒公が履いているスリッパを確認していた。

 どすどすと足音を立てて鬼塚が書斎まで上がってくる。縣も鬼塚についてきていた。


「何を調べてる? 心中で幕引きだろう」

「道上は今どこ?」


 遺体から脱がせたスリッパを見つめたまま、骨刃警視が言った。


「まだ最寄りの警察署で事情を聞いているはずだ。それがどうした?」

「そのまま、逃さないように言っておいて。道上が犯人だから」


 スリッパの爪先を鬼塚に差し向けて、骨刃警視は言い放った。

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