5
新幹線と特急を乗り継いでやって来たのは滋賀県O市の動物園だった。平日でありながら、家族連れが多く、揃いのスーツ姿の僕と骨刃警視は幸せそうな雰囲気の中でとびきり浮いていた。
入場ゲートの上に目をやると、ポップな字体で〈みんなのびわ動物園〉と書いてある扇形の看板がある。至るところに動物の写真やデフォルメされたパンダやキリン、シマウマ等のイラストがプリントされている。純粋な来園者の胸を高鳴らせる演出だ。
骨刃警視が手団扇をしながら訊いた。
「ミツロウは動物園何年ぶり?」
「高校のときに男女三対三にするための人数合わせで来たとき以来です。あれが地獄で足が遠のきました」
「地獄って?」
「色々あって最終的に独りで爬虫類コーナーにいました。薄暗かったですが、とても涼めました」
「なんか、ごめん」
「いえ。ちなみに似たような話が水族館と遊園地でもあります」
「あ、うん。やめよう、この話」
軽口を交わしているが、ただ来園するために滋賀県まで訪れたのではなく、捜査の一環だった。氷妃と有毒夫妻への任意での聴取には他のコンビが当てられ、忍野研究室への奇襲――奇襲にはならなかったが――は二度とはできない。考えた末、僕らは坂口朋美の以前の職場を当たることにした。
忍野一二三が薬学部出身の研究者だったのに対して、坂口朋美は慶明大学院で生物学博士課程を修了していた。加えて、坂口の前の職場は野生動物研究所というまたも薬学分野とは縁遠い場所だったのだ。
忍野が率いる研究室に転籍することになった理由に手がかりがあるのではないか。あるいは、過去の研究内容からサマエルについて推測できないか、という骨刃警視の案だった。
僕らは来園者が通るゲートではなく、関係者以外立ち入り禁止の貼り紙のある扉の前まで行き、ブザーを鳴らした。スピーカーからやや覇気のない声がした。
『はい、ご要件は何でしょう?』
「警察です。本日、園内の野生動物研究所にお伺いさせていただきたいのですが。事前に研究所の方には電話でアポはとっております」
『はぁ、警察、ですか。少々お待ち下さい、今そっちに向かいます』
一、二分待つと、スピーカーの声と同じ、髪を後ろで一つに束ねた二十歳そこそこの女性が出てきた。身分証明書を見せてほしいと言うので、警察手帳を提示する。
「始めて見ました、刑事さんなんて」
興味津々といった様子で僕らを失礼なまでにじろじろ見ながら、ゲストと書かれた紐付きのカードと園内の地図を渡してくれた。
「研究所はゲートを抜けた左奥にあります。道中もたくさん動物たちがいますので、良かったら会いにいってあげてください」
会うという表現に動物への愛を感じて、殺伐とした気持ちがやや和らぐ。
地図と目の前の動物の位置を見比べつつ、園内を歩いた。骨刃警視は時々、やや不細工に思える動物の前で僅かな時間立ち止まり、かわいい、と呟いた。
二十分以上、園内を歩いて突っ切ると、年季の入ったベージュの建物が現れた。外壁の塗装面には暗雲から落ちる雷のように枝分かれしたヒビが入っている。潤沢な活動資金に恵まれている、のではなさそうだった。
正面玄関脇の小窓から警備員に声を掛け、渡された入館証と警察手帳を見せる。見慣れぬ手帳に警備員はあからさまに怪訝そうな顔をしたけれど、手元の紙に伝達事項が書いてあったらしく、館内図がプリントされた藁半紙をくれた。
「今、担当の人を呼びますから、ここで待っといてください」
関西弁訛りで言うと、警備員は受話器を耳に当てた。
言われた通り待っていると、くすんでしまったガラス扉から、朴訥とした雰囲気の長身の男が白衣を羽織ったまま出てきた。痩せ細った身体に小さな頭が乗っている様はマッチ棒のようだった。
後頭部をぽりぽり掻きながら、ぎこちない会釈を寄越した。
「はじめまして。坂口君の上司だった
都筑は僕らと積極的に目線を合わそうとせず、ずっと独り言を続けているかのようだった。
どのような施設なのか尋ねると、ガラス扉を抜けて正面の壁に貼られたフロアマップを指し示しながら、施設について一通り説明をしてくれた。
施設の七割は研究室に割かれ、残りは保護した野生動物と実験動物の飼育スペース。僕の目には新鮮だったが、都筑は終始つまらなそうに紹介した。さきほどの動物園の飼育員と違い、動物への愛情は持たないタイプなのだろうか。
都筑に従い、彼が室長を務める研究室――坂口朋美が在籍していた――まで移動した。電話した際に彼女が在籍していた時期に働いていたのは都筑しか残っていないと言うので、彼に話を訊くことになっていた。
事前に他の研究員達を出て行かせていたらしく、部屋には僕らと都筑だけだった。
一時的に動物を入れておくのであろう大きなゲージがあるほか、実験器具の収納された棚、机があった。ドアの正面の壁の前には上部に箱型のアクリルがついた台が置かれており、アクリル部分には腕を差し入れるための穴が二つ空いていた。スポイトと試験管で作業する様子が想像できる。壁や天井は年季が入っていたが、忍野研究室とは違い整理が行き届いているから汚らしい印象は受けなかった。
口を開いたのは都筑からだった。
「坂口君が失踪したんでしたね……彼女を送り出すとき、嫌な予感はしていましたが」
「嫌な予感というのは?」
「国際英雄機関から彼女がヘッドハント、引き抜きの打診があったとき、妙だなと思ったのです。坂口君に対して、こちらに勤めていた頃の倍以上の額を提示してきたそうですよ」
「倍というのは異例なんですか?」
「全くないわけではありません。坂口君は非常に優秀でしたし、取材に来た大学生相手にも丁寧な言葉遣いで腰を低くして対応するような人でした。しかし、研究していたのは動物が罹る感染症です。金儲けに繋がらない研究者にそんな金額が提示されることはありえません」
となると、謎は深まるばかりだ。
「彼女が研究していた動物感染症の研究とはどんな?」
「ああ、丁度いいものが残っていますよ」都筑は立ち上がり、棚の上段に入っていた一つのバインダーを引き抜いた。「スポンサー企業向けに作成した説明資料です。論文よりは遥かに一般向けにしてあります。坂口君がメインに、私が補佐に入っていた小さなプロジェクトでした。研究自体には深く関与していなかったので私の名前は書かれていません」
バインダーの表面には〈感染症による猿の先天性奇形〉と印字されたシールが貼ってあった。
「感染による先天性の症状とは、どういう意味ですか?」
「元は親猿が菌あるいはウイルスを持っていて、胎内の子猿に伝染り、奇形児として産まれたという趣旨です。奇形がどんなものかは資料の写真を見てください。内容は全て英語表記ですから、補足は私が」
資料をぱらぱら捲り、現れた写真に映っていたのは、一匹の子猿だった。尻尾が本来生えるべき場所に細い足が余計に生えていた。
「この子猿は、近くの山でフィールドワーク中に坂口君が偶然発見しました。たった一匹、瀕死の状態で。保護しましたが、数日のうちに死亡。原因を調査していると、既存の感染症のような病変が生じていました。子猿に軽度の脳炎が起きていたんですね。山にもう一度入ると、奇形の子猿を抱いた親猿を発見し、子猿には高熱と脳炎が生じているとわかりました。狭いコミュニティの個体で同様の症状が出ていたことから、奇形は何らかの感染症が原因と考え、調査をしたのですが、原因となる病原体は突き止められませんでした」
写真の子猿の潤んだ目が辛そうで、僕はバインダーを閉じた。
「大人の猿には奇形症状は出ないのですか?」
「サンプルが少ないですから何とも言えませんね。たまたま裏山の成長後の猿に奇形症状が出なかっただけという可能性もあります」
「そうですか。この研究は、どんな評価を受けていましたか?」
都筑はゆっくりと首を振る。
「論文にまとめる前に彼女はここを出ていきましたから、査読者の目にすら触れておりません。私としてもこの研究は前段階を精査しないといけないと彼女には言っていました。脳炎と奇形が本当に関連しているのか、そこを明確にしないと、無駄な時間を費やすことになりますから」
「国際英雄機関がこの研究を認識していた可能性は?」
「学会ではまだ公開していませんでしたが、研究者のコミュニティーで同じような症状の動物を見たことはないかアンケートをとったんです。そこから、話が伝わった可能性はあります。ただ、どちらにしろ亜人とは何も関係がない研究です。引き抜きの原因は、研究とは別にあったと考えるのが自然ではありませんか? きっと、専門外の研究を無理矢理させられ、精神的にプレッシャーを感じていたのでしょう。彼女は優秀でしたが、人は皆……脆いですから」
彼の虚空を見つめる瞳がひんやりとした怒りを宿しているように見えた。
忍野研究室で発見された微かな血痕から検出されたDNA型は坂口朋美のものと同一だと正式な鑑定結果が出ている。未だ生存を信じている都筑には伝えられなかった。
「今日はありがとうごさいました」
骨刃警視が椅子から立ち上がり言った。手元の論文を手に取り、訊いた。
「最後に一つ、この論文と説明資料、お借りしても?」
「紙でなくて、電子データをお渡ししますよ」
都筑は骨刃警視の手から紙の束を預かると、僕宛てにメールを送信してくれた。
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