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七月十七日、有毒夫妻が身を寄せている別荘に向かった。
壊滅的な怪人被害を受けたDという高級住宅地、その見晴らしのいい高台に別荘はあった。高台からは遠くに都心のビル群が見え、夜には光り輝いたビルが星空と共演する光景が見られるはずだ。
広大な敷地の中央に、バロック様式でL字型の屋敷があった。Lの短い直線部分の先端に玄関がある構造で、門扉から玄関ポーチまでの、兎や犬の形に刈り入れされた植木の間にあるアプローチが特徴的だった。植木だけでなく、芝生や色彩豊かな花々が敷地内を彩っている。まるで、箱庭だ。
門扉の外側から骨刃警視が手を挙げると、警戒にあたっている十四名の警官のうちの一人が駆け寄り、閂を外した。
ブザーを鳴らそうとしたとき、誰かに見られている気がして植木の方を向くと、頭に包帯を巻きネットを被った若い庭師がこちらを見ていた。目が合うと、すぐに剪定に戻った。あとで、声を掛けてみるかと考えつつ、インターホンを鳴らす。
毒公がドアを開けた。不動産王のような恰幅良い男は、不健康そうな血色になっていた。ブランド物の白シャツが皺だらけになっている。アイロンをかける余裕すらなかったらしい。
「お前らか……真犯人とやらはまだ捕まらないのか? これ以上こんな生活を続けるのは限界だ」
「鋭意捜査中です」
「その言葉はもう聞き飽きた。それに、真犯人がいるというのは幻想なんじゃないのか? 忍野が氷妃を殺した。スマイルを嵌めた乾も自殺したんだろ? これで終わりだ」
「次の犯行のために警戒が緩くなることを期待した偽装工作だとしたら?」
「次、が俺達夫婦だと?」僕らに睨みを効かせて言った。「とりあえず中に入れ」
毒公は無言でカーテンが締め切られたリビングにある、公務員には手を出せないようなソファーに深く沈んだ。天板がガラスになっているローテーブルには、潰されたビールの空き缶がいくつか転がり、口から黄金色の残液が溢れていた。
――相当、堪えているな。
毒公がぶっきらぼうに、何を訊きに来た、と訊く。
「四英傑が立て続けに殺されている理由に心当たりはありませんか?」
「何度も、ないと言っている。理由があるとしたら、逆恨みぐらいだ。正義をなす過程で幾人かが命を落としたとしても仕方がないことだ。しかし、馬鹿どもには理解ができない。最高裁も緊急避難が適用されると断言した。怒りの矛先は怪人に向けるべきだ」
ソファーの座面を殴りつける姿は、メディアが映してきた毒公とは別人だった。
しかし、犠牲者遺族の中に国際英雄機関と密接に関係している人物は姫崎を除いて一人もいない。姫崎については、事件時にはマンションから一歩も出ていないと防犯カメラが証明している。
「なら、NHLFが甘言や脅迫で乾や忍野を操ったか、だろ」
「NHLFにしては犯行手法が複雑です。四英傑を狙うなら、奴らはこの前のテロのように単純な破壊行為に及ぶはずです」
「否定ばかりだな」
「あんた達が何か隠してるせいでしょ」
毒公に骨刃警視が厳しい視線を投げた。
「忍野は人為的に亜人化する技術を持ってたんじゃないの?」
「そんなものは知らん」
「そっちは知らないことばっかり? 国際英雄機関が隠し通そうとしている汚点はこの連続事件と無関係じゃないはず。忍野研究室で見つかった血痕と、前の職場に残っていた坂口朋美のブラシに絡まってた毛髪のDNA型が一致した。どうして、彼女を殺したの?」
「それも、忍野がやったんだろう。俺は研究員殺しに関与していない。俺をクズと言うなら、お前の慕っていた――」
ゲップをしたあと、毒公は虚空を見た。
「もし、氷妃が取り返しのつかないことをしたのなら、それも……しっかり暴く」
「大した正義、いや偽善だな。お前がもたらすのは平和なんかじゃない。秩序を失った世界だ」
毒公は骨刃警視の覚悟を嘲笑し、貶した。肉のついた指で骨刃警視を指すのも、その豚のような面も汚らわしい。こんな奴に憧れてた自分にも腹が立つ。
「お前に決められることじゃないだろ、三流が」
口を押さえたときにはもう遅かった。
「誰がものを言ってんのか、わかってんのか?」
怒りに震えた毒公は右手に強酸を溜め、僕に向かってそれを飛ば――そうとしたところで、骨刃警視が毒公の首筋に刀を当てて静止した。
「今なら正当防衛が成立するんだけど、殺していい? 悪口一つで人を殺そうとするなんて、憔悴してるだけじゃあり得ない。あんた、どこかで人殺しのハードル下げたんだ。坂口さんの事件に関わってないなら、誰を殺したの?」
「いい加減、刀を下ろせ」
「酸を中性化するのが先」
二人の間には真っ赤な殺気がぶつかり、凍える時間が流れていた。毒公の指の隙間から数滴の酸が溢れ、酸の落ちたフローリングの箇所がじわじわと黒く溶けていく。
天井から気の抜けるような足音が聞こえたあと、黒のキャミソール姿の毒婦が二階から降りてきた。その下にランジェリーは着けているが、目に毒だった。骨の形が見えるような細い身体が痛々しい。
「おい美里、人がいるんだ。まともな格好をしろ」
毒公が言うと、寝ぼけ眼の毒婦はやっと僕らと自分の格好を結びつけたようで急いで二階に戻った。
「仲がよろしいんですね」
毒婦の登場に霧散した緊迫感につまらないことを口走ってしまった。
「馬鹿言え。あいつとはもう――」
言うと、毒公は自分の性生活を暴露しかけたことに気づいて口を噤んだ。掌に滲んだ酸はただの血液に戻り、骨刃警視も刀を封じた。
「毒婦とどうしてまた一緒に暮らし始めたの?」
「美里から連絡があった。こんなときだし二人でいよう、と。別荘を選んだのもあいつだ。俺はここの勝手も良くわからないし、セキュリティも良くないから拒否したが、折れなくてな。急遽、業者を入れて家屋周りにカメラをつけてやったんだ。狙われているかもしれないっていう意識があいつは低いんだ。護衛もつけずにふらっと長時間出掛けて、夜になると帰ってくる。鴉楼が襲われた日もなかなか帰ってこないから巻き込まれたんじゃないかとはらはらしていた」
毒婦が声をかけて、それに毒公が応じた。夫婦関係が限界に来ていたのは毒婦が毒公を避けていたからなのか。
僕らは毒婦にも事情を訊いたが、高飛車な態度を崩さず警察の不手際を責めるばかりで、有益な情報は得られなかった。
夫妻に罵られ、僕らはいったい何をしに来たのか。鬼塚らに任せた道上の方がきつめに脅せば何か吐いた可能性があった。そんな方法で得た証言には証拠能力はないが。
――焦っている。自覚できているだけまだマシか。
そろそろ別荘から立ち去ろうとしたとき、インターホンが鳴った。来客が直接ボタンを押すことはないから、警官が押したことになる。
「もう、何ですの?」
応答のボタンを押し、外の警官に毒婦が訊くと、
「トイレを、お貸しください!」
切羽詰まっているのが声色でわかった。相当に限界が来ているのだろう。
そんな僕らをお構いなしに、鍵を開けてもらった警官がどたばたとトイレに駆け込んだ。すると、もう一人同じようにトイレ目当てに中に入ってきた。
何事だ?
骨刃警視は扉越しに苦悶する警官に問うた。
「何か腹を壊すようなことした?」
「いえ、思い当たる節は」
「じゃあ、何を食べた? 今が午後二時だから昼食をとったんじゃない?」
「はい……家から持ってきていたパンを。でも、賞味期限は来ていませんし、すぐに食べきりました」
「他には何も口にしてないの?」
「はい。あ……」
「何? 正直に言って」
「ジュースを、いただきました」
「いただいたっていうのは?」
「毒婦です。手作りの、バナナジュースでした。彼女は、ろくに食べ物を口にしていないのに、私達には差入れをくださるんです」
毒婦の差し入れで腹を壊したのか? 一人でなく、二人も腹を下すとなると、偶然とは思えない。
ワンピースの胸元をぎゅっと掴み、不安そうにしている毒婦に、
「差し入れに使ったバナナは傷んでたの?」
「そんなはずないわ。私も今朝同じ房のものを食べたもの」
バナナ自体が腐っていたのではないとすれば、誰かが下剤を混ぜたのか? 面倒なことになった。
詳しく差し入れについて確認すると、毒婦は毎日十三時になると警備の人数分のバナナジュースのカップを蓋なしでアイスボックスに入れて玄関ポーチに置いているらしい。玄関ポーチのカメラ映像を確認してみると、不審な動きを見せた者はいないかったが、カメラの角度的にアイスボックスを身体で覆う格好になる。ジュースを取るときにさりげなく下剤を仕込まれては判別できない。
下剤を入れた犯人には、何の目的がある?
またもや余計な謎が一つ。
玄関ポーチの日陰にすっぽりと収まるようにして骨刃警視と意見を交わす。
「下剤を仕込んだ警官を特定するのは難しそうですね」
「そうだね」
「何の目的でこんなことをしたんでしょう? 警官を減らすのが目的だったとか?」
「だったら、二人分と言わずもっと多くのカップに下剤を入れたんじゃない?」
「確かにそうですね。しかし、容疑のかかっている警官を警備に当たらせるのは不味くないですか?」
「ただ、今すぐ警官全員を外して新たな人員を用意するのは難しい。人員が手配できるまでは、警備は二人一組での行動を徹底させて、有毒夫妻には警官を中に入れないよう言っておくしかない」
警備を手薄にすることなく乗り切るには骨刃警視の提案が最善策だ。宮司に電話で事情を伝えると、代わりが揃うまではこちらの提案通りの対応で凌ぐことになった。
警察庁に戻るため門に向かうと、先ほどの植木職人が脚立に足をかけ、鋏を片手にぼうっと屋敷を見つめていた。
日焼けした肌、発達した背筋が逆三角形の上半身を作り上げている。男盛りといった年齢だ。
骨刃警視とアイコンタクトをし、庭師の背後から声をかけた。
「ここには良く?」
庭師は肩をびくつかせると、怯えた顔つきで振り返り、何ですか、と訊いた。警戒した顔つきとは似合わない猿だとか軽業師だとかに近い手足の運び方で脚立からするすると降りてきた彼に質問を繰り返す。
「ここには良く来られるんですか?」
「え? ああ、はい、いや、月イチっすね」
年齢よりも落ち着きのない言葉が返ってきた。
横から骨刃警視が訊く。
「随分いい時計つけてますね? そのブランドって最低二百万とかするはずだけど、庭師ってそんなに儲かります?」
「ああ……これは」庭師がブルーゴールドのメタリック腕時計を手首を曲げながら自分の顔に近づける。「もらいもんです」
「誰からのプレゼント?」
「それは……ていうか、何でそんなこと訊くんすか? 最近、お巡りがこうやって屋敷を見張ってて落ち着かないんすよ」
「勤め先はここから近い?」
「いや、車飛ばして四十分くらいすかね」
「じゃあ、通り掛かることはまずない。それでどうして最近になって警官が警備してるのを知っているのか。あんた、毒婦と不倫してんじゃない?」
唇を震わせる庭師の手から滑り落ちた鋏が、芝生に突き刺さった。
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