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庭師は二十九歳、
一年前に庭の手入れのため、この別荘を訪れたところ、毒婦に声を掛けられた。それからずるずると毎日のように爛れた肉体関係を続けていた、と矢端は白状した。
矢端は情けなく目に涙を浮かべながら、鍛え上げれた上腕を重ねて懇願した。
「旦那さんには言わないでください。殺されます」
毒公には毒婦に対しての未練があるように思えた。不倫していたと知れたら、確かに殺されかねない。功績のある毒公といえど、殺人は裁かれることになるが、憔悴している彼が自制できるとは僕にも思えなかった。
「民事に口を挟むのは警察の役目ではないですから。ただ危ない橋を渡るのはこれきりにしたほうが」
「それは、大丈夫、です。美里さんとは旦那さんと同居を始めたぐらいから連絡しても返信来ないんで。切られたんだな、って」
矢端の話を聞いていると、矢端は案外毒婦に本気で惚れていたらしい。二回り近く年齢が離れている相手を本気にさせるとは毒婦の魔性に恐怖すら感じる。
「ちなみにその怪我は?」
「あぁ、これは、何日か前に頭ぶん殴られて、持ってたバッグ持っていかれたんすよ。近くにカメラなくて、被害届は出したけど泣き寝入りするしかなさそうで。いや、ほんともう、ついてないっすよ。あんた達に不倫もバレるし」
「それは自業自得でしょ。ねぇ、あんたクスリはやってないでしょうね?」
「は? クスリ? やってないっすよ。グレてたときもシャブとかハッパには手ぇ出してないっす」
矢端は嘘をついているようには見えなかった。薬物使用を疑われたことを心底意外に思っているようなのだ。
骨刃警視はいきなり矢端の手首を掴むと、彼の肘の内側から手首に伸びたペイズリータトゥーを指さした。注視すると、タトゥーに斑点のようなものが一つあった。
「これ、注射痕。針の跡からして、素人がやった。本当に、やってないの?」
手首を掴んだまま訊く。脈を読んでいた。矢端のように感情を隠すのが苦手なタイプには有効な方法だ。
「本当、ですよ」
ガタイのいい矢端が重量級の王者を相手にしているような畏れを露わにしていた。骨刃警視が何者か知らないはずだが、彼の本能が歯向かうなと強く要請しているのだろうか。
「嘘は……ついてないね。じゃあ、この注射痕はいつ?」
「心当たりないんすよ。今言われて気づいたんで」
「そう。じゃ、仕事に戻っていい。痛い目に遭いたくなかったら庭師に集中すんのね」
矢端は勢い良く返事すると、脚立を抱えて僕らの視界外まで駆けていった。
「あの注射痕、強盗に遭ったときについたんじゃない? 身に覚えがないなら意識を失っているときに注射針を刺されたと考えるのがシンプルでしょ」
「強盗犯が被害者に注射するというのは、想像し難いですが」
「たぶん、逆だな。強盗はダミーで、はじめから目的は注射だったとしたら」
「でも、おかしいですよね。何か危険なものを射たれたとしたら体調に変化があるはずじゃないですか?」
「射ったんじゃなくて、血を抜いたとしたらどう? 貧血気味でも頭から出血してるんだからそのせいだと思い込む」
「どうして血を抜くんです? リスクを犯してまで」
「さあね。ただ、この事件と無関係だとは思えない。毒婦の不倫相手が襲われ、血が奪われた」
血が抜かれた。奪われた。盗まれた。
脳内で、離れた記憶と結びつく。
「六月のはじめ、健康診断のために採取された血液が国際英雄機関ビル内で一部紛失したことがありましたよね? 機関職員だけでなく亜人の血液まで紛失したことがわかり、問題になりました。未だに見つかっていませんし、これも盗まれたのだとしたらどうでしょう?」
「偶然とは思えないけど、目的がわからない。亜人の血液を奪っても、能力を使用することはできない。矢端はそもそも亜人じゃない。ああ、全然わかんない」
時間が無情に流れていく。
有毒夫妻が屋敷で死んでいると連絡があったのは、デスクに帰り着いて捜査データをまとめていた十六時五分だった。
四英傑はこの世に一人もいなくなった。
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