9

「浴室が密室だったから、オーバースペックによる事故って決めつけてんの?」

「鬼塚警視もそんなはずはないと捜査を続けているそうです。上層部はこれ以上警察の面目を潰したくないんでしょう。事故死とすれば、不手際にはならない」

「真犯人を野放しにする方がよっぽど危険だってのに」


 再度臨場して検証をしている中、刑事局長が事故として処理するように電話してきた、宮司課長から連絡があったのだ。浴室の内側から鍵が掛かっていたことがその理由だった。


「こんな簡易的な打掛錠なんて、氷やドライアイスを使えば自動で掛かるようにできる」


 遺体発見時に無理矢理こじ開けたからひしゃげてしまっているが、錆びた蔓のようなデザインの打掛錠が浴室側に取り付けられていただけ。蔓の部分を氷で斜めに固定、溶けたときに受けの部分に嵌るとロックされる。もはやミステリでも使われないレベルの仕掛けで事足りる。

 浴室乾燥の影響で、浴室内の温度は四十度を超えていた。垂れた水滴が蒸発してしまったのだろう。

 製氷皿には氷がなかったらしいが、冷凍庫に球状の氷を作ることのできるプラスチック製の型があったと報告もあった。型は二つあり、二つとも空だった。


「上層部の考えた筋書きは、オーバースペックの兆候が出たときに被害者が寒気を感じ、浴室へ。そこで能力が暴走して全身が凍った。そういう筋書きですね。まだはっきりと反証できる証拠は出てきていませんが、それなら給湯機能がオンになっていたり、シャワーが出しっぱなしになっていたりすると思うんです」

「うん。あと、鍵を掛けていたのも変。だいぶ錆びてるし、一度掛け金を下ろすと、外すのに力が要ったはず。そんなものを一人しかいない状態でわざわざ使うとは思えない。玄関に鍵がかかっていなかったんだから、何者かが氷妃を凍らせて殺害。密室トリックを仕掛けて逃走した。こっちの方が無理がない」

「ただ逃走経路は限られています。護衛で立っていたヒーローの彼は騒動の最中もずっとエレベーターを見張っていましたから。となると侵入、逃走には非常階段を使ったということになります。五十五階の非常ドアのデッドボルトが飛び出さないように瞬間接着剤を流し込まれる細工がしてあったとかで、非常ドアは外からも開閉できる状態だったと判明しています」


 非常階段には防犯カメラが設置されていなかった。仮にカメラがあったとして、映像が消去されてしまっている以上、役には立たなかっただろうが。


「その細工はいつから?」

「今朝の時点では異常はなかったと」

「なるほど。彼の証言は信用に値するの?」

「現状、最有力の容疑者候補です。今も拘束はしないにせよ、聴取の名目で身柄は抑えています」

「そう。死亡推定時刻は?」

「それが、凍っていた遺体が浴室乾燥の温風で急速に温められたため、時間が特定することが難しいそうで。最後に目撃された時刻と遺体を発見した時刻の間に殺害されたとしか」


 氷妃の遺体が青紫色に変色した上、やや膨張していたのは急速に身体が凍ったことによる体積の膨張が原因だった。冷凍された生魚が解凍されるときのドリップのように、表皮に体液が滲んでいた。

 全身を凍結して殺害する行為は犯人の倫理観の欠如を表すだけでなく、法医学的な手掛かりを大きく損なわせた。


「じゃあ、今日の出来事を時系列で整理してくれない?」


 僕は手帳に書いておいた時間表を彼女に見せた。

 

  08時00分 ヒーローの警備開始

  10時20分 宅配物到着(配達員は男。マスク着用のため不確か。荷物は男が抱える)

  10時22分 配達員がエレベーターで降りる

  10時31分 亜怪対に氷妃から電話あり

  10時40分 配達員が退館

  10時53分 尾竹、骨刃警視来訪

  11時12分 尾竹、骨刃警視退出

  同時刻  NHLF襲来

  11時25分 尾竹のスマートフォンにメッセージあり

  11時30分 骨刃警視がNHLF制圧

  13時12分 尾竹、骨刃警視が氷妃の遺体を確認


「僕らが彼女と会った十一時十二分から、僕らが彼女の遺体を発見する十三時十二分までに、氷妃が殺害されたとしか判断できないということです。二時間ありますから、殺害して密室トリックを仕掛ける余裕はあったと」

「結果としてその時間になっただけで、時間の長短はあくまでも不確かだったはず。そして、NHLFによるテロと氷妃の殺害はきっと無関係じゃない。テロに皆の意識が向かっている最中に、殺害と逃走を図る計画だったんだとしたら、氷妃を殺害した犯人は」


 ちらりと僕を見て先を促した。


「NHLFを誘い込んだ張本人ということになりますね。となると、僕のスマートフォンに奴らの居場所を示すメッセージを送ってきたのも、NHLFの目的を認識していたはずの犯人、かもしれないと」


 そういうことになるね、と骨刃警視が頷いた。

 彼女は浴室の中まで足を踏み入れ、ルミノール反応が出た浴槽のタイルの壁を見つめた。見た目上は何も残っていないが、床から約百七十センチの高さから、拳大の楕円から彗星のような尾を下に向かって伸ばしているような形がブラックライトを当てたときの写真には残っていた。血を水で流したことで、尾が作られたと見て良い。


「氷妃の頭部に傷は?」

「解剖前の検視によれば、臀部や背中に内出血らしきものが見られたそうですが、凍傷の影響が大きく断言できないと。逆に言えば、それ以外目立つ傷が見られなかったとのことです」

「高さや形状からして壁にあった血は頭をかなり強くぶつけたときのもの。頭に傷がなかったということは、壁に頭部をぶつけたときには氷妃の再生能力がまだ生きていた。それなのに、痣は残っている。サマエルを投与された可能性が高いね。行方を探していたサマエルが使用されたと見るべきか。ちなみに、有毒夫妻には警備をつけてるんでしょ?」

「ええ。狙いが四英傑にあることが明らかになりましたから」

 頷きながら、血痕に関する別の情報を思い出した。

「打掛錠の蔓部分の先端と、脱ぎ捨てられたワンピースのショルダー部分にも、僅かにルミノール反応が出ました」

「明らかにおかしい。頭をぶつけた血がワンピースに付着しているとしたら、服を着たまま浴室に入り、頭をぶつけ、それから服を脱いだことになる。やっぱり、これは他殺で間違いない」


 間髪を入れず、矛盾を指摘する警視を見るに思考速度は全快したようだ。

 彼女は浴室を出て、何かを探し始めた。未だ証拠採取に励む鑑識官らの間を擦り抜け、あちこちの部屋の扉を開けては、なぞるように目を動かしているだけだが。


「何を探してるんですか?」

「段ボール」


 熱心に探しているものにしては幾分地味ではなかろうか。


「今朝配達があったなら、まだ捨ててないだろうし、中身が気にならない?」


 言われてみると、俄然気になり始めたが、宅配物に関する報告はない。となれば、既に中身は取り出されて段ボールは解体されたのだろう。

 平らにされた段ボールはキッチンの冷蔵庫横のスペースにいくつかまとめて置いてあった。

 段ボールに宛名等がプリントされたシールが貼られていないか確認してみると、一つだけ剥がされているものがあった。


「シールの塵は?」


 鑑識官に問うと、そのような物は発見されていない、と言った。


「氷妃本人が剥がしたなら現場にないのはおかしい。犯人にとって都合が悪くて、剥がしたことになるけど、段ボールを解体したのはどうして? 段ボール自体にも証拠が残ってしまう状況だった?」


 骨刃警視は段ボールを手に取り、再び組み立てて海外旅行用のキャリーバッグほどのサイズの箱に戻した。箱の上面のフラップ部分が合わさる位置に真っ直ぐ貼られたガムテープは刃物ですっぱり切断され、切断部分が段ボールから剥がれていた。

 底面を上にすると、同じようにフラップの繋ぎ目に合わせて貼られたガムテープが切断され、ガムテープの切断面が箱にめり込んでいた。切れ味が悪かったのかいくつか切れ込みが入っていた。

 カッターがキッチンのシンク横の調理台に置いてあった。刃先は折られたばかりのようだった。長さからして折ったのは一度きりで、欠片がカッターの脇に置かれたままだった。

 警視がカッターの刃先に指の腹をぴとぴとと触れさせて、粘着剤がついてない、と首を傾げ、今度は欠片に指先をつけて欠片がひっつくのを確認した。

 次に骨刃警視が目を留めたのは、仕舞われた段ボールの間に紛れていた透明な板だった。


「これは……ガラスじゃなくてアクリル板か。大きさはさっきの段ボールの底面と変わらないくらい」


 どうしてこんなものが。アクリル板の大きさからして底面にピタリと嵌る段ボールは一つしかない。

 首を傾げていたとき、鬼塚から電話があった。息がマイクにかかっているのか、吹雪のような雑音が邪魔をして聞き取りづらい。


『――おいオタク、犯人が絞り込めたぞ』


 鬼塚による勝利宣言だった。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 十六階にある危険物保管室に行くと、額に汗を浮かべ両膝に手をついた鬼塚と、汗一つかかず直立する縣が待ち構えていた。


「骨刃、体調は大丈夫なのか? まあ、安心していい。犯人は容疑者候補のあいつらを問い詰めればじきに特定できる。お前はせいぜい休んでいろ」


 サスペンダーをむっちりした胸でぱちんと鳴らし、励ましと嘲り半々の台詞を吐いた。縣はそれを冷めた目で見ている。


「犯人を絞り込んだことを伝えるために、こんな場所に僕らを呼んだ理由は何でしょう?」

「オタク、少しは頭を使え。危険物と遺体のあの状態。関連づけられるものがあるだろう。NHLFの襲来後、ビルから逃亡できる状態にはない。さらに現在ビルの中に、低温化の能力を持つ者は確認できていない。残るは科学的手法だ」

 尾竹という僕の名字とヒーロー好きの癖を掛けた渾名で鬼塚が呼ぶのはいつものことだった。

「液体窒素でしょ?」

 鬼塚は玩具を太い眉を片方上げ、親にゲームを隠された子供のように不貞腐れた顔で鼻を鳴らした。

「そうだ。液体窒素は巨大なタンクからデュワー瓶と呼ばれる容器に移し替え使用するが、そのデュワー瓶に一つ使用された痕跡があった。今日の昼頃液体窒素が注入されたと見ていい。こっちだ」


 鬼塚のあとについていくと、『危険』の文字や、危機感を促進する黄色いマークが目についた。

 檻のような構造のフェンス内に、人の背丈近くある金属製のタンクが三つ置かれている。


「これが液体窒素のタンクだ。フェンスの内側に入るには鍵が必要だが、鍵は倉庫内にあり、利用者なら誰でも場所は知っていた」


 説明の途中、フェンスの横にあるロッカーと、銭湯の自販機で販売されている牛乳瓶を太らせたような形状で上部にバルブのついた瓶を指さした。先程のタンクの子供のようなサイズ感だった。これが、デュワー瓶。


「デュワー瓶と、それを収納しているロッカーだ。ロッカーは施錠はされてなかった。管理者に確認してもらったが、デュワー瓶の個数等、変化はなし。ちなみにフェンスの鍵はロッカーの内側に引っ掛けてある」


 鬼塚はデュワー瓶の蓋を取り外し、見てみろ、と親指を向けた。

 瓶の中は、スーパーマーケットの冷凍庫のように霜がおりていた。


「見ての通り液体窒素はないが、霜がある。最近になって液体窒素を注入して瓶が冷やされたんだ。瓶の表面にも結露が起きている。瓶の大きさからして、人ひとりを凍らせるにはギリギリの容量らしい。

 液体窒素を取り出した人間までは特定できないが、保管室に入るにはカードが必要になる。カードの認証記録はハッキング被害を受けていなかった。持ち運ぶ液体窒素はもたもたしていたら気化して必要量を下回るからな。氷妃が最後に目撃された十一時以降に保管室を使用した人間のリストを用意させた。全て男性の研究員。全員、液体窒素なんか使っていないと言っているがどうだかな。今、手の空いている捜査員にきつく取り調べさせているからお前らは帰って寝とけ」


 鬼塚は、手をひらひらと振った。

 鬼塚の推理は理論上は可能だが、綱渡り過ぎるように思えた。

 横で骨刃警視が問う。


「浴室の壁の血は?」

「浴室のドアの下部には通気孔があった。浴室のドアを閉め、換気扇を停止した状態で液体窒素を通気孔から噴射する。急速に酸素濃度が低下すれば、亜人といえど一時的に気絶する。気絶して倒れたとき、頭をぶつけたと考えれば辻褄が合う。亜人の場合、酸素濃度が戻れば低酸素脳症になることもなく意識が戻るが、その前にサマエルを飲ませればいい。気絶している間に肉体を凍らせ、密室トリックを仕掛けて逃走した」

「液体窒素をそんなに使って量は足りるの?」

「だったら、頭を壁にぶつけて気を失わせたんだ」

「脳震盪ぐらいのダメージじゃ、亜人は一瞬で目を覚ます。脳に損傷を与えるような力じゃないと一定期間気を失うことはない。デュワー瓶なんて目につきやすいものを手にしている犯人相手に、氷妃が無防備過ぎない? それに、デュワー瓶って何キロあるの?」

「二十キロほどだ。持ち運べないほどじゃない」

「エレベーター前で警備してたヒーローの証言を信じるなら、犯人は非常階段で移動した。かなりの重量のある容器を非常階段で持ち運ばないといけない。少なくとも、四十階から五十五階まで。非常階段で誰かに見られる可能性だってあるのに」


 犯行前に既に体力を使い果たしているとなれば、犯行を成し遂げることができるとは思えない。人目を気にしなければいけないなら尚更、犯行達成が遠くなる。


「火事場の馬鹿力だろ。デュワー瓶を何かで覆っておけば言い訳もできる。なんだ、さっきから文句ばかり並べて。そんなに気に入らんなら、お前らが犯人を指摘してみろ。できないだろう」


 幅の広い両肩を、大黒天のようなぷっくりとした耳朶の高さまで怒らせ、節くれ立った指をこちらに向けた。そのあとも喚き散らした挙げ句、怒ることに疲弊したのか、拗ねたような態度で鬼塚は保管室をあとにした。


「今のは無視してください」

 縣が頭を下げ、鬼塚の後を追った。彼は彼で大変そうだ。

「癇癪起こした子供じゃないんだから」


 やれやれと肩を竦めて骨刃警視は言った。

 顎に手を当て、どう評価するべきか考える。

 液体窒素が使用された痕跡は確かに気になるが、ただ単に研究に使用するためだった可能性も否定できないはずだ。鬼塚の推理は勇み足ではないだろうか。

 とはいえ、能力に頼らずに殺害した場合は液体窒素を使用したと考えるのが順当だ。しかし、非常階段を使用しなければならないネックがある。

 ジレンマだ。堂々とエレベーターを使えたら、良かったのに。

 頭にある閃きが訪れた。


「骨刃警視、液体窒素を配達員になりすまして運んだとしたらどうでしょうか? 犯行自体は一度帰ってから実施した。ほら、あのアクリル板は段ボールの強度の弱い底面を補うものだったんですよ。デュワー瓶が底を突き破らないようにしていたんです」

「鬼塚が言うには液体窒素は犯行直前に持ち出さないと瓶から気化した液体窒素が漏れ出すせいで量が足りなくなるんでしょ? 配達員がエレベーターに乗ってやって来たのは十時二十分だから、犯行時には相当量が漏れてるんじゃない?」


 閃きは勘違いだった。警視による指摘以外にも、粗はいくつもありそうだ。

 答えが出ないまま、氷妃の部屋に戻った。


「鴉楼に低温化能力を持った亜人がいないこと、どうやって確認したの?」

「サマエルを使われたら意味がないので、一人ひとり血液検査をしたわけではないそうです。このビルに入るには本来パスを発行してもらう必要があります。その際に、血液検査と、亜人判定された場合には能力詳細の申告と能力を実際に見せます。その結果はパスに登録されますから、ゲート通過時のデータにはそれらが紐付けられる。そのデータがハッキングの被害を免れていた、ので確認できた。今回はパスの貸し借りが行われていないことを確認するため、顔とパスの顔写真を見比べたということです」

「パスの登録時以降に能力に目覚めた可能性は?」

「低いと思います。ひと月ごとにパスを更新する必要がありますから。次回のタイミングでバレます」

「宅配業者にも同じパスを?」

「いえ、臨時パスをその都度貸出します。血液検査はしませんし、身分証明書を偽造されたらアウトです」

「そっか」


 そう呟くと、骨刃警視は部屋をぐるぐる歩き始めた。

 邪魔をしないよう静かに見守っていたとき、メールが届いた。


「配達員は偽でした。事件と無関係ではないでしょう。エレベーターを降りてからパスを返却して退館するまでの時間、配達員は何をしていたんでしょうか?」

「偽の業者なら違う荷物を配達することもないわけだし。もしかしたら、警官を油断させるために、非常口の鍵がかからないように細工だけしてひとまずエレベーターで降りて、非常階段から再び五十五階に戻ったとか? だけど、退館が氷妃の死亡前だから実行犯にはなりえない」

「配達員の行方は目下捜索中とのことですので、見つかれば不法侵入罪で身柄を抑えられるんですが……あともう一点、打掛錠の蔓部分に被害者の唾液がついていたそうです」

「唾液――」


 瞳が、骨刃警視の瞳が揺れた。

 やがて瞼がおり、静謐な空気が彼女を包み込む。眠たげに目が開き、断定した。


「やっぱり、低温化能力者の仕業だ」

「それはどうしてです?」

「打掛錠には唾液だけでなく、ルミノール反応もあった。これが何を意味するのかわかる? 難しく考えなくていいから」

「それは、打掛錠を舐めた?」

「その通り。続きは浴室で話そう」


 促されるまま浴室に足を踏み入れる。骨刃警視は浴槽の中に立った。バスルームで二人きりというのはどうにも居心地が悪い。


「続き、いい?」

「勿論です」

「まず、壁の血だけど、気絶して倒れたときに打ったなら、もっと下の位置、例えば浴槽の縁に血がつく。誰かが彼女の頭を勢い良くぶつけたと考えるべき。そして、氷妃は脳のダメージが回復するまで気絶した。その隙に注射針等でサマエルを投与、注射痕はまだ再生能力があるタイミングで引き抜けば残らない。ここまではいい?」

「はい」

 頷くと、骨刃警視はゆったりと湯船に浸かるような姿勢をとった。

「氷妃はなぜ打掛錠を舐めたのか。氷妃は、舌で打掛錠を外そうとした」

「そうか、錆びていて外れる前に舌を怪我したんですね? しかし、どうして舌なんかで」

「それは他に使える身体の部位がなかったから」

「使える部位? それは手足を縛られていたということですか?」

 骨刃警視は首を振った。

「それはあり得ない。サマエルを投与されてからきつく縛られればあとが残るし、密室トリックをしかけたあとなら、ロープが現場に残っていないといけない」

 手足を縛ることなく、動きを制限する。そんなことが可能なのか?

「遺体の傷を、思い出して」

「氷妃のご遺体には凍傷以外、目立つ傷はなかったと」

「逆に言えば凍傷はあった」

 凍傷は、あった。頭に電流が通過した。

「……んですね?」

「正解。浴室の外に出て、扉を閉めて?」


 言う通りに浴室を出て、扉を閉める。

 扉越しに、少し籠もった声が聞こえた。


「仮に今、鍵が掛かっているとしよう。目を覚ました氷妃は手足が凍り、鍵が掛けられていることに気づく。既に浴室乾燥が作動していたかもしれない。彼女は、このままではサマエルの効力が切れる前に脱水症状で死んでしまうと危機を感じた。痣をつくりながらも何とか浴槽から這い出て、打掛錠に到達。舌で錠を外そうとするけど、錆びていて舌の力では外れない」


 話しながら骨刃警視が浴槽から扉の前に移動するのが磨りガラス越しに見えた。正座をしながら顎を上げ、打掛錠が設置されていた部分を舐めるふりをする。綺麗な顎から首のラインが艶めかしかった。磨りガラスが間になければ、直視できなかっただろう。

 ――いや、待てよ。そういうことか。

 僕はドアを開け、骨刃警視に言った。


「通気孔から液体窒素を噴射する場合、どうやっても全身を万遍無く凍らせることは不可能です」

「そういうこと。扉越しに凍らせるには、どうしても低温化能力が必要。サマエルを投与したあと、水で薄めた自分の血を喉奥に直接注いだりして、血を仕込んでおいた。そして、二度に分けて能力を発動した」

「では、液体窒素を使用した痕跡は何だったんでしょう?」

「ミスリードのために液体窒素を容器に入れ、保管室の中で使い切った。あそこには換気口があったから、窒息の危険もない」

「なるほど。となると、液体窒素の減少量を気にする必要はない。十一時以前に保管室に入退室した人物も容疑者候補になりますね。不本意ですが、鬼塚さんにも連携しておきます」


 鬼塚に電話を掛けるが繋がらず、縣にメッセージを送ると、入退室者のリストをPDFファイルで転送してくれた。

 リストを確認すると、思わぬ人物が記載されていた。


「忍野研究室長が使用者にいます。ガサ入れが終わったあと、入室したようです。無関係とは思えません」

「今も足止めしているから忍野はビルにいるはず。身柄を拘束して、血液検査が陽性なら逮捕状を請求できる」


 目を合わせ頷き合う。

 これで事件の全貌が明らかになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る