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「家がもぬけの殻だなんて、どういうことでしょう? 所有する車でホテルを出るところを映した映像は確かにあったと連絡があったのに」


 問いに答えることなく、骨刃警視は何かを早口で呟き続けていた。ジャケットを肩に掛け、住民のいない部屋を物色している。そして、冷蔵庫を開けたとき顔を顰めた。


「腐ってる」


 部屋は全てのものがあるべき場所に収まっている。几帳面そうに思えるが、冷蔵庫で食い物を腐らせるとは。

 部屋の持ち主、乾を思い浮かべた。日焼けした肌に、薄っぺらい笑み。

 知っているのは表面的な部分だけだが、彼が世界一のヒーローを殺したとは未だに信じられなかった。

 スマイルがサマエルを口にする必要がなかったのなら、サマエルを混入させたタイミングはスマイルが席を立ったあと、でも良い。スマイルが急行してから骨刃警視がコップから目を離したのは、スマイルが炎上し、それをスクリーン近くまで行って確認したときだけだった。

 あのとき、席に座ったままだった乾なら混入することは容易い。思えば、検査結果を待っていたとき彼は、スマイルが飲んだものの中に混入しているか判明するまで待つのか、こう訊いた。

 スコーン等ではなく紅茶にサマエルが入っていたと最初から知っていたようだ。

 犯人はわかった。わからないのは――。

 なぜスマイルを殺したのか。

 乾の住むタワーマンションに来ても、行方知れず。マンションの立体駐車場に彼の車はない。

 骨刃警視が冷蔵庫をバンと音を立てて閉めた。


「乾には海に近い別荘があると思う。機関に住所を確認して、そこに応援を向かわせて」


 国際英雄機関に問い合わせると、乾は九十九里浜の海岸沿いに別荘を所有していると判明した。千葉県警に住所を伝え、急行を要請した。


「どうして別荘が海沿いにあるとわかったんです? 乾は別荘を複数所有していたのに」

「そんなのいい。私達も向かうよ。会って、話を聞く」


 マンションのエントランス前に停めておいたクラウンに乗り込み、パトライトを鳴動させた。

 ――待ってろよ、乾。

 浅い呼吸のまま、アクセルを踏み込んだ。

 京葉道路に入って数分後、骨刃警視のスマートフォンが鳴った。耳に当て、いくつか言葉を投げたあと、罵るような口調で訊く。


「死んだ?」


 弾かれるように助手席を見た。

 誰が死んだ? このタイミングで報告があったのだから、乾か? 他殺なら、殺されたと表現するだろう。


「乾が死んだんですか? 死因は?」

「死因も何も死体が見つかってない。乾の別荘の裏手にある崖に、革靴が揃えて置いてあった、って。崖下は高い波が打ち寄せていて、落下したのなら死体は既に流されただろうって」

「今は乾の思惑通り、毒公と乾に容疑が向いていると思っているはずなのにどうして自殺なんか……」

「本当に飛び降りたのか、死体がない以上、断言できない。偽装を行い、逃亡を図ろうとしている可能性もある」


 死んだと見せかければ捜査の手は自分に及ばない。自身が仕掛けたトリックはいずれ露呈するとふんで、思い切った行動に移した。尤もな筋書き。自殺だなんて幕引きは受け入れられないという思いもある。

 裁きは法の下で受けさせたかった。それが最強の英雄殺しであったとしても――。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 完全に日が沈んだ午後八時、現場到着後に遺書の置かれていた崖に向かった。崖はウッドデッキが突き出した別荘の裏手、玄関の正反対の位置にあった。

 組み立て式の強烈なライトの下、所轄の鑑識によって、着々と証拠の採取が進められている。別荘から崖の間の足跡はいくつもあり、どれが乾のものか突き止めるのは困難を極めそうだった。

 崖下を覗くと、音を伴って広がる闇に足が竦んだ。大量の海水が打ちつける轟音。実際の高さより、尖った岩が落下したときの悲惨さを想像させるから恐ろしかった。うっかり足を踏み外そうものなら、溺死の前に全身を岩に強く打ちつけたことで即死。岩に血液が付着しても波で洗い流されてしまう。

 遺書はワープロで書かれていた。前からスマイルが気に入らなかった。スマイルが出動したとき必ず着るヒーロースーツにサマエルの入った極小の注射器を仕込んだ。捜査を撹乱することができると考えて、コップにサマエルを入れた。逃げ切ることは無理だと思い、死ぬことにした。そんな内容だった。

 腕を組んで立ち話をしていた刑事に会釈して声を掛ける。


「何だ、あんたら?」

「亜怪対です」


 名乗ると、中年刑事の顔が引き攣り、背筋が伸びた。これでも一応警察庁のキャリア組だから階級で揉めることはない。


「自殺したと見せかけ、逃亡した可能性は?」

「否定はできませんが、家から何かを持ち出した形跡はありませんでした。乾の車は停まっていますし、歩いて逃走を図ったとも思えません。最寄りの駅の防犯カメラ映像は現在確認中ですが、今のところはそれらしい人物は映っていないそうです。その他のカメラ映像にも見当たりません」

「まだ家の中にいたりは?」

「隈なく探しましたが、誰一人いませんでした」

「そうですか……ありがとうございます」

「いえ……サマエルとやらは何なんです? 遺書を読む限り毒物のようですが、彼は毒殺されたわけではありませんよね?」

「それについてはお教えできません。臨場している他の警察官にも口外しないよう言っておいてくれませんか?」


 刑事の頬が引き攣った。心做しか顔色も悪くなっている。こりゃ藪蛇だったか、と察したらしい。

 都内の自宅も何か持ち出したような形跡はなかった。改めて部屋を捜索すれば、はっきりするだろう。

 つまり――乾はあの海に飛び込んだ可能性が高い。

 徒労感がどっと押し寄せた。

 いくら論理を用いて事実に辿り着こうとしても、被疑者が死んでしまっては元も子もない。毒づきたくなったが、悔しいのは狭霧さんの方だ。

 目を向けると、眉まわりの筋肉にうんと力の入った難しい顔をしていた。


「被疑者死亡で幕引きですね……」

「乾の死体が見つかり次第、そういう処理になるね。ミツロウはどう思う?」

「自殺を認めたくはありません。ですが、自殺を示唆する証拠ばかり並んでいますし」

「それが引っかかる。なんか不自然」

「不自然、ですか?」

「あんたは自殺する前に急いでワープロで遺書を認める?」


 確かに、捕まることを恐れて急いで自殺をしようとしたのなら、パソコンでタイピングをし、テキストを印刷するという手間はかけずに、単に手書きでいいはずだ。


「予め、この結末を計画に組み込んでいたということですか? 海への身投げなら死体が見つからなくても無理もなく、遺書は事前に用意していたから手書きではなかった。しかし、遺書には捜査の撹乱のために行ったコップへのサマエルの混入についても記載があります。スマイルがティーパーティーのタイミングで出動を迫られることはわからなかった。コップへの混入はスマイル出動後になって思いついたトリックなんですから、矛盾します」

「それはその通りなんだけど、やっぱり引っ掛かる。矛盾だとかは置いておいて、仮に乾の自殺が偽装なら、どこかに潜んでいて事態が落ち着いてから本格的に逃げるつもりってことになる。もしそうなら、完璧に身を隠し切るのは到底無理な話。人間が生きていたらその形跡がどこかに現れる」


 その戦法を使われると警察のマンパワーを注ぎ続けられる時間、と乾が耐え切れずに姿を現すか、の根性勝負になる。そのとき、負けるのは警察だ。犯罪は日々起こる。確証のない可能性に人員を割けるほどの余力はない。

 頭だけ働かせていても埒が明かない、と別荘内を捜索した。

 新証拠が見つかる一縷の望みを持っていたが、そう上手くはいかなかった。

 サーフボードが壁に立てかけられていたり、つい最近の撮影日時が印字された光る海と砂浜の写真が多く飾られていることから、乾の趣味がサーフィンがだということや、最近はこの別荘が生活の基盤になっていたこと。そして、自宅にも別荘にも乾が使い込んでいた扇子が見当たらないこと。その程度しか情報が追加されなかった。扇子は逃亡する際に持っていったのかもしれないし、乾ともども海の中にあるのかもしれないから、逡巡しても意味はない。

 手近な椅子を引いて、そこに腰掛けた。

 同じように椅子に座っている骨刃警視に声をかける。


「スマイルが亡くなって、これからどうなるんでしょう?」

「ニュース見てみれば? 国民の動揺がどの程度なのか予想がつかない。誰かに縋って生きていたい人にとっては〝神様〟だったんだろうから」


 スマートフォンで検索してみると、事件は目にしたことのないほどの影響を及ぼしていた。在京在阪の大手新聞社、テレビ各局のみならず、世界中の名の知れたメディアが報道している。事件について報じるもの、スマイルの功績を讃え追悼するもの、様々だ。

 印象的だったのは街頭インタビュー。サラリーマンの聖地とされる場所で、全く面識がないというサラリーマン同士で抱き合い号泣している場面だった。

 事実は報じられていない。機関の不手際によって生じた事件である以上、犯人のことも、サマエルの存在も報じない方向で落ち着くのではないか。捜査に関わった人間には厳しい箝口令を敷き、マスコミにも圧力をかける。あれはオーバースペックが起きたのだと言えば、国民は納得すると判断したのだろう。何のために亜怪対がいるのか、わからなくなりそうだった。

 待てよ。何か忘れている。鼓動が激しくなっているのに気づいた。


「乾は、乾はサマエルをどこへやったんでしょうか? 自宅マンションにはなく、別荘でも不審な液体が見つかったという報告は受けていません。他の別荘に保管してあるんでしょうか? もしどこにもないとしたら、サマエルは……他の誰かの手中に」


 言いながら、事態の深刻さをはっきりと認識し始めた。他の誰かがサマエルを手にしたとして、その誰かが善人である可能性は一パーセントもないだろう。事件は終わっていない。いや、新たに始まる可能性があるのだ。

 はじめの問いかけの時点で、骨刃警視の顔色は変わっていた。


「もう一度、念入りに捜索しよう。乾の所有する他の別荘にも人員を」


 どうか見つかってくれと願いながら捜索を続けたが、一向に見つからなかった。

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