第二章 多大なる犠牲者
1
粉雪が舞ったような白色の世界の中で、凶悪な一頭が暴れ狂っていた。
寒い。いや、湿気が纏わりつくような気もする。
一頭には人の腕よりも大きな牙が猿のような面から生えている。絨毯のような体毛、だらしない寸胴、そこから発出した獅子のような四肢。しかし、目を引くのは別のもの。
全身を覆う無数の眼球。
それら全てが別の方向を睨んでいた。いや、泣いている?
牙から垂れた血を中心に、世界が色づき始めた。
象徴的なファッションビルに、多種多様な人間が行き交うスクランブル交差点。
そうだ。悲劇は渋谷で起こった。
あれは、佐藤美紀が怪人化した姿だ。
突然、轟音とともに怪人が姿を消した。近くのビルに突っ込んだのだ。駆けつけたヒーローが殴りつけ、突進した。ヒーローは怪人をふっ飛ばした反動にふらつくこともなく、剛胆さを誇示するように仁王立ちしている。
その余裕も長くは続かなかった。
砂埃から怪人が出てきたと思うと、牙で亜人を刺し殺し、そのまま腹に収めてしまった。亜人だけでなく、既に数十人が胃の中で消化され始めているだろう。
悲鳴は現場には響かない。
既に避難は完了している。しかし、それまでに死んだ人数が多すぎる。
美紀が怪人となったのは誰かと会った後、スクランブル交差点を歩いていたときだった。定点カメラに、その瞬間が映っていた。立ち止まり、喉を掻きむしるように苦しんだあと、変貌した。誰と会っていたのかは不明。ヒーローは、計三名死んだ。
Sランクの怪人出現は年に一度あるかどうか。出現すれば、Sランクのヒーローが討伐にあたるのが一般的だ。
この国にSランクヒーローは三名のみ。
毒ガス能力を持つマスタード、髑髏剣姫、そしてスマイル。
当時、マスタードは大型の怪人を討伐するためカナダに派遣されており、髑髏剣姫は宮城県にてAランク怪人を討伐中だった。
要請を受けたスマイルは現場に急行した。この時点では誰が怪人化したのか彼は知らなかった。
スマイルは笑っていた。
笑顔のまま怪人を、愛する妻を屠った。
スマイルの頬に付着した血がつるりと滑り落ちてきて、笑窪に溜まって、顎まで落ちた。高らかに笑声を上げる。
――ハッハッハ!
笑い声が頭に響いた。いつの間にか、心臓を突き刺すような叫声に変わった。
苦しい、息が――。
目を覚ましたのは亜怪対のデスクだった。枕代わりにしていた自分の腕が口を塞いでいる。腕にべたりとついた唾液が鼻まで辿り着いていた。
息苦しさ、気色の悪さから見た悪夢。
昨日の事件が大いに関係していることは間違いない。ぜえはあと肩を上げ下げして息をする僕を、窓から覗く残月が嘲笑っていた。
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事件発生翌朝、僕らは宮司課長ともども刑事局長室に呼ばれた。冷徹な印象の局長は眼鏡のレンズを拭きながら、有無を言わせぬ強い口調で言った。
「長官はこの度の一件は静観すると仰った。機関の隠蔽が原因である以上、任務にあたった君ら二人と上司である宮司への責任追及はしない。事件は、オーバースペックによる死亡ということになった。事件ではなく事故。よって、被疑者は存在しない。引き続き、サマエルの行方を探れ。くれぐれも機関に迷惑はかけるなよ」
顎をしゃくって局長室から出ていくよう命じた。反論をしてもどうにもならないことを熟知している僕らはそれに従った。
処分なしとなったことについてはひとまず安堵した。しかし、本当に事件を隠蔽するとは。隠蔽は一番の悪手だと認識しながらも、決めた。それほどの事態か。
悪い夢であってほしい。
皆、疲労の色が濃い。僕の顔も恐らく。骨刃警視の疲労は頭脳労働によるものだろうが。
再び我々のテリトリーに戻ると、宮司課長は亜怪対のメンバーを呼び集め、嘆いた。
「えらいことになった。えらいことだよ、全く。私達を飛ばさないということは畢竟、早急に事件を解決しろということだ。だが、どうだろう。有意な証拠が出てこない。事件の全貌も見えていない」
昨年度から課長になった宮司は、亜怪対に入るためだけに試験を突破した僕や骨刃警視とは違い出世に興味がある。今回の事件をどう捌くのかによって彼の将来が決まるのだから、その心労は計り知れない。
「実は、骨刃君はサマエルの行方に見当ついてたりして?」
「いえ」
同僚たちは起立している中、一人だけ椅子に背をもたれている骨刃警視が素っ気なく答えた。
「真面目に答えろ、骨刃!」
ワイシャツのボタンが弾け飛びそうなほどに腹の出た、鬼塚警視が顎下の肉を揺らして怒った。骨刃警視の配属前までは亜怪対のエースと言われていたと聞く。
「仲間内で争っている場合ではないよ、鬼塚君。本来はこれでも、スピード解決だ。骨刃君、乾について何か思うことはあるかい?」
「乾は一つの駒でしかなく、首謀者が別にいるらしいってことですかね」
骨刃警視の指摘に宮司が顎に手を当て頷いた。
「乾にはサマエルを盗み出させ、スマイルを殺させる。用済みとなった彼は自殺に見せかけて殺され、サマエルは首謀者の元へ。その首謀者を突き止めるのが、結局は近道ということか。まぁ、どこの誰かもわかっていないんだけどねぇ」
「いえ……そうでもないかもしれません」僕の頭には朧げな犯人の姿が浮かんでいた。「今回の事件、登場人物はまだいますから」
宮司は手入れのされていない眉を片方くいっと上げた。
「というと?」
「これです」
骨刃警視が透き通った肌が光る片手でひらひらと見覚えのある紙を靡かせた。
「何だい、それは?」
「ちょっと、勝手に持ち出したんですか?」
「指紋がついてないことは鑑識から聞いた」
「だから、それは、何さ?」
宮司課長が痺れを切らしたため、手紙と訳アリ遺族の情報が印刷された紙がスマイルの自宅にあったことを説明した。
「そういう大事なことは早く言ってくれよ。まぁ、いい。ひとまず、遺族を洗おうか」
五十名ほどの亜怪対の捜査員が一斉に頷くと、宮司は臨時会議の終わりを告げることもなく、へろへろとデスクに突っ伏した。
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